相関係数は、n個のデータに対して



で定められる。ただし、



とした。


相関係数の定義式は一見複雑な形をしているが、ベクトルを使うと簡潔に書ける。実際、




とすれば、相関係数は、



と書ける。これはベクトルを使って書き変えただけだが、



を使えば、ペンギンさらに、



となる。θは2つのベクトルがなす角である。

ペンギンn次元ベクトルでも成り立つことは認めるとする。ペンギン


イメージを養うため、n=3の場合を考える。

3個のデータに対して、相関係数が、



で定められる。

ベクトルは、第1成分にx_1の平均からのずれ、第2成分にx_2の平均からのずれ、第3成分にx_3の平均からのずれを置いてできる3次元ベクトルである。(下図)

の方も同様である。

よってθは、からのずれと、からのずれとの差異を表している。

θ=0°なら、平均からのずれ方が、xとyで全く同じということである。つまり、

よって、

すべてのkに対して、

バーの付いてるところは定数であることに注意すれば、すべてのデータが直線上にあることがわかる。ゆえに、xとyには相関がある。このとき相関係数は、cos0°=1である。

θ=180°なら、平均からのずれ方が、xとyで真逆ということである。つまり、

さっきと同じように考えると、すべてのデータが直線上にあることがわかる。ゆえに、xとyは相関がある。このとき相関係数は、cos180°=-1である。

また、θ=90°なら、相関は望めそうにない。相関係数は、cos90°=0


<まとめ>

相関係数というのは、データの平均からの“ずれベクトル”のなす角θの余弦である。
内積が何を意味するか、いろんな人が考えてきました。
内積は仕事であるとか、射影して伸ばした長さであるとか、三平方の定理の誤差の半分だとか、様々な解釈ができます。しかし、どれを採用するにしろ、いまいちわかった気にならないというのが実情ではないでしょうか。高校時代の筆者はそうでした。内積にはもっとわかりやすい決定的な“意味”があるに違いないと信じていたので、晴れない思いをしてきました。今は、まあこんなもんかとある意味あきらめてしまったのですが、一方で、いろんな側面をもっていることこそが、内積という概念の優れているところなのではないかと思っています。

今回は、内積の解釈として、面積に関連したものをご紹介したいと思います。内積の“意味”の決定的版!とはなりませんが、内積を理解する助けになれば幸いです。


まず、準備として次の等式を証明します。

高校数学ではあまり出て来ないかもしれませんが、この等式が成り立つということは、「内積は、長さを使って書ける」ということであり、なかなかすごい式です。(ちなみに、その逆「長さを内積を使って書く」のは簡単です。|x|=√→x・→xですネ。)

さて、証明に入りたいと思います。単なる式変形でできます。
<証明>

(証明おわり)

それでは、

を使って、内積の意味を見ていきましょう。

左辺の|→x+→y|、|→x-→y|は

のように平行四辺形の対角線の長さです。

これらの2乗|→x+→y|^2、|→x-→y|^2は、対角線がちょうど入る正方形の面積となり、その差|→x+→y|^2-|→x-→y|^2は、

の水色の部分となります。

よって、内積x・yは、水色の部分の面積の4分の1ということになります。


こうして見ると、内積は「2つの対角線がそれぞれ入るような2つの正方形が、どれくらい違うか」を表していると考えることができます。
→xと→yが直交している場合を考えると、平行四辺形は長方形となり、2つの対角線の長さは等しいので、たしかに正方形は同じ面積になっています。


ちなみに、今日使った、

は、polarization identityという名前が付いています。日本語に訳すと「極化等式」でしょうか。興味のある人は調べてみて下さい。
西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け
森本恭正 著
光文社新書 556
2011年 初版第1刷


しばらく前の『色彩論』につづき、新書の“論”ものです。
珍しく結局全部読めました。『色彩論』はまだ読み終わってないのに!

西洋音楽(クラシック音楽)は、従来自分たちが聴いてきたものと本当は違うんじゃないか、というようなことが手を変え品を変え語られます。クラシックはアップビートだとか、モーツァルトの曲は即興的な装飾を施されて弾かれていたとか、ベートーベンの「運命」は血が湧く音楽だったとか、第九は人類がほんとうに字義通り一つになってしまう感覚で書かれたとか、そういったことが書いてあります。

「狂気を聴け」というタイトルですが、狂気というか、「人間の感覚や認識の仕方を更新しよう!」というようなことが言いたいのだと思います。「通常の感覚ではなくて」という意味で「狂気」なのでしょう。こうした話題は最後のほうで暴露されますが、面白かったです。学校の図書館で『妻を帽子と間違えた男』を立ち読みして以来、この手のことはいつでも頭のどこかに控えています。人間の感覚や認識は、これからまだまだ開拓されていくことでしょう。数学もその手段の一つです。頑張って勉強すれば、通常の人間が持ち得ない認識を与えてくれるはずです。


さて、音楽には、身体に訴えてくるものがあります。思わず身体が動いてしまうというあれです。リズムが強い音楽が代表的かもしれませんが、リズムではない何かで身体に働きかけてくるものもあります(でも実はリズム?)。クラシックにもそういうものがありますが、本書に、ベルリオーズの先生がそういう音楽を聴いた逸話が紹介されています。ベルリオーズの先生はずっとベートーベンの音楽を乱暴だと言って嫌がっていましたが、「運命」を聴いた後、帽子をかぶる頭がどこにあるのか分からないくらい興奮してベートーベンを見直したということです。血わき肉躍るというやつでしょうか。「運命」が身体に訴えてきたのです。著者の森本さんもそういう経験があると書いています。残念ながら、(このブログの)筆者は「運命」にそのようなことを感じたことはないのですが、著者に言わせれば、そのような演奏はベートーベンの本来あるべき姿ではない、ということになります。(演奏というより筆者の感受性の問題かもしれない。)

でも、ダダダダーン!を聴いて「すごいリズムだ!」と思いますか? 筆者には、リズムよりも、なにか別の印象のほうが強いです。最近、人によって音楽に何を聴いているかはかなり異なっているという考えに取りつかれています。マイブームです。検証したわけではないけど、他人は宇宙人だと思って丁度いいくらいなんじゃないでしょうか。


ところで、本書には和楽器の話も出てきます。西洋の楽器は語りかけ、意見を聴かせるためのものだが、和楽器は風や水の音みたいな自然の音の範疇に入るもので、主張をもたない、というようなことが書いてあります。和楽器を弾きたくなりますね。自然の音は聴くだけでもきっといいことがあるでしょう。また、別に自然の音に限らず日常の音に耳を澄ますのはいいことだと思います。車の騒音にもなにしらいいところはあります。和楽器を弾く機会としては、中学校に箏があったのですが、一回も弾くことなく卒業してしまいました。(選択で洋楽器を選んでしまったんだ。)学校の音楽で「西洋楽器で主張してみよう」とか「和楽器で自然になりきろう」とかいう課題があったら面白そうです。

それと、どうでもいいですが、「~してみよう」とか「~ろう」とか言ってると思い出すのが、広中平祐さんの『可変思考で創造しよう』です。これは本であり、高校の図書室で見つけたのが今のところ唯一の出会いですが、タイトルがあまりにも強烈なため、いつまでも記憶に残っています。広中さんといえば・・・“四重帰納法”です。この言葉を知って以来、どこかで使えないかと機会をうかがってきましたが、二重帰納法さえ、いまだ一度も使えていません。そもそも、なにが二重なのかもわかってないので、使えるわけがないですが、どんなものなんでしょうか?「n=k+1のときを示すために、帰納法を使う」ってことでしょうか。たぶんそうだと思うのですが。。