結局、学んでいない者は皆同じことを言い始める。これは全体主義だということに気づきもしないのだからな。

 

 

東国原氏は山本氏が被災地入りし、炊き出しを食べたことが波紋という記事を引用し「山本君、現場に行きたい気持ちは分かる。我慢出来ないのかな?今、何を優先すべきか分からないかな?」とつづり、行動に首をかしげた。 

 

山本がいったい何を我慢しなければならないと言うのか。いったい何を優先すべきだと言うのか。個人としての行動はことごとく邪魔であり、政府の仕切る行いのすべてが正しく、常に100パーセントを満たしているという考えを生み出すのは、すっかり言いくるめられた全体主義の感性であり「権力を疑わない」羊の群れの思想である。

 

判で押したように「個人の行動を訝る」言説が世に満ちれば、それは逆に政府の正当性を後押しする効果しか生まない。が、政府が下す判断が必ずしも正しい訳で無いことはこの国の長い歴史の中ですでに証明されている。

 

混沌とした状況の中、被災地の需要に真に思いを馳せるなら、ただ闇雲に「政府を信じろ」の文脈で個人の行動を咎めている場合ではなく、個人が力を発揮するために必要な「詳細な情報提供」を行うよう、政府に迫るべきだろう。

 

能登の状況を見て多くの国民が「動きが遅い」と感じるのは、実際に遅いかどうかではなく、「動きが見えない」ことに要因がある。つまり、状況判断に必要な情報を得られてないということだ。現実にどのような計画で何がどう進められているのか、政府が迅速に正しい情報を提供できていればそういうことにはならない。

 

なにが「我慢出来ないのかな?」だ。逆にこれほど実態が見えない現状で、よくもそんな悠長に「我慢」していられるものだと感心する。とんだ「他人事」だな。

 

もちろん、誰しもが我慢せずに現地入りすべきだとは言わない。が、少なくとも我慢出来ずに行った人間に対して、ネット上で「何を優先すべきなのか」などと無意味な説教をするぐらいなら、政府のヌルい広報に苦言を呈した上で、「だからこそこういう人が出てくるのだ」と嘆く方がまだマシだという話をしている。個人の行動は邪魔だから控えろという一方的な主張は、どう転んでも全体主義の推進にしか寄与しないのだ。

 

「災害時には政府が救ってくれる。」 無意識のまま全体主義に陥った典型的なニッポン人の姿がこれである。山本は今回に限らず、これまでも日本全国の被災地で自ら支援活動に体を張ってきた。調べてみるがいい。口だけでオデコの広さを見せつけるしか能のない輩に、果たして山本の真似が出来るのか。

 

タイムリーにハンナ・アーレントに関する記事が出ているので引用する。アーレントはナチス・ドイツの全体主義から逃れ、のちに有名な「全体主義の起源」を著したユダヤ人哲学者だ。

 

 

この地上に生きる人は一人ではなく、多数の人々です。その一人ひとりはユニークで、ひとつの枠にくくることはできません。アーレントはこれを複数性と呼びました。このように多様な人が生きる社会においては、公共性が確保されることが重要です。 

 

しかし、私的な共同体の根底にあるのは食欲などの生存本能です(これを「共通の本性」と呼びます)。ですから、世の中がパニックに陥ると、人々は物事を他人任せにしてしまい、公共性が失われがちです。これが、全体主義が登場する要因になるのです。 

 

危機的状況は人々に、「複雑性を排してわかり易く」を望ませるための劇薬となる。

「公共」の概念は元来複雑性を担保すべきものだが、パニックに陥った人間はそんなものに関わる余裕すら失い、自らは何もすることなくすべてを人任せにしようとする。もともと自発的に隷従する傾向を持つ人間の習性を加速させるわけだ。だからこそ、国家間の対立や自然災害など、あらゆる危機的状況は「権力に利用されやすい」のである。

 

情報を小出しにして「差し控える」のが当たり前となった権力など、むしろ既に腐りきっており信用ならぬと喝破すべきであり、「災害時だから黙って従え」は愚鈍を通り越して滑稽だ。政治を金の話でしか考えず大局観を持たない「政治屋」は、本来の思想の枠組みを忘れているか、もしくは端から学んでもいないのだろう。そんな人間が声高に全体主義的思想を拡散し始めているのは、明らかに社会が危険に向かっている証拠なのだ。