今読んでいる本に、

「今の人は大学(教育学部)時代に全然学んできてない。斎藤喜博も知らない。」

といったことが書いてあった。

筆者は教育学部出ではないから斎藤喜博を知らないことが、どれほどのことかわからないが、バカにされているような気がして、さっそくネット調べてみた。

Wikipediaによれば、斎藤喜博(さいとうきはく)はアララギ派の歌人としても活躍した人で、教育方面では「授業」を追求した人であったらしい。

合唱教育もしいたらしく、詳しく読むと、斎藤が合唱曲集を出版したところ、作曲家の中田喜直(なかだよしなお)からハーモニーがでたらめと批判された、という逸話が書かれていた。

斎藤喜博なる人物とて不得意な分野はあったのだと、ちょっと安心するとともに、中田喜直のことを、先ほどの発言をした人は知っているのだろうか、「中田喜直も知らない。」と言ってやろうかと思ってみたりした。

しかし、今は人がどうこうより、自分のことが大切である。この機会に斎藤のことを簡単にでも知っておくべきだろう。

さらに読んで見ると、斎藤の合唱曲は、伝統的な地声による合唱であり、石造建築で歌う西洋の合唱とは別のものを目指したから、それはそれでいいのだ、という意見があることが書かれていた。

ここまでくると、実際に斎藤の合唱を聞いてみなくてはいけない。




ここで、筆者が合唱の録音を探してる間に、中田について書いておく。

中田は『ちいさい秋みつけた』(サトウハチロー作詞)や『夏の思い出』(江間章子作詞)の作曲家であり、音楽の教科書にはきっと載っている名前である。ちなみに『早春賦』(吉丸一昌作詞)を作曲した中田章は中田の父である。

さて、筆者は中田の『実用和声学―旋律に美しい和音をつけるために』(音楽之友社)という本を地元の図書館で借りたことがある。はじがきには、中田の、日本人の和声感覚に対する危機感が書かれている。

日本人は、でたらめな和音をつけてあっても平気にしている、というのである。

『実用和声学』は、与えられた旋律に自分で伴奏をつけながら学ぶ演習形式の本であり、筆者もピアノ弾きながら取り組んだ。返却期限になって途中で放棄してしまったが、いくつかの問題をといたことで、筆者も大して和声感覚がない人間であることがわかった。

正解を出せる問題もあったが、自分の解答と著者の解答例を比べて、ダメなところと良いところがいまいちはっきりしないことがあったからである。

素質のないものにとって、音楽の道は険しい。

しかしながら、本書に取り組んだことによって、少しは「正しい」ハーモニーの感覚を磨けたと思う。

ハーモニーが正しいか正しくないかに基準なんかあるのかと、なぜ中田のハーモニーが正しいといえるのかと思う人もいるかもしれない。中田のハーモニーが正しい証拠は、ちゃんと演習問題に取り組んで一度理解すれば、「たしかにこれは美しいハーモニーである」と言えるようになることにある。「わかってしまえば簡単」というが「正しさ」(あるいは「普遍性」)なのである。




斎藤作曲の録音を見つけることができたので、そちらの話に戻りたいと思う。

残念ながら当該の合唱曲はなかったが、ある学校の校歌を聴くことが出来た。元気な小学生の皆さんが歌っているもので、和音はほとんど歌詞の切れ目にしか聞こえないが、崩壊しているという印象は受けなかった。

しかし、ところどころ引っかかるところはあった。「自分が中田の演習問題で出くわしたら、この和声は付けない」という和声が出てきた。やはり斎藤の和音はおかしいのか。

しかし、念のためもう一度聴くと、なんだか自然に聞こえて来てとくに悪いところはないように思った。

「わかってしまえば簡単」などと言っておきながら、自分がなにもわかっていないことがわかった。斎藤がどうかはさておき、筆者の和声感覚が残念なものであることは確からしい。

さらにもう一回聴くと、今度は一回目におかしいと思ったところがわかって「なるほどここか」と感じた。しかし、面と向かって間違ってるとは言う自信はない。よくわからない。

