ここしばらくモヤモヤしていたのは、この体験を片付けられなかったのでした。

仕事で出会う人の中に私が最も苦手とする人種がいます。赤の他人に向けてキレる人です。

 

イベント本番中でもキレる、誰にでもキレる。自分の後輩に嘘ついたとキレるなどなど。

 

ACアダルトチルドレンの特徴がこれであり、パーソナリティ障害の特徴なのですが、当人はこれが普通だとばかりに他人を相手にキレるのです。

 

そんな人の幼児期を振り返ると。原家族での体験が繰り返されています。彼ら彼女らの親たちも同じようにキレていました。

家族、親戚に対してキレる、が日常的に行われていました。それを見て育ったので、「他人に向けてキレる」もやっていいことだったのです。

 

かつて私もそうでした。赤の他人をまるで自分の家族や親戚のように、相手との距離を詰めるのです。そして激昂する。感情的にまくし立てる、または押し黙るのです。私は後者のタイプ。で恨み憎しみを募らせる。

 

冷静に、言葉を使って相手に向かう、相手に言葉を届けることができないのです。一度感情的になると制御不能になる。自分をコントロールできなくなるのです。

 

私の生き辛さの大きな一つでした。カウンセリング終結後にはこれがコントロールできるようになりました。

 

自分の感情と向き合う、今どんな気分?どんな感じ?が分かる。それを言語化することができる。同様に相手の気分感情を受け止める、分かる。気分感情の相互交流ができるようになったのです。

 

キレる人はまずこの上記のトレーニングをしましょう。そして相手のどんな言葉に反応してキレるのかチェックして。

キレる自分への対処法は、自分の感情特に怒りを言語化できるように。私はあなたの〜な言動に怒りを感じます。務めて冷静に。

 

とても難しいですが、感情的な言葉は暴力でしかない。相手の身体に触れれば明らかに暴力ですから、心しておきましょう。

 

瞬間湯沸かし器のように感情が一気に爆破する自覚がある人は、危ないと思ったら一呼吸置く、深呼吸するなどの逃がしを。一度火がついたら制御不能な人はもっと深い個別の心理療法が必要でしょう。

他者とのコミュニケーションをとる上で、キレるという行動はあってはいけないことです。相手に問題があるのではなくキレる自分に問題がある。

 

(私の場所、自分が相手をキレさせる原因になっているのではないか、私の言葉の使い方、表現の仕方、表情などに問題があるのではないかと思うのですが。)

 

相手と会話して、気分感情が一切見えてこない人がいます。自分の感情に蓋をして相手と関わろうとする人。

会話は出来事、事柄の連続で、話をしていても何だかつまらない。感情が言葉にならない。言葉にしようとしないので、会話から生まれる共感がない。感情が共有できないのです。こちらが感情を言葉にして発しても受け止めてもらえない。これも過去の自分の姿です。

 

 

前に書いた記事「他人に向けてキレる人」

http://blogs.makusta.com/accodependency/2017/09/04/%E4%BB%96%E4%BA%BA%E3%81%AB%E5%90%91%E3%81%91%E3%81%A6%E3%82%AD%E3%83%AC%E3%82%8B%E4%BA%BA/


 

 

前回は親の納骨のことを書きました。

私がAC共依存から離れられたのは、当然ながら親の死があったからです。

 

存在がなくなる、親がいなくなる。それまで抱えていた全てが終わるのです。

強い愛着、執着、恨み、憎しみ、悲しみ、怒り、言葉にできなかった感情の全て。

親と自分を縛り付けていた共依存という怪物が消えてなくなります

 

もちろんこれに狼狽え戸惑い、自分を失くします。親と私は一卵性だったのですから。

その喪失感も長くは続きません。自分の手で足で、自分の頭で生きていくことになります。

 

親への思い。言いたくて言えなかったこと、言って欲しくて言ってもらえなかったこと、してあげたくてできなかったこと、して欲しくてしてもらえなかったこと。できなかったことを諦め、手放す。これで区切りがつけられます。

 

今までのことを終わったこととして受け止め、受け入れる。終わったことを少し離れて、まるで風景画のように眺める。

 

親の死とは、AC共依存を手放すための儀式でもあります。

 

 

その後は自分の生き直しです。文字通りの生き直し。

 

