舎人親王の邸宅跡か――奈良 | 歴史ニュース総合案内

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 奈良市教育委員会は4月3日、平城京跡の発掘調査で上級貴族が住む大型建物跡を発見したと発表した。日本書紀を編纂した舎人親王(676~735)の邸宅跡と研究者から推測されている。

 発掘地は奈良市大宮町の「左京三条三坊四坪」区画。マンション建設に先立つ1~3月の発掘調査で、南北10m、東西20.2m規模と推定される大型建物など年代の異なる5棟の遺構が出土した。平城京の通りは1町(130m)単位の碁盤目だが、道のはずの部分まで建物跡が伸びていて、瓦も周辺から出土した。教委はそこから、この区画は4町分纏めて三位以上の貴族の邸宅だったと判定した。住人の痕跡を示す木簡は見つからなかったが、消去法で天武天皇の皇子である舎人親王が有力候補になった。この発見はまた、三坪区と四坪区の間を流れる今の佐保川が、現在より西を流れていたことを示唆している。

 

 淳仁天皇の父親となった舎人親王は天武の皇子の中で最後まで生きていた。第六皇子とも第三皇子とも称される。718年に一品となり、首皇子(聖武天皇)の補佐をしながら、720年に日本書紀を元正天皇に奏上した。天武天皇の孫の長屋王(左京の三条二坊一・二・七・八坪に邸宅跡が729年に政変で失脚した時は朝廷の糾問使となった。