今日、町の本屋で立ち読みしていたら、
『数学セミナー』は置いてなかったが、
『大学への数学』があった。

いつの間にか、表紙が
風景画から動物画に変わっていた。
なんとなく英単語の『ターゲット』を思わせる。
あるいは、「医療雑誌」的なものも連想させる、
一見「数学」とは思えない。

中身は、立ち読みだから、ちらっと見ただけだけど、
「物理のページ」でコンプトン効果に関する記事が
記載されていた。

なんでも、新課程になって原子分野からの出題増!が
噂されているらしい。。

原子分野といえば、筆者は学校で習わなかったし、
「出ても、他の分野の知識で解ける」程度の物しか
出題されないと言われていて、あまり勉強した覚えがない。
実は、一日か二日くらいは勉強したけど、
仕事関数の意味がわからなくて、
手持ちの教科書とか参考書を見たけど
やっぱりわからなかったという思い出くらいしかない。

しかし、統計が(データの分析)が、
センターに必須問題に昇格したように、
新課程になったことで、原子分野も
市民権を得ることは十分予想される。

---

今年は筆者にとって個人的に区切りの年となるので、
これを機にAccademia Nutsの内容も少し方向転換したい。

方向転換といっても180°変えるのではなくて、
自分の興味に合わせて、高校数学に限定するのを
止めたい、ということである。

これからは、高校数学より先の数学に対しても
同じことをしていきたいと考える。

先といっても、ちょっと先くらいになるが、
その辺の数学に疑問を持っている人もまた
大勢いると思うので、少しでも
記事の読者が増えたらなあと思っている。

また、同時に物理についてももっと書いていきたい。
さっき書いたように、新課程対応にもなるし、
量子力学を勉強したい。

しかし、以前、流体力学を勉強したい
と思って本を買っておきながら、
いつの間にか積読状態になっているので
そちらも何とかしたい。

こんな記事を書いてる間に勉強したほうが
いいかもしれない。

---

「勉強したい」と思うことはいくらでもある。

しかし、勉強をやり遂げるのは(たとえば一冊の本を
読み切るのは)難しい。

片づけの本を買って置きながら、なかなか片付かないのと
同じである。

反省は生かされないが、
「今年からは!」と思っている。

---

Accademia Nutsはもう少し手広くなる。

ので、どうぞご期待下さい。
あけましておめでとうございます。

昨年は、今までにないくらいたくさんの方々に、Accademia Nutsを訪れていただきました。

少しでも読みやすい記事になるよう努めて参りますので、興味をもたれた方は、今後ともよろしくお願いいたします。。


先日、なんとなくGoogleで「Accadedmia Nuts」を検索してみたところ、一番先頭に「accademianut」という美術講座が出て来ました。いつ出来たのか気になって、調べてみたところ、はっきりとは書いていないのですが、どうやら向こうの方が2年ほど早いようです。
しかし、筆者は美術の「accademianut」の存在を知らなかったので、決してパクッたわけではありません。たまたま同じになっただけです。そして、細かいことですが「accademianut」と「Accademia Nuts」では、「a」「n」の大文字小文字、空白、最後の「s」の有無が異なります。

美術講座の「accademianut」以外にも、過去に、ネットで検索すると、cが一個しかない海外ものの「アカデミアナッツ」が出てきたことがあります。そのときはcが2つの綴りはなかったように思うのですが、今回はc2個も被ってしましました。英語は確かc一個なので、日本人の方がccとしやすいのかもしれません。

美術講座さんのページを読むと「accademianut」という命名は、恩師によるもので「かわいい名前」だと思うと書かれていたように記憶しています。筆者もこの名前がいいと思って使っているので、その人とは気が合うかもしれません。

特に訴えられてもいないので、とりあえず、このブログは「Accademia Nuts」のまま行きます。



さて、
最後に数学の話で終わります。
今年の西暦2015を素因数分解して見ましょう。
5で割り切れるのはすぐわかりますが、2015=5・403のあとがちょっと難しい。

