全て自分都合で見てるからそうなるということが何故判らないのだろうか?

 

心の理論とは、他者の心的状態や行動を理解する機能・能力のこと。なぜ理論と呼ぶのかと言えば、「他者」は……その心の状態は「理論」として推定するしかないからである。だからこそ、様々な情報源や他者と接し、より正しい理論を構築することが肝要となるが、容疑者にはそれが足りなかったのではないだろうか。

一方の安倍氏は、その政治姿勢が論争の的になる人物だったが、心の理論には秀でていた。直接会った政治家の中でもその能力はトップクラスだった。そんな彼が心の理論が薄弱な者に殺されてしまったのは、非常に歯がゆい。

 

統一教会という長い歴史を持つ「反社教団」が多くの被害者を出し続けていることを十分に知りつつ、抗議文など完全に無視して繋がりを持ち続けた安倍が「心の理論に秀でていた」と言う。

 

要するに、統一教会に「顔」として利用され、その悪行に加担することで誘発される多数の被害者の「心」に馳せる想像力など全く無く、山上のように、人としての一生を無駄にせざるを得ないほどの「被害」に逢う者まで「見殺し」にしたとしても、単に「心の理論」さえ秀でていればそれで良いということらしい。

 

何だ?その理論はw

そんな理論に、一体どんな価値が有ると言うのか。

 

この「低」脳科学者の「低」能ぶりについてはこれまで何度も取り上げたが、彼は常に「あたかも科学」であるかのように自らのご都合を披露する。自分都合の一方的な論を展開しながら「低」能にますます拍車をかける。実に取るに足らない、存在の必要の無い学者であるとしか言いようが無い。

 

「『足りない』という結論が、犯人には当てはまるが、安倍には当てはまらない。」

 

そんな「一般化出来ない」理論はもとより科学でも何でも無いことぐらい、せめて理解出来る程度の科学的「低」能力を身につけるよう期待するが、十中八九それは無理だと諦める程度の能力が俺には有るので、別にどうでもいい。