「安倍さんが、ダメなことなんてするはずが無い」

 

安倍信者というのは必ずそこから入り、信じて疑わない。一度そのように信心を持ったら最後、簡単には抜けられない。

 

「教会が悪いことをするはずが無い」

 

統一教会信者も、言いくるめられて一瞬でも信心を抱いた途端、そう思うようになって抜けられなくなる。信じる対象が何であれ、信者というのはそういうものだ。

 

「信じる」という言葉は一見ポジティブに見えるが、実は「考えるのをやめる」と同義の言葉だ。日本には、その成り立ち・伝統・文化の影響からか、「疑う」より「信じる」を尊ぶ人が多い。もちろん何でも疑っていてはキリが無いし、殺伐とした世の中になってしまう。でも、大事なことについては安直に信じるのではなく、大いに疑ってかかる必要があるはずだ。「疑う」ことこそ、すなわち「考える」ことだからだ。

 

安倍信者も統一教会信者も、人生の重要な場面で疑う=考えることをやめてしまった人たちである。安倍が教会と繋がっていたことなど夢にも思ってなかった人たちが、実は昔から繋がっていたんだよと知らされても、

 

「そんなわけが無い」

「安倍さんはそんな人じゃない」

「ちょっとした挨拶のメッセージに過ぎない」

「秘書が勝手に引き受けた」

 

などなど、荒唐無稽な言い訳で一生懸命に「安倍の汚点」から逃れようとする。何とも哀れなまでの姿だ。一度安倍を完全に信じて、考えるのをすっかりやめてしまったために、高価な壺や経典を買わされても疑わぬ被害者と同等の不幸を背負っている。

 

それでも、彼らにはそれが一向に理解出来ない。

人やモノや団体に強く信奉を寄せる者=信者は、それ自体をシアワセと思うようになってしまう。彼らにとっては、もはや考える意味すら無くなったのだ。

 

信じる=考えるのをやめることが、どれだけ悲惨か。

 

まさに今この現実を目に焼き付け、肝に銘じ、重要な岐路に立った時には物事を「疑って」かかろう。誰かが何かを言うのを聞く時、たとえ強く心惹かれても、「考える自分」は決して捨てるな。自分の中で、他の誰の言葉よりも、ある特定の人の言葉が常に勝ってしまうとしたら、自分は既に考えるのをやめてしまっているのかも知れない。