親からもらった価値観、コミュニケーションパターン、認知の癖などなどは、ほとんどが役に立たないどころか邪魔なもの。全部捨てます。そうすると肝心の自分には何もありません。親に代わる師を探します。見つけるのは大変ですが、探します。その間にも他者の優れた点を真似る=学ぶ のです。

 

道は遠いですが、楽しんで生きることを覚えましょう。今まで楽しむなんて罪悪感でいっぱいでしたから。たっぷり楽しんで構いません。人生は楽しい。

 

親の遺骨を市営霊園の合葬墓に入れる手続きをしています。

 

親の謄本を結婚から死亡まで辿り、霊園が確認して納骨するのですが。この前時代的なシステム、明治時代に作られてそのまま使われているシステムは何とかならないかとは思いますが。


 

居住した地を4ヶ所辿り、熊本県の私が生まれた土地の役場に郵送申請して、謄本が届きました。

 

母親が姉を連れて父親と再婚したことは聞いていましたが、その姓を知ったのは初めて。

振り返れば親のことは何も知りませんでした。親は自分たちのルーツ、生い立ち、歴史生き方、人生哲学など一切子に話してはいなかったのです。機能不全家族あるある、です。

 

父親は癇癪持ち。コミュニケーションが取れない、今でいうパーソナリティ障害。どんな家庭で育ったのか想像がつきます。

 

姉を連れた母親と父が結婚します。当時の常識では初婚の男と子連れバツイチの女と結婚するのは珍しかったでしょう。

父方は癇癪持ちの息子に手を焼いていたのかもしれません。

 

この二人が結婚して私が生まれた。親が育ったように子も育った。面前DV、乖離、トラウマ、コミュニケーション障害、そしてパーソナリティ障害。

 

家族の輪廻、家庭内連鎖は見事に次の世代に受け継がれました。機能不全家族の歴史は脈々と続きます。

親は機能不全のまま死んでいきました。姉は強い共依存のまま。母の亡き後は他の依存相手を探して収まったのでしょう。

 

幸いにも私はカウンセラーと出会い、カウンセリング、心理療法でAC共依存を終わらせました。

 

機能不全家族がなくなることはないのでしよう。少なくなることもないでしょう。見ていると逆に増えているような気がします。社会全体が機能不全になっているのでしようか。とても気になります。

 

Twitterで相互フォローしている女性はカナダ在住のシングルマザー。
彼女の紹介ツイートで読んでみようと思いました。

精神科医が向き合うDV被害当事者。著者は彼ら彼女らを「異邦人」と呼ぶのです。同じ時代同じ時間を生きているのに違う。

私は精神科医の著書を読んだのは少なく、磯部潮、斎藤環氏ぐらい。カウンセラーの著書が圧倒的に多いです。
両者の違いは医師の場合は患者、カウンセラーの場合はクライアントと呼び方が違うのですが。同じテーマを扱うのでも向き合い方、見る方向が違うといえます。

精神科医は患者と対向して正面から患者に向き合う感じ。医師は患者を、患者は医師を見る。
カウンセラーはクライアントの隣に座って同じ視線でクライアントと同じ風景を見る感じ、といえばお分かりいただけるでしょうか。

著書を読む場合、どちらが自分に合うかはそれぞれです。

さて、精神科医はこの異邦人と出会います。いつも診る患者とは違います。最初は鬱と当たりをつけても、それはまるで底なしの闇のように。自覚の感覚、言葉の感覚も違う。

機能不全家族に生まれて育ったACアダルトチルドレンとの出会いです。
精神科医の世界では機能不全家族の言葉は馴染みになったようですが、ACアダルトチルドレンの呼称はないようです。〜障害と、パーソナリティ障害と呼ばれることになります。メディカル部門とそれ以外のコ・メディカル部門の違いです。

少しずつ読み進めていくと、著者のカウンセラーとしての力量+精神科医としての力量が見えてきて、しかもその両方を上手く使い患者を導いていく光景が見えてきます。

精神科医の患者への接し方、診断、薬の処方が適切に行われると、患者の症状は見事に回復します。本書を読むと分かります。著者はカウンセラーの養成をしいてるとあります。このような状況が作れているのは素晴らしいと思います。

