皇室典範が旧11宮家の皇籍復帰構想など男系男子の血筋を護る方向で改正された。だが、太古の天皇(大王)の諡号「入彦」には、入り婿という女系継承の痕跡が刻まれている。
欠史八代の後の崇神天皇の諡号は御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにえ)だが、2代前の孝元天皇の孫の御間城姫へ入り婿して、母系で皇統を引き継いだと推定されている。次の垂仁天皇の諡号も活目入彦五十狭茅(いくもいりびこいさち)と入彦を含んでいる。
近江か越前からやってきた継体天皇は、応神天皇の来孫(5代後)となっているが、応神と継体の間の系譜が記紀で何故か省かれており、この血筋は相当な確率で怪しまれている。そのため、継体天皇は越前からの妃でなく「河内王朝」仁賢天皇の皇女の手白香皇女(たしらかのひめみこ)を正妃とした。だが、その子の安閑天皇(兄)と宣化天皇(弟)は越前期の妃の子である。その次の欽明天皇は継体と正妃の子だが、その前に女系の相続があった訳だ。
関東学院大学の河内春人教授(こうち はるひと 先行書『倭の五王』)5月に中公新書から出して6刷6万部と話題の『継体天皇』の副題は、「六世紀に現れた世襲王権の始祖王」であり、つまり皇統が6世紀に始まったと説く。それまでのいわゆる「河内王朝」の天皇は権力の弱い「大王」であり、中央集権体制の礎となる国造制や屯倉制も磐井の乱後に導入された。
現在の皇統の始まりである江戸時代の光格天皇は閑院宮家出身で、先代の後桃園天皇から離れている。東山天皇からの血筋は確かだが、女性の後桜町上皇に後見され、後桃園天皇の欣子内親王を正妻とした。つまり、入り婿の系譜である。
今後、養子となる旧宮家の子から天皇が選ばれたとする。そうなると南北朝時代の北朝の崇光天皇以来の血筋を継ぐために、光格天皇系の皇女に入り婿するのが見込まれる。古墳時代の引継ぎは現代にも再現されうる。