安倍と統一教会の繋がりが犯人の恨みを買ったという因果が、どうやらこの事件の成り立ちらしいことが明らかになるに連れ、SNSでは「安倍さんは悪くない」「山上の母親が勝手に教会に貢いでいただけ」などと、安倍の「不徳」そのものを必死に打ち消そうとする言説が溢れ返って来ている。
 
中でも「殺された安倍さんに原因が有るような事を言うな!」「教会と繋がっていたら殺されても仕方が無いと言うのか!」などと完全に開き直り、わざわざ「殺人の是非」といった基本的倫理観にまで降りて踏み絵にして見せ、恫喝して、世論に因果関係の認識を修正させようと試みる者が非常に多い。
 
だがちょっと待て。誰も「安倍が不徳だから殺されて当然」だなんて言ってないだろう?

 

反社の宗教と政治家が繋がるのは政治哲学として明らかに不徳だ。安倍に不徳が有ったのは間違い無いし、無ければ犯人に狙われるはずもなかった。山上がネトウヨで安倍支持だったとすれば尚更だろう。

しかし、いくら安倍に不徳が有ったとしても殺されて良い訳が無いのだ。
たとえ統一教会がどれだけ不徳な組織でも、教会本部を爆破して良い訳が無いのと一緒だ。

もう、ただそれだけの話だろうに。

「不徳が原因」と述べるのと「殺されて当然」と言うのはイコールでは無い。冷静ならそれが判るはずだが、取り乱して混同するから勝手に血が上る。

安倍に不徳が有ると言われて取り乱すのは安倍信者だけだ。

あの嫌韓のヒーローが、日本の金を巻き上げて半島に貢ぐ宗教に「敬意」を表していたなんて知っても尚、その不徳すら受け入れ難いのだ。

 

あんな事になっても、「教会が悪い」とは絶対に言わない、山上の母親と同じ類の「妄信的」信者。

「救われるはずが救われぬ悲哀」は、皮肉なことに傍からしか見えぬ。信者が「信じる」のを止めて再び自分のアタマで考え始めるのは、いったい何時になるのだろうか。