原発事故と葛藤 | あぶぐまの里にっき

あぶぐまの里にっき

阿武隈の地に移り、昔ながらの農とくらし、技の継承を目指していたが、原発事故で自然・社会環境、自分の心も全てが変貌。

停電していたので、情報源はラジオのみ。
大地震当日の原発の冷却機能の異常のニュースは聞き逃しましたが、翌日のニュースで、どんどん状況が悪化していることを知り、茅の仕事終了後、念のためという思いで、近くにいた友人と福島から遠ざかることに。ところが、車で移動中、原発が爆発したと聞き、すぐには戻らないほうがいいのではと判断。
山形県から新潟県に移動し、長期化しそうなので実家に戻ることに。次々と爆発する原発の状況や川俣周辺の仲間がどうしているかとか、猫はどうしているかとか、落ち着かない日々を過ごしました。一時は愛知県で知り合いになったかたの家でお世話にもなりましたが、数週間たって一度川俣に戻ってみることに。電車やバスを乗り継いで川俣に戻ると、放射能汚染されていることはすでに知っていましたが、見た目はいつもとなんら変わりはなく、ガソリンの給油も通常に戻りつつあり、少し安心はしましたが、やはり不安であまりよく眠れませんでした。
その後、交通手段も正常でなく苦労しましたが何度か横浜と福島を行き来しました。

川俣町は津波や原発事故をうけて避難する人を受け入れる場になっていました。人口1万5000人の町に、一時は6000人を越える人が避難してきたそうで、役場も損傷のため移転し、山木屋地区も避難対象になった川俣町としては、大変な状況です。

ここ小島地区のふるさと交流館には一時は900人以上が避難し、現在でも町内では避難所はここ1箇所となり機能しています。地区の行事に関わっていた身としては、お手伝いすることはたくさんあったのですが、今回の震災では何もできませんでした。

また障害者のヘルパー業務を行う仲間もいて、こちらも手伝えず。

放射能の危険性を教えてくれ、川俣には行かないほうがいいという友人や親がいる一方で、川俣で暮らしている人や避難している人、支援が必要な人がいるという葛藤の中で暮らしていました。また、放射能に関する見解も、学者によってあまりにも差がありすぎて、最初は戸惑いました。
今後どうしたらいいのかも全く決められませんでした。
しかし、徐々に、見解の見極めもつくようになり、今後の方針も前向きに考えていかないとと思えるようになりました。