少し考えると、403は13で割り切れることがわかります。(素因数分解は「倍数の判定法」とあとは地道に割り算してみるしかありません。暗号に使われるくらいですから、一般には簡単に解く方法はありません。)
2015=5・13・31です。
うまい具合に、左右対称な

  13,31

が現れます。縁起がいいような気もします。
例年、西暦を使った問題が入試で出たり出なかったりしますが、2015の素因数分解はこのように微妙な難しさです。2015の問題は出題されるでしょうか??
[対話]20世紀数学の飛翔① 解析の表現したもの
青本和彦、志賀浩二 著
日本評論社 1992年


出版社を調べるのにページをめくっていて気付いたが、この本の表紙は、ゴーギャンの『我々は何処から来たのか?我々とは何か?我々は何処へ行くのか?』らしい。図書館で借りたのでカバーがないため、外見は灰色の無地だが、開いて1ページ目にゴーギャンの絵が印刷されている。南国の野外で女性がこっちを見ている絵である。絵だけ見ていると、まさかそんな題名だとは思わないので、題名は覚えていなかったが、絵は何処かで見たような絵である。生物学者のステントの書いた本で『進歩の終焉―来るべき黄金時代』というのがあるが、その表紙にも、たしかこの絵が使われていた。「将来のこと」や「何々の在り方」みたいなテーマのときは、この絵が好まれるようだ。

『解析の表現したもの』の著者、というか対談なので、むしろ話者だが、その一人、志賀浩二さんは『位相への30講』や『多様体』フグで、筆者にとっては馴染みがある。もう一人の青本和彦さんは本書で初めて知った宇宙人。青本さんのほうが9歳年上だが、対談の様子は、先輩後輩というよりは、友人どうしといった感じだった。志賀さんのほうがたくさん喋って、青本さんは短い発言が多い。志賀さんは自分の思っていることをどんどん言って、話を膨らましていくが、青本さんは冷静というか、慎重な話しぶり。

一番はじめに著者の略歴が載っている。そこに志賀さんが書いた「青本和彦さんのこと」という文章が載っているが、青本さんは特に文章を寄せていない。なぜ特に青本さんについてだけ文章が付いているのかは、読み終わった今もよくわからない。

フグ
『位相への30講』は全部は読まなかったがなかなか良い感じの本で、位相を勉強し始めたとき役に立った。開集合と閉集合で困ったら、『30講』の図を思い出して考えることがよくある。
『多様体』は大学に入る前の春に市立図書館で借りて「大学の数学とはこんなものか」と思って眺めた。今読んでも難しい(修業が足らない)が、こんな数学の本が図書館にあるというのは市民の誇りである。理解できないような本でも置いておいてほしい。


宇宙人
青本さんをネットで検索すると、京都産業大学のページに紹介されており、『直交多項式入門』や『20世紀数学の流れ』などいろいろな本を書いておられることもわかった。
Amazonレビューによると『直交多項式入門』は特殊関数の本らしいので今度チェックしよう。


さて、前置きが長くなったが、本書では、数学者が何を考えて、どういう信念のもとに数学をやっているのかが窺える。具体的な数学が引き合いに出されるので、数学の知識があって初めて共感できる部分が多いが、数式や図は一切出て来ない。数学者の顔写真はたくさん出て来くる。

数学というと「宇宙人にも伝わる」とか言われて、万国共通のイメージがあるが、数学的事実そのものは万国共通でも、それをどう見るかは人によって違うだろう。本書では、民族ごとに、数学者個人ごとに異なるといったことがしきりに議論されている。ワイルの数学書は音楽を聴いているようで、芸術的だけど「読み終わるとスーッと消えてしまう」とか、数学者個人の特徴に加えて、民族間の違いとしてユダヤ性がクローズアップされている。現代的な考えでは「この民族はこれが得意だ」とかいうのは怪しまれるかもしれませんが、少なくとも当時はそういうことが、自他共に認めるところだったらしい。

