怪獣文学とウルトラマン | 歴史ニュース総合案内

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 庵野秀明が初代ウルトラマンの世界を原型に映画「シン・ウルトラマン」(樋口真嗣監督)を監修して、5月13日に公開した。興味は「シン・ゴジラ」に対して特撮好きの仲間内に限られているようだが、ウルトラマンの世界観を怪獣文学の中で考えてみたい。

 

 有害なる巨大怪獣が登場する場合、人間側が必殺兵器で退治するのが、怪獣文学の基本プロットである。外界からやってきた巨大生物やロボットに頼ることはない。ウルトラマンでも初代のウルトラQ(1966年前半)は、巨大ヒーローに頼らず兵器で撃退していた。しかし、1966年7月からのウルトラマン以降では、防衛隊の兵器では手におえない強さの怪獣をウルトラマンらの巨大ヒーローがプロレスを基にしたバトルで対峙して退治する路線になり、小学生らの人気を今日まで博し続けている。

 ウルトラシリーズでは地球人が自力で街を防衛できることを最後に願うが、そこまでの過程では地球防衛隊の努力がまずもって失敗し、巨大ヒーローに依存する精神が唱えられる。視聴者もどうせ→やはり敗北する防衛隊に期待しないのだから、自立精神など培えるはずもない。仮面ライダーのような異形やマジンガーZのような巨大ロボットに依存する場合も同じである。

 

 SF以上の怪獣文学では、人間が何とかしなければならない。この路線は高校生レベルどころかディストピア系の純文学まで存在している。巨大怪獣という非実在脅威にたじろぐ人間を描写するのは、文学の名に値するようになった。

 だが、問題解決を巨大ヒーローといった空想の英雄に頼っては、子供騙しになってしまう。生み出しえない超科学や実在しない異能力に頼るのも良くない。ただ実在の科学が右往左往する様を描くのが、怪獣文学の文学性となるようだ。