植物学者の牧野富太郎(1862~1957)の生涯を祖型にして、NHK朝の連続テレビ小説「らんまん」が4月3日から放送されている。主役の槙野万太郎は牧野がモデルでも似て非なる人物だが、原点の牧野はどのような生涯を送ったのか、まず青年期をみてみよう。
現在の高知県佐川町で育った牧野の幼少・青年期の逸話として、まず紹介されるのは「小学校中退で東大に出入りしていた」ことである。確かに造り酒屋・岸屋の一人息子の牧野は12歳まで学校に入っていない。しかし、それは1872年に学制が公布されて以降の基準を当てはめた後知恵であり、寺小屋には通っていた。1873年には伊藤蘭林の塾で漢学や英学を学び、翌年になって佐川小学校に入学。年齢相応でない授業に親しまず、山で植物を採集して「重訂本草綱目啓蒙」に沿って分類し、2年後に自主退学した訳だが、次の年には佐川小学校の臨時教員になったのだから、岸屋の運営は家族に任せても、児童に教える程度の人望と教育力があった訳だ。
だが、2年後の1879年に飽き足らず高知市に出て五松学舎に入塾する。土佐が本場の自由民権運動にも参加しつつ、故郷の植物を採集、研究して1884年に上京。東京大学(1877年開学)の理学部植物学教室を訪ね、矢田部良吉教授と松村任三助教授に認められて出入り許可を得る。このころに実家が崩れるも、「植物学雑誌」や「日本植物志図篇」の刊行を始め、妻の小澤壽衛(寿衛子)とも結ばれた。遂に27歳の1889年、牧野の業績として最も著名なアカネ科のヤマトグサにキノクランベ・ジャポニクムという学名をつけ、大久保三郎と共に日本人で初めてラテン語の学名をつくった(現在はテリゴヌム・ジャポニクム)。牧野は植物分類において、スウェーデンのリンネに相当する役目を果たした。
東京大学が牧野に出入りを許したのは、学制に基づく近代の学知がまだ確立していなかったからである。学校外の寺小屋や私塾(代替の教育機関)への入学歴がなかったら、採集資料がどんなに優れていても、その場で買い取られて終わりだったろう。
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