こんな人がもっと増えて欲しいと思います。
 

交流分析にあるこの言葉。裏面(りめん)交流。
物事の裏表、人の裏表と同じ意味です。

私たちが通常している交流のパターンはいってみれば表面での交流。
思ったこと感じたこと考えたことをそのまま素直に言葉にしています。その言葉の裏には他意はない。

私もかつてはそうでした。時々こんな人がいます。思ってもいないこと、考えもしないこと、感じてもいないことを口にする人が。これが裏面交流。

健全な交流=コミュニケーションの取り方を親から教えてもらえなかったのです。AC共依存の人は言葉のコミュニケーションより非言語のコミュニケーションが多かったので、言葉のコミュニケーションは苦手でした。

ましてや幼い頃から感情を抑えつけて育ちます。喜怒哀楽の喜と楽は特に強く抑えつけています。いくつもの禁止令を自分に課して大きくなります。

裏面交流する人の、その目的は何でしょう。思ってもいない、心にもないことを言葉にする目的は?
自分に振り向いて欲しい、注意・興味を向けて欲しい、自分がかけた言葉を受け止めて欲しい、自分に言葉をかけて欲しい、寂しいから構って欲しい…まだまだありそうです。相手への欲求。

自分が相手にかける言葉はそれほど多くないのですが、相手には多くの言葉、対応を求めるのです。

 

裏面交流を続けていると、お互い不幸です。コミュニケーションを取るのが大変です。相手が本当は何を感じ考え思っているのか分からなくなります。

健全なコミュニケーションを取っている人は物足りない、空回り、感情の共有ができないフラストレーションを感じます。

 

AC共依存が苦手なのがこの感情の共有、共感です。自分の感情が分からない、他者の感情も分からない。

 

まずは自分の感情に気づくことが大切です。

 


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参考までに下の文献(抜粋)を。裏面交流の単純化パターンが示されています。

 

P=親  A=成人  C=子どもの自我


表面のメッセージとは別のメッセージがある場合があり、これを裏面的交流と言います。前者は社交レベルのメッセージでAからAへ、後者は心理レベルのものでPからCへ、あるいはCからPへのメッセージとなります。図3では、子どもの「今日はコンパに行くから夕食はいらないわ」に対して母親の「どうぞ、好きにしなさい」という反応は表面的にはAとAの交流ですが、「遅くなったらいけませんよ!」というPからCへの裏のメッセージが含まれている場合があります。日本人では、この裏面的交流が非常に多くみられ、会話に奥行きがあるとも言えますが、あまり裏のメッセージが多すぎると人間関係が複雑になり混乱の原因となることもあります。

 

(早稲田大学人間科学学術院教授

野村 忍)

 

 

 

少し前のことですが元官僚による婿刺殺事件。

 

機能不全家族の悲しい末路に胸が痛みます。

 

父は事務次官に就任。「お前らエリートは俺を馬鹿にしてる」

息子は中学時代からいじめを受けた。アニメ会社に就職失敗。「画力が足りないと言われた」

息子からの暴力で母親は鬱、そして自殺未遂。長女は縁談があったが「兄に変なのがいる」と破談。絶望して自殺。

息子(被害者)は一人暮らしをするが父親(加害者)の「ゴミを片付けろ」などの指令・命令。

同居を開始した翌日に暴行を受ける。息子を殺すこともありうると考えるように。

「殺すぞ」と言われ息子を包丁で刺した。

「できるだけ寄り添ってきたつもりだったが」と父。

 

ざっと経緯を見ただけでも、かける言葉がありません。

家族の輪廻。世代間連鎖がこの家族にもあったことは容易に想像できます。

父親も同じように育ったのです。自分の息子にしたように、支配とコントロール(操作)で息子に対した。

それは愛ではありませんでした。息子は愛が欲しかっただけなのです。

「できるだけ寄り添ってきたつもりだったが」実際にはそれは寄り添ったのではなく命令、指示でした。

父親自身も同じように自身の親に育てられたので、同じように息子を育てたのです。

 

子供のこのような暴力・暴言・乱暴な行動はほとんどすべてが親の責任。

子供のこのような行動・言動はすべてSOS.