『数学のめざすもの』という章(p.109)で、数学は一つの認識であるということが言われている。そう考えると、普段の物の見方・考え方が違えば、数学の仕方も違ってきそうである。読んだ数学書の影響も大きいだろうが、どの数学書がその人合うかは、民族、というか育った環境や価値観に大きく左右されるのだろう。小説に好みの作家がいるようなものである。個人個人にあった数学があるというのは、ワクワクする話である。自分に合った本を読めばたちどころに理解できるなんてことはないだろうが、実用的な利点がなくても、数学に個性があるというのは面白い。「最近は酒の個性がなくなった」とかいう話を読んだことがあるが、もしかすると、数学の個性もワイルらの時代から比べるとだんだんなくなってきているのかもしれない。筆者は、個性を感じるほど数学に流暢でないから本当のところはわからないが、もしそうなら、今後、酒ともども個性を復活させる動きが出てくると思う。

最後に、本書を読んで印象に残ったことをひとつ書きたい。それは、ヒルベルト空間とバナッハ空間はずいぶん違うということである。高校生でもわかる範囲で言うと、ヒルベルト空間もバナッハ空間も、関数の集合なのだがクマノミ、ひとつ違うのが、ヒルベルト空間には内積があるが、バナッハ空間にはないということである。関数の内積というのが考えられるのか、高校数学的には疑問だが、実は、2つの関数をかけて積分したものが内積になる。「内積と類似のものになる」と言った方が高校数学的には安心かもしれない。いずれにせよ、内積があるかないかの差なのである。筆者の現在の見解としては、内積があるとは、すなわち角度があることであり、内積がないということは、角度は考えないということである。よって、二つの空間の違いは角度を考えるどうかということであって、ヒルベルト空間もバナッハ空間も同類である。

クマノミ
本当は必ずしも関数である必要はないのだが、関数でないなら何の集合なんだとか、疑問は尽きないので、関数の集合と思っておこう! それに実際、関数であることが多いし、バナッハやヒルベルトは関数を扱うためにそうした概念にたどりついた。

しかし、それらが誕生した背景にある考え方は異なる。(以下筆者が『解析の表現したもの』を読んで理解した範囲で書かせてもらう。ので、できるだけ気を付けるが不正確なこともあるかもしれない。正確な話は『解析の表現したもの』や数学の専門書をご覧ください。)ヒルベルト空間は積分を扱うためのものであり(だから内積がある)、積分方程式の固有値を調べる目的をもっていた。その結果、そのままではわかりにくいものを単純な構成成分に分解してわかりやすくする技術が発展した。これは「機械的に計算できる」に近いものであり、決まった手順従うだけでいろいろなことがわかるということである。料理でたとえると、ある手順に従うことで作りたい料理の材料と分量がわかるということである。どんな料理のレシピでも載ってる料理本を手に入れたようなものだ。
一方、バナッハ空間は、微分を扱うためにできた(だから内積はない)。ヒルベルト空間がマニュアル化で発展したのに対し、バナッハは「演繹体系を崩す(たぶん、論理的に正しいからだけじゃ嫌、という意味)」と言って、そういう風潮を嫌い、機械的に話を進めるのではなく、問題ごとにじっくり考える数学を提唱した。バナッハ空間はそのために、最小限必要なものをまとめた結果である。料理にたとえると、すばらしい包丁と鍋は用意したから、あとは食べる人に合わせていろいろ試行錯誤すれば腕も上がるでしょう、という感じだ。

以上、わかりやすさを重視して、正確さはわきに置いたつもりだが、果たしてうまくいっているだろうか。不正確な上によくわからんとなっているかもしれないが、今のところ、この辺が筆者の限界です。