俺としたことが、開設以来初めて他人様の記事をリブログさせて頂くということで。

 

とりあえず、外にゃんずの息災確認wは良き知らせだったとして、問題は下記、落武者氏の血圧安定を阻む行政の体たらくに関してだ。

 

能登大震災への政府を含めた行政の対応は異常です。 

ボランティアと言う自己完結型の自主的行動をも管理しようとする姿勢に、落武者は疑問を感じています。 

ましてや「来ないでくれ!」という石川県の馳はクズそのもの。 

何かを隠しているのか? 

見せたく無いものがあるのか? 

ボランティア活動に、ある程度の規制は必要であるものの、自ずと秩序は造られてくるものなのです。 

それはボランティアの方々もわかっている。 

その自主性の芽を摘むのは、被災者の心情や哀しみ、苦しさを理解していない官僚の驕りにしか見えません。 

裏金脱税問題も重要で、徹底的に解明し犯罪として立件すべきですが、それ以前に苦しんでいる同胞に対する支援が最優先。 

そこに目処を付けてから脱税政治家の追求すべき。 

能登復旧→衆議院解散総選挙→脱税政治家立件の順序を間違えないで欲しい。 

もう一度言います。 

今回の能登大震災への行政の対応は異常です💢

 

この落武者氏の主張に100%同意する。原発の被害を過少に公言したり、民間のドローンを早々と規制したり。何かあるんじゃないのか?と勘繰られても仕方ないことばかり。

 

震災発生当初のSNSでは、行政がボランティアを規制する動きを「瓦礫下の人名救助の邪魔になるから」とか「交通渋滞を助長するから」とか、如何にもな理由を付けて正当化する風潮がまかり通っていたが、それほど大量の無用なボランティアが一気に押し寄せて大混乱に至ったなんて図を、誰か見たことが有るのだろうか?

 

落武者氏の言うとおり、ある程度の規制は仕方ないにしても、ボランティアのような市民活動が決定的に制限されなければならない謂れなど本来無いはずだ。良い意味で秩序を保てる民族でもある。災害時にもパニックにならず整然と順番を待つでおなじみの日本人だ。ところが、SNSでの「我慢奨励ムーブメント」が仇にでもなったのか、ここへ来てボランティア数の不足がかえって問題になっているという。落武者氏がリンクを張った記事がこれだ。全文引用する。

 

 

■「プロとアマを区別してしまう空気」  

 

 1月中旬。「神戸国際支縁機構」(神戸市垂水区)のメンバーは石川県珠洲市に連絡を取り、医師や看護師と一緒に避難所を訪問した。そこに医師はおらず、避難者らの体調も心配されたが、活動を断られたという。市に問い合わせると、「現場に任せているので」と言われた。 

 

 国内外の被災地支援に携わってきた同機構。岩村義雄代表(75)は「能登では、災害派遣医療チーム(DMAT)など公的に認められた団体でなければ活動しにくい。プロとアマを区別してしまう空気がつくられてしまった」と嘆く。 

 

 背景の一つに、交通事情などを理由としたボランティアの自粛ムードがある。石川県によると、現地で活動した一般募集のボランティアは2月16日時点で、延べ2739人。公的なボラセンに登録し、活動した人数だ。同県は「個別に被災地に行くことはお控えください」と呼びかけている。 

 

 一方、食料や宿泊場所を自ら確保し、得意分野で支援する「専門ボランティア」は114団体が現地入り。国などと連携する「全国災害ボランティア支援団体ネットワーク(JVOAD)」がコーディネート役だが、神戸国際支縁機構など所属していない団体は活動していてもカウントされない

 

■東日本大震災でも 

 

 ボランティアの自粛ムードは東日本大震災(2011年)や熊本地震(16年)などでもみられた。

 

 議論の源流は阪神・淡路大震災だ。当時全国から駆けつけたボランティアの活動をどう捉えるか。「混乱」と「自由」の両側面が指摘されたが、大阪大大学院教授の渥美公秀さん(62)=災害社会学=は「行政側は『混乱』と捉え、全て管理したいという空気がその後、出てきた」と指摘し、続けた。「市民活動を信じない風潮が根底にある」 

 

 渥美さんによると、能登半島での活動を希望する学生もいるが、「SNS(交流サイト)でたたかれる」と萎縮し、被災地入りを諦めているという。渥美さんが副理事長のNPO法人「日本災害救援ボランティアネットワーク」(西宮市)は独自の拠点をつくり、ボランティアを受け入れるつもりだ。 

 

 「被災地NGO恊働センター」(神戸市兵庫区)顧問の村井雅清さん(73)も阪神・淡路で殺到したボランティアについて「行政は混乱したが、被災地は助かった」と振り返る。

