今の本て、本当に注釈って見なくなりましたが、僕が中学生の頃買っていた本は、本当に注釈だらけでした。
巻末の後書きの前に数ページの注釈のページがあり、大抵の事はその注釈で勉強したような気がします。
どうして今の本て注釈無しで成立しているのか、不思議です。
確か中学生の時に買った『お気に召すまま』も、注釈だらけでした。
僕は注釈好きの子どもでした。
ただし、僕が注釈好きになったのは小説や戯曲がキッカケでは有りません。
漫画です。
漫画に注釈?。
不思議な気がしますが、その漫画は注釈というか、余談だらけでした。
漫画に添って余談などが書かれていて、その余談が楽しかったのです。
その続きで小説を読む時、注釈を確認しながら読むのがクセになり、楽しみになったのです。
1970年の話の続きになりますが、その年、大人向けのアニメ、『クレオパトラ』が放映されたのです。
大人向けですから、当時12歳だった僕は観る事が出来ませんでした。
しかし、小学校の前に本屋さんが当時在って、その本屋さんの前を通りかかった時、手塚治虫の描いたそのアニメの原作なのか、そのアニメの漫画化なのかは知りませんが、その漫画本を目にしたのです。
本のサイズは少年マガジンなどと同じですが、厚さが半分ほどでした。
パラパラとページをめくると、女の人のオッパイが画かれていて、僕は考え込んでしまいました。
そこで本屋のおばさんに声を掛け、この本て僕が買っても大丈夫か、聞きました。
おばさんは数ページパラパラと見て「大丈夫じゃない」と言いました。
そこで、僕はその漫画本を買ったのです。
その漫画本のタイトルは『クレオパトラ』です。
今回のテーマは、エリザベス・テーラの「クレオパトラ」ではなく、漫画の『クレオパトラ』です。
漫画本の上下には余白が有りますが、その上の余白に史実や余談がびっしり書かれていて、結構その史実や余談が面白かったのです。
ただし、漫画自体は手塚治虫的解釈で終わり、史実とは違いました。
それが史実とないまぜになり、これが創作なのかなぁ、そんな風に思いました。
ただ、それが史実と信じて人に話すと、やはり恥をかく事になりそうな内容でした。
大人向けの漫画と言っても性的な描写はなく、ただ単に史劇であり子どもが興味を持たないような漫画であっただけのようです。
そのアニメがテレビで放送されたのですが、思っていたほど面白くなかったのを覚えています。
僕が子どもの頃には、大映の『執念の蛇』など、今ならテレビで放送出来ないような内容の映画も、真っ昼間に放送されていたのです。
逆に昼間の方が、子どもがそんな番組を見る事がなかったのかも知れません。
真っ昼間子どもたちは、野球や自転車レースなどをして、外で遊んでいたからです。
ですから夜の10時頃に放送されていた「プレイガール」などを、後ろめたい気持ちで、親の目を盗んで見ていたのかも知れません。
話はそれましたが、兎に角その『クレオパトラ』によって、僕は注釈好きになったのです。
注釈には、その小説や戯曲の舞台となった時代の風俗や出来事、その本が書かれた土壌やその関連情報、言葉の意味や専門用語の解説、引用ならその出典や戯曲なら台詞の意味など、更に時代背景が書かれていて、勉強になる情報が山のように有りました。
本を1冊買えば、その倍の情報が得られたのです。
ですが、芝居を始め脚本の勉強をするようになった頃から、注釈に対する考え方が少しずつ変わって行きました。
脚本に書かれた言葉の意味を、演出の先生が説明してくれるのですが、なんか違うなと違和感を感じるようになったのです。
つまり、その小説や戯曲が書かれた当時、その注釈に書かれている事は、その時代では常識だったのではないか、そういう事です。
時代が変わったから、注釈が必要になったのではないか、そういう意味です。
難しい言葉の多用も、文盲率が高かった時代、小説を読めるほどの人間は、それなりに教養の高い人間だからではないか、そう考えたのです。
