第3編 景行天皇と九州征服
記紀における景行天皇は、在位百年を超えるという異例の長寿を持つ人物として描かれている。その生涯の中で特に注目すべきは、九州を中心とする遠征記事である。『日本書紀』は景行が自ら九州に赴き、熊襲や隼人と呼ばれる勢力を討伐したと記す。だが、これを単純に史実と見るのではなく、九州地方に存在した強力な独立勢力を大和政権が制圧していった過程を神話的に表現したものと解釈できる。
熊襲(くまそ)は南九州に勢力を張っていた部族であり、記紀にはしばしば「反抗的な蛮族」として登場する。景行天皇の命を受けた日本武尊が熊襲兄弟を討伐し、その勇名を轟かせるエピソードは有名だ。しかし考古学的には、南九州では独自の古墳文化や交易ネットワークが存在しており、彼らを単なる蛮族とみなすのは誤りである。むしろ、彼らは独自の政権基盤を有し、大和政権と対抗しうる地方権力であった可能性が高い。
また、九州北部についても景行天皇の「巡幸」が伝えられている。ここで注目されるのは、卑弥呼の後継国とみられる勢力がこの時期までに健在であった可能性である。魏との外交関係を築いた女王国の後裔が北部九州に残り、大和政権の拡張を阻んでいたとすれば、景行の遠征はそれを制圧する政治的軍事的活動を反映していると考えられる。
この視点は、いわゆる「九州王朝説」とも接点を持つ。九州王朝説は、古代に九州を拠点とした別系統の王権が存在したとする仮説である。ただし本書の立場からは、それを大和政権と並立する「王朝」とはみなさず、むしろ地域的に強力な地方政権と理解するのが妥当であろう。景行天皇の九州遠征記事は、まさにこの「地方政権の討伐と吸収」の過程を神話的に語り継いだものと解釈できる。
さらに注目すべきは、景行の子・日本武尊の存在である。彼は九州討伐の英雄であると同時に、東国征服の物語にも登場する。つまり、日本武尊は「地方の独立勢力を平定して大和の秩序を広げる象徴」として機能しているのだ。その活動範囲の広さは、実際の軍事行動を反映しているというよりも、大和政権が列島全体へと支配を広げたというイメージを神話化したものと見るべきだろう。
景行天皇とその子の九州征服譚を総合すると、ここには三つの重要な要素が読み取れる。第一に、大和政権が南九州や北部九州の強力な勢力を制圧した歴史的記憶。第二に、それを英雄譚として再構成し、王権の正統性を補強した意図。第三に、大和政権が「列島統合」の象徴として九州を物語に組み込んだという事実である。
すなわち、景行天皇の遠征記事は、大和政権がいまだ成立途上であった時代に、九州というライバル圏をいかに取り込んだかを神話的に語る装置だったのである。卑弥呼以来の女王国の残影もまた、この過程で消え去り、大和を中心とする新たな秩序へと統合されていったのであった。