全くその通りで、「安倍殺害事件」と「統一教会問題」は完全に分けて考えるべき、なのだが。

 

 

  1. 殺害事件において、安倍はその尊厳を踏みにじられた被害者である。山上は誰が見ても加害者なのだから断罪されて当然であり、決して同情されるべきものではない。明確に法の裁きが待ち受けている以上、我々は粛々と進められるその手続きをただ静観するのみである。
  2. だが統一教会問題においては、「日本はエバ国」などと説いて悪徳に金銭を貢がせ、半島へ資金流出させていた教団を公然と許しつつ、むしろその広告塔を務めて選挙協力の見返りを得ていた安倍は、明らかに被害者および国民に対して責任を負うべき立場であり、逆に山上はその代表的な被害者という位置付けになる。

冷静に「分けて」考えればこのような見方になって当然だ。

むしろこの2つをきちんと分けて考えることが出来ない者に限って、

 

「安倍は殺された側だから悪くない」

 

などと明らかに冷静さを欠き、「殺された」という現実感のみに心を占拠されて、一方的な感情移入を露わにした主張をしてしまうことになる。

 

またこのような主張をする者は、同時に「反社問題」と「宗教問題」をも混同させようとする傾向にある。

 

統一教会問題は「政治と宗教の問題」ではなく、明らかに「政治と反社の問題」である。自称宗教団体が反社・反日行為に手を染めている事実および政権与党に深く入り込んでお墨付きを得ている事実が問題なのであり、決して「政治と宗教の在り方全般」に拡大させて、他の宗教を巻き込むような問題ではない。

 

これらそれぞれの問題には明確な線引きが存在し、分けて考えることが充分に可能だ。にもかかわらず、口では「分けて考えるべき」と言いながら、実際にはそれらすべてを混同させて、焦点となる問題の濃度を薄めるねらいを持った主張があちこちから出て来ている。

 

そうした主張を意図的に撒き散らしているのは、まぎれもなく、安倍・自民を擁護出来ればそれで良いという人間ばかりだ。問題の本質などより、安倍・自民の名誉や立場、権力の維持を重視しているのだけなのだ。

 

これほどに判りやすい現象は他に無いだろう。

 

太田光、橋下徹、三浦瑠璃、古市憲寿、田崎史郎、杉村太蔵、平井文夫。

 

控えめに言って、クズばかりじゃないか。