瞽女さんのこと | あぶらびのブログ

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以前新潟のことを書いたブログのコメントのやり取りで、正月に蕨にも瞽女さんが来ていたとか、祖母の実家では瞽女(ごぜ)さんが泊まっていたというようなことを書きました。


新潟の習俗として、瞽女さんという女性だけの旅芸人集団がいたのですが、一般的に馴染みがなかった様なので、あらためてこちらで説明します。


瞽女さんというのは、盲目またはそれに近いレベルの視力を失った女性たちが34人程度の編成で、旅をしながら各地で唄や三味線などを披露しながら生活していた人たちのことです。

医療の発達していなかった時代には、幼少期の病気などが原因で失明することも多かったそうです。

一般に大人自体の寿命も短く、盲目とはいえ自分の力で収入を得て生きていかなければならない時代だったため、必然的に生まれた職業集団であったようです。

かつては全国的なものであった瞽女の文化が次第に新潟(越後)に集約されていったらしく、視力を失って生活が困難になった女性たちが新潟を拠点に集まっていた様です。




厳しい掟と独自の戒律があって、明治・大正の頃には今の小学生程度の年齢から修行に入っていたようです。

瞽女さんの唄を聞かせると、蚕や農産物の生育が良いと信じられていて、信仰のある地域では丁重にに扱っていたということです。


新潟では高田や長岡に拠点があって、長岡では400人規模の組織だったということです。

特に豪雪地帯の冬の重要な娯楽の一つでした。

おそらく、距離と位置から言って祖母の実家に泊まったり蕨に来ていたのは、長岡の瞽女さん達で、三国峠を越えて中山道を通って来たんだと思います。


交通手段も発達していない時代、各地をまわったのは徒歩移動。幾らか目の見える手引きという人を先頭にして、片手に先頭から続く紐と杖を持ち、反対の手は前の人の肩や腰などに置いて雪の中などでも峠越えや丸木の橋や吊り橋などで川を渡り村々を巡ったそうです。

川や崖からの転落や寒さなどで命を落とす人も多かった様です。


また、旅の中で金品を奪われたりすることも多く、襲われて妊娠などしてしまうと組織から追放されてしまうことになるため文字通り命がけの旅でした。


正月に実家に行った際に話したところ、初めて知ったのですが両親のそれぞれの実家で瞽女さんを泊めていたということでした。


そんな両親だったので、子供の頃から家には時々知らない人が長期滞在したりしていました。その後、父親は次第にヒッチハイカーなどの外国人も拾って来る様になっていきます。

ぼくが二十歳ぐらいの頃に長期滞在していたスリランカ人男性は、今だに兄貴の様な存在です。


これまで英語さえ大してできないのにタイ、バングラディシュ、ベトナム、ドイツとホームステイ受け入れてますが、やはりこれは親の影響なんだろうと思います。



参考までに、瞽女さんについての歴史的な部分は「鋼の女 最後の瞽女 小林ハル (集英社文庫 下重暁子)」から引用しています。

生後100日で視力を失い、9歳から瞽女として旅をして過ごした小林ハルさんの伝記です。

ハルさんは他の瞽女仲間からも、これほど苦労をしてきた人は他にいないと言われるほどの苦労の連続でした。


最後の瞽女ハル

https://www.youtube.com/watch?v=IdGMyat14vw&t=522s


ハルさんは来ていませんが、瞽女さんが蕨市に来ていた記録は「蕨市史 民族編」に出ています。記載はありませんが、おそらく昭和30年代頃までの話しだと思います。

テレビと自動車の普及により姿を消した職業で、おそらく前回の東京オリンピック前あたりが最後だろうと思われます。


ここまで書いたところで、映画「瞽女 GOZE」が今春公開で、まさにこの小林ハルさんをテーマにした映画だということを知りました。

偶然というより因縁めいたものを感じで、ちょっと焦りました。

 

映画「瞽女GOZE」公式サイト

https://goze-movie.com/


いずれにしろ、越後の歴史としてこういう文化があったことを、世の方々に知ってもらえたら嬉しいです。