親にも子にもそのことが分からないのです。悲しいすれ違い。

 

AC共依存の機能不全家族に生まれ育った子であるあなたにお願いがあります。

このようなことにならないために、親から離れてください。できるだけ早く。

 

機能不全家族の親は加害者。子であるあなたは被害者になりうるのです。

子には親から離れたくないという執着・愛着があります。あの時に愛されたかった、言いたかったことが達成されていないので、ずっと愛されたい欲求が終わりません。

酷なことですが、それは叶えられません。あなたの愛着・執着を手放すことが必要なのです。

あなたが自分で自分の命を守ることが大切です。

 

 

煽り運転で逮捕されたカップルの共依存ぶりが報道されています。
その光景を眺めながら、私の過去を思い出していました。

私が二度目の結婚をして、それまでの人間関係友人関係を断つことになりました。結婚相手がとても嫌がったのです。友人と会うのに出かける、友人を家に招く、一緒に遊ぶ、食事をするなどはなくなりました。
相手が私に求めたのは「私とあなた」の二者関係だけ。
私は何の疑問も持たず異議も唱えずに相手に取り込まれていきました。まさに「取り込まれる」という表現がぴったり。友人関係を失って何年も後に気づきます。

その間に進むのはお互いを支配し支配され、コントロールしコントロールされること。非言語のコミュニケーション。言葉の暴力。原家族にあった機能不全のすべてでした。この関係が嫌で家を飛び出したのに、気がつけばそれを懐かしむかのように繰り返す。かつて慣れ親しんだこの感覚は、魔法のようにお互いを縛り付けます。

 

私はこの結婚生活で最も嫌悪したのは、言語コミュニケーションがいつまで経っても取れない、どんどん悪化していくことでした。

原因はお互いの感情を言語化しない、できないことだったのですが、当時はそれが分かりません。関係が悪化しても、それは相手のせいだと思っています。自分に非はないのです。「自分は悪くない」はどんどん強化されて、カウンセラーに諭されるまで分かりませんでした。

 

私の場合特に「感情というものが分からない」状態でした。「思う=思考」「感じる=感情」の区別がつかないのです。カウンセラーに「どんな気分?」と感情を問われても「〜思う」と思考を答えるのでした。それほど感情を抑えつけていたのです。

 

感情を抑えつけていた=言語化できなかった のですが、感情的になる=キレることはよくありました。

今私はこんな気分だよ、こんな感じ、と普通に言葉にして他者に伝えることができない。キレるだけ。そして無言になる、分かってくれないと相手を恨む憎む、そんな繰り返しです。

 

この行動、言動の裏には「分かって欲しい」が隠れています。相手への愛着、執着はとても強いのです。その分嫌われた時の恨み憎しみは何倍も強いのです。共依存とはこれほど厄介なものです。

 

共依存を拗らせて現れる行動、言動は上に書いた通りボーダー(境界性パーソナリティ障害)そのものです。境界性だけでなく演技性、自己愛性、回避性、依存性などの特徴がまぜこぜになっていることも多いのです。

そしてその根っこにあるのがACと共依存です。

 

根深く厄介な自分を変えるのは、他の誰でもない自分です。自分と向き合うことがいかに大切かが分かります。



 

 内閣府が2015年度に実施した調査で、15~39歳の「若年ひきこもり」は54・1万人と推計された。今回、40~64歳の「中高年のひきこもり」について国レベルで初の調査を実施。調査方法の一部変更があったため単純比較はできないが、その結果に基づく推計数は、若年層を上回った。

 (略)

 今回の推計は、ひきこもる中高年の子と高齢の親が孤立する「8050(はちまるごーまる)問題」が、特殊な例ではないことを示すものといえる。また、「就職氷河期世代」(おおむね現在の30代後半~40代後半)の多くが40代に達したため、中高年のひきこもりが増えているとの指摘もある。

 調査時期や手法の違いから「若年」と「中高年」の推計を単純合計はできないとしつつも、北風参事官はひきこもり総数が「100万人以上」になるとの見方を示した。(略) 

(朝日新聞デジタル 2019.03.29)

 

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私が引きこもりの居場所事業を行うNPO法人で有償ボランティアをしていたのが10年ほど前。その頃、利用者(引きこもり当事者)は10代後半から30代後半でした。

ですから彼らが今も引きこもっていたら、もはや中高年。

 

若い頃の引きこもりなら、そこから立ち直る可能性、時間的な余裕があるのです。親が元気なうちは引きこもっていればいいのです。親が年老いて病気でもしたら、そろそろ外に出て仕事を探す。この時期的な余裕で自分の始末をし、内側を片付ければよかったのですが。

