細部に突っ込みどころが無いわけでは無いのだが、現時点では世情を俯瞰する秀逸な記事だと思う。

 

 

是非とも一読を。

内容詳細は本記事に任すとして、ここでは結論を引用しておきたい。

 

これからは、「イデオロギーレベルの全否定合戦」のバカバカしさに皆で気づいていって、いかに徹底的に具体的な工夫を、右とか左とか関係なく積んでいけるか?が大事な時代になります。 

 

「被災地に生きる人々」を「政治的主張」のためのネタとしてオモチャにするべきではありません。 

 

具体的でリアルな議論ができる国にしていきましょう。 

 

互いに擁護したい者を擁護して、批判したい者を批判するだけの争いになってはいないか?というのがこの筆者の問いかけだ。俺は別の視点から全体主義の高まりを危惧する記事を書いたが、そのような扇動を恣意的に行う者は、例えば「ボランティアは一律に素人」「行政は常に適切に動くもの」といった十把一絡の主張を展開する点で、この筆者の言う「解像度の低さ」をあえて利用しているものと考えられる。

 

災害時の混乱が全体主義に与するのは、必然的にあらゆる事象の解像度が下がるからだ。情報が不足し、不安が高まり、焦りが生まれるが、扇動者はまさにそこを狙っている。異分子を排除し、より原理主義的に人々を導くに絶好のタイミングとなるので、ここぞとばかりに「一緒くた」「十把一絡」「クソミソ一緒」を繰り出そうとする。が、冷静に見れば判るとおり、こいつらの言うことはデマと紙一重である。決定的に誤情報を与える訳では無いが、例えば「ボランティアは一律に素人」といった漠然としたイメージを拡散して「誤認」に導くからだ。

 

勘違いしてはならないのは、全体主義は誰かが「全体主義を作り出そう」として紡がれるものではないということだ。たとえるなら、渋谷の街角で人が行列を為している店があれば、さらに行列に加わる人が増加して膨大な数になるといったケースに近い。最初は何となく吊られただけなのに、結果的に全体主義に加担してしまっているというのが実態であり、そのきっかけを作る、または加速させるのが扇動者の役割となる。

 

俺はこのところ、そのまんま東が極めて悪質な存在であると感じている。山本太郎に恣意的に「イメージ」を被せて脊髄反射的批判を加えたこともそうだが、松本人志の騒動では現状で全く真偽不明、先行きは完全に不透明であるにも関わらず、Youtubeで「日本は名誉棄損の損害賠償額が安すぎる」「文春は確証を取らず、証言者の言い分を垂れ流す」「松本は毅然と裁判すべき」「歴史的な裁判になる」などと、明らかに己本位の好き勝手な主張を拡散している。

 

自らが文春と法廷で戦った経験を踏まえてという前提らしいのだが、「あくまで私は中立」と言いながら、完全に文春・週刊誌側を敵と見なした立ち位置としか思えない話を延々と続けていて見識を疑う。まるで個人的恨みを晴らす目的のようだ。

 

山本のフライングにしろ松本のスキャンダルにしろ、テメーが高見の見物で知り得る確定的情報など微塵も無かろうに。自らの知らぬこと、判断しかねるモノは黙って見届けるのが道理であり、わざわざしゃしゃり出て一方への「良からぬイメージ」を醸成し、大勢のバカをあらぬ方向に導くのは、少なくとも政治家の資質を持つ者が取るべき行動ではない。いかにも扇動家の振る舞いではないか。ほとんど裏を取ることなく反射的に情報を放射するその姿勢は、デマ屋の資質を十分に備えた証拠にも見える。この男の「畳みかけるような語り口」には十分気を付けた方が良いと思う。