晩秋の午後おそく夕方に。
隠居家の内部の模様はすっかり変って、ここには現在太一、ミツ、よし江の三人です。

本家の方は復員してきた富吉、きね夫婦に譲り渡していたのです。

富吉が闇市に行こうとリュックを背負って出てきた所に、別人のように憔悴したとし子がやって来ます。

富吉から二斗の米を買うとし子。

あの日、とし子は置き手紙を残して中島と共に広島に向かったのです。

しかし、中島は原爆で死に、とし子は生き残ったのです。

とし子が出ていった後、村上家はたまが寝込んだりと大変だったらしく、しかし東京の家は大丈夫だったらしく、九月に東京に戻って行ったそうです。

とし子は闇屋もしていたのですが、今日ここに来たのは闇屋の仕事ではなく、この三か月、ここにくることにすがって生きてきたのです。

バスもなく、歩いて帰るというとし子に泊まっていくように言うよし江ときぬ。

太一も許し、結局母屋に泊まって行く事になるとし子。

幕。

もう、このお芝居は上演されることはないと思いますが、後書きによると、この芝居は自然主義というよりも、従来のリアリズムを越えた作品を描くという狙いを持って書かれた作品のようです。

従来のリアリズムを越える、その言葉には深い共感を覚えます。

誰もがそうではないでしょうが、僕も『ブルーグレー』発表後、従来のリアリズムでは表現出来ていないリアリズムを舞台にしたいという野心を持った事が有ります。

しかし、現在はそのリアリズムから遠ざかり、超現実に走っています。

それは現実を切り取ったようなものをプレゼンテーションしたところで、そこに自分というものをどう表現するかという問題があるからです。

結局題材の問題に落ち着き、そこにしか着地点がないと考えたからです。

それを表現しようとすると、膨大なものになりドラマチックの在り方が問題になると思うからです。

いかなる場合も主観が入るからです。