 

 当時は多くがボランティア初心者。「失敗や間違いもあったが十人十色、みんな自分で考えて動いた」。聴覚障害者に気付いてもらえるよう「肩をたたいて」と書いたプラカードをぶら下げて歩く人もいた。 

 

 新たな市民社会の到来を感じさせた29年前を振り返り、村井さんは言う。 

 

 「市民が自主的に動ける文化がなくなっていると感じる。あの時のボランティアたちに申し訳ない」 

 

わが国には「行政に迷惑をかけるな」という謎のモチベーションが存在する。はっきり言うが、俺はこれが日本人最悪の汚点だと思う。人々が明確な理由も無しにそうした感覚を持つにいたったのはまさに行政の思うツボだ。歴史上の様々な事実に鑑みれば、行政が最も嫌うのは「混乱」であり、対して金科玉条のように掲げるのが「管理・統制」なのである。

 

果たしてこれが国民性によるものなのか判らんが、この国の人々は自らが一つの組織に属した途端、優先順位の先頭にその組織を置くようになってしまう。学校の部活動にしろ民間の会社組織にしろ、公共団体、自治体、政治組織など、あらゆる組織において完全に「その色」に染まり、明らかに「他の誰かのため」ではなく、その組織のために動くようになる。

 

この理不尽な性質は行政組織において最も悪質な結果を生む。何故なら本来行政は市民へのサービスを生業とするべき組織だからだ。にもかかわらず「組織のため」に動く職員だらけになるのだから、その生み出す害悪は最大である。

 

見ての通り証拠は明らかで、騒音が問題の公園は市民に諮ることなく廃止、政治的な匂いのするモニュメントは撤去、虐待事例にはことごとく当たり障りの無い対応で、混雑するイベントなどでは一律にベビーカー禁止、障碍を持つ児童であろうと就学時期は一般児童と「絶対に同じ」でなければならず、申請書類にはどうでもいい項目が虫眼鏡必須の大きさで並んでいる。

 

そんなことが何故彼らの組織のためになるのかさっぱり不明だが、少なくとも彼らは自分たちの仕事上の混乱を嫌い、完全に管理・統制された世界を渇望する結果、いずれも前例踏襲・トラブル回避の思想に沿った行動を取るようになっているのだ。ボランティアを拒否する姿勢も、理由は必ずしも「人命優先」だからではない。「行政側は『混乱』と捉え、全て管理したいという空気がその後、出てきた」と言われているとおり、市民の為ではなく自分たち組織の利を追う一環なのである。

 

これはまさに我が国の行政組織に根付いた慢性的病(やまい)と言えるモノなのだが、何故かこの国の人々は行政信仰とも言える妙な感覚を持っており、世の中に何かトラブルがあると必ずや行政がなんとかしてくれると本気で思い込んでいるフシがある。ハンナ・アーレントに言われるまでもなく、だ。

 

なわけねーだろ!といくら突っ込んでも動じないほど強固な信仰であきれかえるばかりだが、そのあたりが、つまりは自らが主として物事を捉えるべき民主主義の馴染まない、古より囲われ飼われることに慣らされた国民性と言えるのかも知れない。これは落武者氏も言っていたが、歴史上一度も市民革命を起こしたことのない、軍事クーデター任せな流浪の民が持つ悲しき性なのだろうか。そう考えれば、「市民活動を信じない風潮が根底にある」 というのは普通に頷ける話だ。

 

結局、そういうものに「頼っていれば」何とかなる、皆が頼ろうとしているのだから「邪魔するな」という感覚なのである。自らは動くことも無く、主体性を持たない、所謂「他力本願」的な感覚を信仰する人々。そういう人々が今日の日本における従順な羊の群れを作り、行政組織と同様に前例踏襲、管理・統制を望み、野党よりマシな自民を持ち上げて今までやって来た訳だ。明治政府が欧米列強と対峙すべく「万世一系の天皇は神」と嘯いて国民を易々と全体主義にまとめ上げたのは奇跡でも何でもない。支配され、お上に手を合わせて拝むことが大好きな民族の末路だったというだけの話だ。

 

そんな悲しき結末に晒された人々の本質を、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシが「自発的隷従論」に著している。16世紀フランスの若者によるこの書物には、面白いほどに日本人そのものが描かれていて笑いしか出て来ない。隷従するものはその「習慣」によって隷従を続ける。我々はいつまでこの「隷従」を止めないのだろうか。それを止めない限り、少なくとも民主主義だなどとは恥ずかしくて言えない。しかしながら、皆が自ら「この国の主」であることを自覚するなんて、この「頼りっきり」の民に本当に起こり得ると思うか?

 

その点について、正直俺はもう、救いようの無いほど悲観しているのだが。