親の財産を食いつぶしてもよかったのです。親は支配とコントロールで子の人生を食いつぶしてきたのですから。

 

でも中高年だと実際問題として残った時間が少ない。やり直しがきかないのです。本気で短時間で何とかしなくてはいけません。

 

さて、どうしましょう。

昔なら人付き合いが苦手だったら手に職をつけて職人に。私の両親は床屋の職人でした。

今の時代でもそれは通用すると思うのです。

ネットの発達で在宅での仕事は広がりましたから、仕事の依頼を受けて返す、器用な人ならクラフト系に進む、通販で稼ぐ、など。今なら無料でも開設できるネットショップがいくつもあります。もちろん全部自分でやります。

大切なのは、自分が本当にやりたいことを始め、それを続けることです。淡々と、楽しみながら。

 

今まで親に向けて発信していたSOSはしばらくやめて、ひたすら自分のことに集中しましょう。好きなことに取り組む上での最低限の対人関係だけには注意を払って。ミスしたら修復して。言葉が足りなかったら補足して。なるべく明るくポジティブに。

 

親は常に「お前が心配」を口実にあなたを支配し操作(コントロール)しようとしてきます。それに巻き込まれないように。

ただ、今までのように強い恨み憎しみの感情で拒否する必要はありません。親との距離を今までより多く取って、動じないように。

 

少しなら他人と関わってみたい、という人は製造、商品管理など時間から時間まで働けばいい職種を。空いた時間に同僚先輩と話すことから、対人関係の作り方を学びましょう。そうすれば接客などもできるようになるかも。

 

決して無理をしないで、嫌ならすぐ辞めて。変な我慢はしないように。ストレスが溜まるだけです。

 

親はもうそれなりの歳。

あなたには積年の恨み憎しみがあるでしょう。言いたくて言えなかったこと、言って欲しくて言ってもらえなかったこと、して欲しくてしてもらえなかったこと、してあげたくてもしてあげられなかったこと、たくさんあるでしょう。

 

老いていく親を眺めながら、手放すこと、諦めることを自分の中から探しましょう。親の死を越えて、初めて子は自立、自律します。

 

 

全豪オープンを制した大阪なおみさんから こんな言葉が出ました。

「私は精神的に成長する必要がある」「今は3歳児の精神状態」「この1年で成長できた。今は5歳児」

自分のメンタルの弱さ、怒りの感情をコントロールできない自分を客観視できている状態です。

それまでの彼女はコートの上で怒ったりふてくされたり泣いたりラケットを投げ捨てたり、見ていても可哀想になるほど不安定でした。それがこの1年で見違えるほどの成長を遂げました。

ピンチになっても慌てない、過剰に落ち込まない。失敗しても自分に腹を立てない。

自分の感情をきちんとコントロールできている21歳の女性アスリートの姿がそこにはありました。



怒りの感情をコントロールするのは、そう簡単にはできません。特に私たちACには至難の技です。

自分の感情が一体どこから来るのか分からない。どう対処すればいいのか分からない。冷静に自分の感情と向き合うことができずに、感情的になってしまう。激昂してしまう。それでパニックになってしまう。自分の感情に簡単に飲み込まれてしまうからです。自分で毒を吐いて、その毒に当たって中毒を起こしてしまうのに似ています。自家中毒です。

ACのもう一つの悪い癖は「余分な感情を上乗せする」ことです。

自分の内側に立ち現れた感情を客観視できずに、冷静に対処できずに次々に感情を増幅さです。

例えば立ち現れた不快な感情の原因が「嫉妬」だとします。これに「私は今、彼(彼女)に嫉妬してる」から原因を探ったり、その感情をなだめたりするのではなく、さらに余分な感情を、例えば恨み、憎しみなどの感情を上乗せしてしまうのです。

客観視する とは、一枚の風景画、風景写真のように眺める に近い行為と言えばいいでしょうか。

感情を無理やり抑え込むのではなく、客観視する。ただ眺める。
余分な感情を上乗せしないことはとても大切です。
 

全豪オープンを制した大阪なおみさんから こんな言葉が出ました。
「私は精神的に成長する必要がある」「今は3歳児の精神状態」「この1年で成長できた。今は5歳児」
自分のメンタルの弱さ、怒りの感情をコントロールできない自分を客観視できている状態です。
それまでの彼女はコートの上で怒ったりふてくされたり泣いたりラケットを投げ捨てたり、見ていても可哀想になるほど不安定でした。それがこの1年で見違えるほどの成長を遂げました。
ピンチになっても慌てない、過剰に落ち込まない。失敗しても自分に腹を立てない。
自分の感情をきちんとコントロールできている21歳の女性アスリートの姿がそこにはありました。