歌の後ろでなっているピアノが聞こえたらもう少しわかるかもしれないが、ピアノは歌声にかき消されて合間にしか聞こえない。


結局、斎藤の和音が間違っているかどうかの検証は、筆者の音楽的センスのなさを露呈するだけで、うまくいかなかった。

合唱曲の方を是非聴いてみたいと思う。合唱の方がハーモニーを聴きとりやすいというのもあるが、地声をとりいれた日本に根差した合唱というのは興味深い。




それにしても「きはく」は変換されない。「よろこぶ・はかせ」とか入力してやらないといけないのは不便である。

あと、斎藤も中田も名前に「喜」が付く。最近身近に「喜」がついてる人見ないなあ。
ケータイは着信がくると光ってわかりやすい。

しかし、着信が来ていないのに光ったような気がする。

わきに置いてある手帳まで光った気がする。

ケータイの着信光が頭から離れないので、ケータイを持たないことにする。

大事な連絡が受け取れないことがある。

ケータイを持てと言われる。

光が見えないちょっと遠くに置くことにする。

着信に気付かない。

見えるところに置いておけと言われる。

困る。
ミッキーはなぜ口笛を吹くのか ―アニメーションの表現史―
細馬宏通 著
株式会社新潮社
2013年10月25日


図書館で借りて来て読んでいます。『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(以下『口笛』)はかなり前から置いてあったように思うのですが、発行年を見てみると意外に最近出た本です。タイトルが印象に残ってそんな気がしたのかもしれません。しかし、こんなにすぐに図書館に入っていいものなのでしょうかね。ちょっと心配です。

さて、ミッキーに興味はないので『口笛』を読むつもりはなかったのですが、少し前にNHKのテレビ番組『知の巨人たち 第8回 手塚治虫』で、ウォルト・ディズニーを初めとするアニメ創成期三人衆が紹介されたのがきっかけで昔のアニメに興味を持ちました。

初期のアニメとして、ミッキーマウスが口笛を吹きながら蒸気船を運転している映像を見たことがあり、ストーリーがある現代的なアニメはディズニーが始めたものだと思っていました。この番組で、ディズニーの他にあと二人いたことを知りました。

その二人が誰だったか覚えていないのですが『口笛』にそれらしき人が載っていたので、読んでみることにしたのです。

一人は、ウィンザー・マッケイ(1869~1934)です。『リトル・ニモ』『恐竜ガーティ』といった作品を作ったそうです。「ニモ」というとクマノミを想起してしまうのですが、それは『ファインディング・ニモ』で、マッケイのニモは魚ではなくて、男の子です。夢の世界でお姫様と遊んだり旅したりする話のようです。

ニモの綴りは“NEMO”でローマ字読みすればネモです。ネモといったら船長です。船長のイメージから逃れるためにわざと、かわいらしいニモという読みにしているのではないでしょうか。しかし、調べてみると、クマノミも綴りはNEMOでした。NEMOはニモと読むのが普通なのかもしれません。ところが、さらに調べてみると、ネモ船長もNEMOであることがわかりました。つまり、外国人の名前NEMOは、ニモと読まれたりネモと読まれたりしていることになります。

このような「使い分け」はいかがなものでしょうか。イメージに合わないからと言って読み方を変えるのは、意地悪な見方かもしれませんが“卑怯”だと思ってしまいます。ハリー・ポッターもそうです。ポッターの綴りはPotterですが、ピーター・ラビットの作者ビクトリクス・ポタ―の「ポタ―」も同じ綴りです。Potterにはすでにポタ―という訳があるにもかかわらず、ハリー・ポタ―では響きが悪いのか、ポッターに変えられています。

たしかにハリー・ポタ―ではしまりがないので、ポッターの方がいいですが、だからといって、以前から定着している訳語をなかったことにするのは、何と言うか、抵抗を覚えます。ニモ船長では雰囲気が出ないし、クマノミのネモではかわいさがありません。ですから仕方ないことであるとは思いますが、どうしてもそのようなことを毎度思ってしまうわけです。

それで、マッケイの話ですが、『口笛』には、マッケイが漫画家志望者向けの通信教育の教科書に書いた言葉が紹介されています。そこでマッケイは「とにかく描くことだ」と述べています。また自分は「うまくならなければ」と思って絵を描いたことはなく、衝動に駆られて描かずにはいられなかった、というようなことを言っています。

Youtubeでマッケイと思われる人が、壁に掛けたおおきな紙にニモとその仲間たちを、文字通りさらさらと描いていく姿を見ることが出来ます。時折、手を止めるので、何をしているのかと思えば、ペンにインクを付けているようです。初めて観た時は、しばらく何をしているのか分らず、気付いた瞬間、時代を感じました。現代では漫画家でもないと、いちいちインクを付けるペンなんか使わないですからね。

動画を見ると、マッケイは紛れもなくすごい技をもった人だったことがわかります。絵をたくさん描いてきた人だということが伝わってきます。当時は、人前で素早く絵を描きいろいろ変化させたりする見世物があり、マッケイもそれをやっていました。そういう時代だからこそ磨かれた技術なのだろうと思いたいところですが、現代でも、あのようにさらさらと描いてしまう器用な人はいることでしょう。

マッケイと現代人の大きな違いは、アニメの絵を全部手描きしたことです。当時はセルといって、透明な用紙に絵を描いて動く部分を描き背景を描く手間をはぶく手法が発明されていなかったので、背景も含めて全部手で描いていました。ついこの間まで手で描くこと自体は普通でしたが、セルを使わず本当に全部描いていたのは、初期だけなのではないでしょうか。

技術が未発達だったから仕方なったということもありますが、アシスタントのフェッツシモンズとともに一万枚もの絵を描いた根性はすごいです。絵を描きたくてしょうがない人でなければできないことです。

