海外にいると、自分が外国人という立場になります。

日本にいると、日本人。
でも別に日本人ということをあまり意識しませんね。

海外にいくと、自分が日本人であること、自分がその国にとっては外国人であるという当たり前のことを意識させられます。

外国人でいると時にいいことがあります。
お客様扱いされるのです。ホスピタリティのある人たちと出会うと、ゲスト扱いされラクチンです。



でも、時間がたつと、

「ゲストな外国人」


から

「長く住んでいる外国人」 へとシフトされます。


つまり、ゲスト扱いのような特別なもてなしはされなくなります。


また、言葉による甘えが許されます。
自分たちと同じように理解していないから、ある程度勝手に自分のことを考慮してくれます。
自分から発言しなければ、意見はきかれません。意見が聞かれないということは、自分の意見を持つ責任を持たなくていいということです。
意見交換をみんなでしているのに、どこかで自分には関係ないことのような感覚。枠の外にいて、枠の仲にいる人を「がんばってるなぁ」とみているるような感覚です。そして、結果だけが知らされる。

自分で考える必要なく、結論がきたので、従いたければそれに従う。



ラクチンですが、なんだか物足りなさもありますね。




外国人という立場でない場合、

根っこの部分が確認しなくても「同じ」という認識を持たれる事が多いようです。
つまり、ゲストのような特別扱いはされないけれども、比較的早い段階から同志となりやすいのです。

その分、関係や言葉に責任は伴います。


しかし、外国人でいると、いつも責任をとらなくていいとか、薄い関係しか構築できないのかということでは全くありません。


ただ、その壁を乗り越える分、少しばかりいつも以上のパワーが必要となってくるのです。
自分で壁をよじ登るパワーが。


枠の外にいて物足りない関係しか築けないのが嫌なら、自分から枠の中に入るしかありません。
それは少しなかり時間も要します。
いきなり枠の中に入っても、横並びに入れていないかもしれません。
強引に枠の中に入ったから、変な入り方になっているかもしれません。
その枠を馴染むようにしていくには、やはり「時間」はある程度必要なのです。

また言葉も母国語に比べたらうまく表現できないかもしれません。
聞いている相手も、その言語が母国語でない場合は、勘違いや普段からのコミュニケーションをベースに、話している事が理解されてしまいます。

それでも、パワーをしっかりもって、言葉と体全身を使って伝えるしかないのです。

そして、自分の意志を言うという事は勇気のいることです。
たいてい自分の考えは違っていることが多いです。外国人ですから。
外国人でなくても、違うのは当たり前なのですが、日本ではあまりそうではないかもしれませんね。

一見、面倒くさがられるかもしれません。外国人の意見がでてくることで、まとめるのに時間がかかりますし。

でも長期的に見ると、面倒くさがられながらも、枠の中に入っていったほうがいいのです。

なぜなら、そこで何も意見を言わないと、いずれ枠の中にはもう入れなくなります。

そこにいるのに

皆と一緒にいるのに

「存在感のない人」となってしまいます。

ずっと傍観者という外国人の立場のまま。

存在感のない人になると、双方ある意味、楽です。

でも、深い関係は築けません。築く必要がないからです。


その関係はあっても特に何も感じませんし、なくなっても気づく事すらないかもしれません。




みんな全員と良い関係なんて築けません。
みんないい人であっても、性格や考え方は異なるもの。
だったら、自分を出してそんな自分と合う人たちと深い人間関係を築いていってもいいのかもしれないと思うのです。
そして、意見を言うことで面倒くさがられると思って、そこにいるのに存在していない人になるくらいなら、面倒くさい人間でいたほうがいいのかもしれない、と。


器用な人ならうまくやっていけるのかもしれないですが、
ちょっと不器用な人は難しいですよね。

でも、不器用なりに面倒くさい人間でいることが、
「ゲストの外国人」から「長くいる外国人」そして、「同志」へと変わっていく道なのかな、と。



ここでは外国人の私、最近ふと思ったのでした。

追記:
不器用な面倒くさい人間っていうのは、自分の視点。
相手は必ずしも同じように思っているというわけではないのです。