怒りの感情をコントロールするのは、そう簡単にはできません。特に私たちACには至難の技です。
自分の感情が一体どこから来るのか分からない。どう対処すればいいのか分からない。冷静に自分の感情と向き合うことができずに、感情的になってしまう。激昂してしまう。それでパニックになってしまう。自分の感情に簡単に飲み込まれてしまうからです。自分で毒を吐いて、その毒に当たって中毒を起こしてしまうのに似ています。自家中毒です。

ACのもう一つの悪い癖は「余分な感情を上乗せする」ことです。
自分の内側に立ち現れた感情を客観視できずに、冷静に対処できずに次々に感情を増幅させるのです。
例えば立ち現れた不快な感情の原因が「嫉妬」だとします。これに「私は今、彼(彼女)に嫉妬してる」から原因を探ったり、その感情をなだめたりするのではなく、さらに余分な感情を、例えば恨み、憎しみなどの感情を上乗せしてしまうのです。

客観視する とは、一枚の風景画、風景写真のように眺める に近い行為と言えばいいでしょうか。

感情を無理やり抑え込むのではなく、客観視する。ただ眺める。

余分な感情を上乗せしないことはとても大切です。

 

 

 

「ここは、おしまいの地」こだま著 を少しずつ読んでいる。

読みながら感じる独特の初めての感覚を言葉にできないでいた。

 

そんな時、自分の記憶が途絶えた頃の感覚と重なったのだ。

 

浮遊感。

 

読者でしかない私が、彼女の物語の中で、亡霊のように俯瞰であるいは隣で、それを眺めているのだ。

私は彼女の物語の中にいる。物語の展開を眺めている。

 

この感覚は。

 

 

私は3歳から10歳ほどまでの記憶がない。

小学校入学、校外写生会の大きなイベントの記憶はあるが、日常の生活の記憶がない。

きっかけは父親のDV。

いつものようにお昼ごはんを食べていた。母親の言葉の何が気に障ったのか、父親の目の色が変わる。明るい鳶色に。

掘り炬燵は夏の間、食卓テーブル代わりになる。

父親は食べ物、食器の乗ったこたつ板を両手で持ち上げた。全てが散らばる。3歳の私は泣き出す。母親は危険を察知して逃げ出す。後を追う父親。それを私が追う。このような事件は珍しいことではなかったのだろう。今思えば母親の反応は素早かった。

部屋を出た土間を走り、突き当たりは台所(炊事場)とお風呂場。井戸ポンプが据えられているので逃げ場がない。

井戸ポンプと壁に挟まれた母親をめがけてこたつ板が振り下ろされる。

 

ここで私の記憶が消える。

 

心理学では乖離という。衝撃が大き過ぎた事件を記憶から消して「なかったことにする」のだ。自分の命を、脳を守る本能から来るのだろう。

記憶が途絶えた7年ほどの間、私には生きている実感が希薄だったようだ。時間の感覚もない。夢うつつの中にいるような感覚。どちらの世界にも属さない感覚。

 

あの日見た恐ろしい光景をなかったことにするには、相当の時間が必要だったのだ。私の中でどのような作業が行われていたのか知る由もないが、その記憶を切り取って前後を繋ぎ合わせることさえできず、そっくりそのまま記憶を消したのだ。

浮遊感は決して恐怖や不安ではなかった。だからといって心地よい訳でもなかった。

 

 

この感覚が蘇り、本の中で彷徨う自分を感じている。

本を読んでこんな感覚を覚えるのは初めてだ。

 

前作「夫のちんぽが入らない」から1年だという著者の文章はやはり綺麗で品がある。悲しみを笑いにしてしまう強ささえ、私の胸に刺さる。泣きたいのを我慢し、笑いたいのも我慢して生きてきたのかと、そんなところにも共感してしまう。

 

こんな読み方をする読者は極めて少数だと思うが、こんな読まれ方をする作品も珍しい。