しかし、「絵が描きたくて仕方ない人」でも、アニメの絵というのは、少し違うだけの絵を無数に描き続けなければならないので、人によっては途中で嫌になるのではないでしょうか。マッケイは先述の通信教育の教科書で「自分の絵をとっておいたこともありません。欲しい人にはあげるし、でなければ捨ててしまいます」と書いています。マッケイにとっては、絵を描くという行為そのものに意味があり、出来あがった絵には執着しなかったようです。そういう気持ちの人ならば、アニメの絵を一万枚描くのも大変だとは感じなかったかもしれません。

最近読んだ『「人間力」の育て方』(堀田力著,集英社新書)に「ムリヤリ知識を詰め込むのは虐待である」というようなことが書かれていましたが、マッケイが絵の腕を上げた過程には、堀田氏も満足することでしょう。

ムリヤリ入れた知識は吸収されないというのは、真理を突いているように思われます。マッケイのように「好きこそものの上手なれ」で上達できれば幸福に違いありません。しかし、好きな科目ならばいざ知らず、興味もない分野でマッケイのようにやることは不可能です。結局(精神的苦痛を受けず)“安全に”勉強するには、どの分野にも興味を持つことが前提となるようです。

マッケイのようにすべて手で描くと、完成したアニメは背景すらも常に微動するものになります。『口笛』の著者はこれが「風景を冷たさから解放し息づかせ」「不思議な効果」を上げると言っています。実際、アナログなものに感じる“味”というか、手間を掛けただけのことはあるものに仕上がっていると思います。

最近ではCDでデジタル技術を使ってスパッときれいにしたものがありますが、洗練された良さがある一方で、味に欠けます。スライド(パワーポイントなど)に対する黒板もそうです。黒板では、下手なのは困るけど、なんとも魅力的な字や図を描く人がいるものです。スライドは、一見見やすそうですが、あまり見る気が起こらず画一性に飽きを感じることもあります。と一見思いますが、スライドも手間を掛ければよいものになりえます。

いづれにせよ、どこかに手間をかけなければ魅力ある作品を作ることはできないのです。

マッケイの動画を見てもうひとつ時代を感じたものがあります。それは樽の運び方です。動画ではアニメの前に、実写でマッケイがアニメを描くに至ったいきさつが撮られている(サイレントなのでよくわからないのですが、『口笛』によるとそういうことらしいです)のですが、マッケイの部屋に紙とインクを運ぶシーンがあります。男たちが巨大な紙の束とインクの入った“樽”を運んでくるのですが、樽はなんと縁を床に付けて転がして運ぶのです。たしかにこうやって運べば一人で運べて人員を節約できます。樽が運ばれているのをはじめて見たので、樽がまるいのはこのためだったのか!と感心しました。

えらく長くなってしましましたが、最後にマッケイのアニメ『リトル・ニモ』を観た感想を書いて終わります。


まず、カラーなのに驚きました。きれいです。となりにカラー版『月世界旅行』があったので、校正の人が色を付けたんじゃないかという疑いもありますが、画像を見た限り一枚一枚筆で塗っているようなのでおそらく本物でしょう。

フリップとジャングル小僧が駆けまわるところは少しわかりにくい。ジャングル小僧がテレポートするところなど大事なところがよく見えませんでした。テレポートだからゆっくりやるわけにもいかないのでしょうが、前後のシーンでもう少し強調できるのではないかと思います。冒頭のフリップがタバコの煙を後ろにやるシーンももっとゆっくりしてほしい。

一方、ニモが出てきた後の伸び縮みシーンは長い、という印象を受けました。だんだん柔軟になっていくのを描いているのですが、初見では変化がつかめず、同じことを繰り返しているように思えました。

夢の世界の乗り物であるドラゴンは、後ろを向いて歩いて行くところが非常にすばらしかったです。首のもたげ方、首の付け根が扁平なところ、しっぽの長さと動きが魅力的でした。ドラゴンと言うと、ハリー・ポッターの影響か背中に乗せて飛ぶものだと思っていましたが、このドラゴンが、口に乗せて歩いていきます。しかも、首を地面すれすれにしたまま。ストーリーの都合上飛ばないだけかもしれませんが、飛ばないやつもいるというドラゴン観は渋いと思います。口にいれて運ぶというと、不格好な感じがしますが、元ネタの新聞連載の漫画の話ではうまく説明しているようです。アニメも実際に観てみるとそれほど違和感はありません。歯がまるくなっているといった配慮も見られます。

あと、お姫様が出てくるまでニモのことをずっとお姫様だと思っていました。服がステキ過ぎです。

全体的に、人物が動く速さや各場面の長さを調整するともっと見やすくなると思いました。しかし、マッケイが重視したとされる奥行きの表現は効果を発揮しているし、登場人物のかわいらしさ(あるいは絵心)は気に入りました。

(おわり)