小学校の国語の授業で、何の小説だか忘れましたが、その小説がテキストにされ、その小説ならではの独特の表現は何かという先生の質問から始まり、その小説に使われている言葉の意味をグループに分かれて調べてくるという課題が与えられました。
語彙を増やす事と、辞書を引く習慣をつける事が目的だったのではないかと思います。
しかし言葉は生き物です。
例えば「世論」という言葉が有りますが、少なくとも昭和の中頃まで正確な読み方は「よろん」でしたが、「せろん」と間違った使い方を使う人が多く、いつの間にか「世論」の読み方は「よろん」でも「せろん」でも、どちらでも良くなりました。
で、グループごとに他グループに言葉の意味を尋ねるという形で、調べてきた事の発表が行われました。
小説に「酔う」という表現が使われていたのですが、その「酔う」という言葉は、お酒に酔うではなく、その景色やその朝の雰囲気に酔うという使われ方をしていました。
その「酔う」の意味は何かという質問が出ました。
この場合は、陶然とするという意味だと思いますが、酔ったように、うっとりとするさまという使われ方だったと思います。
「名演奏に酔う」とか、そういう使われ方と同じです。
陶然とするは、酒に酔っ払って気持ちのいいさまだけではなく、心を奪われて気持ちよくなっているさまも指します。
陶然の「然」は他の語の後ろに付いて、状態を表す字です。
呆然とか毅然とか、そういう使われ方だと思います。
しかし、小学生の授業ですから、「陶然」という言葉は使われませんし、現在「陶然」という言葉は滅多に使われません。
多分、現在の50代60代でも「陶然」の意味が答えられない人間がほとんどだと思います。
そういう時、注釈が力を発揮するのですが、僕は台本の勉強から入ったので、「陶然」という言葉を使いません。
演出家や役者が言葉の意味を理解していても、観客が理解できなければ意味がないからです。
これはあくまで僕個人の観想ですが、文盲率の低下が言葉の高尚さを破壊していったのだと思います。
難しい言葉を排除、或いは噛み砕き、更に状況を示す言葉の説明を文章に織り込んで行くのですから、注釈が無くなっていったのだと思います。
多分そんな表現の萌芽は、夏目漱石だと思います。
夏目漱石は、口語体で小説を書いた最初の人だと思います。
その分かりやすさが夏目漱石の魅力だと思いますが、文語体で書かれた樋口一葉の「たけくらべ」では、最初の1ページで舞台となる場面の紹介を的確に、無駄なく表現していて、美しく惹かれます。
台本を書く人間としては、なるべく難しい言葉を排除するだけではなく、若者にしか通じない新語も排除し、出来る限り普遍的な言葉を選択しなければなりません。
基本口語体なので簡単ですが、疲れていたり面倒くさい時は、言葉を噛み砕かないでそのまま使います。
結構言葉を噛み砕くという作業は頭を使い、疲れるし、それに語数を取ってしまうのです。
去年のユーキャン流行語大賞は「インスタ映え」と「忖度」だったようですが、テレビドラマならともかく、僕なら舞台用台本には2つとも使いません。
軽薄なように思えますし、直ぐ色褪せる気がするからです。
そう言えば1980年に、注釈だらけの小説が発表された事を思い出しました。
タイトルは「なんとなく、クリスタル」といい、田中康夫の作品です。
略称は「なんクリ」で、1980年の第17回文藝賞を受賞しました。
1981年には第84回芥川賞の候補にもなり、「なんとなく、クリスタル」は流行語になって、その1981年に松竹制作で、かとうかずこ(現かとうかず子) 主演で映画化されました。
公開は1981年5月23日です。
物語は、アルバイトでファッションモデルをやりながら大学へ通う、渋谷の高級マンションに暮らす女子大生、由利の姿を描いたもので、クリスタル族という流行語まで生まれたのです。
その注釈は、当時流行のファッションやブランドに関するものでした。
ちなみにかとうかずこは、大学生時代、つか劇団の稽古に見学に来たところを、つかこうへいにスカウトされ、その舞台に立ち女優としてデビューしたのです。
その舞台のタイトルは、『広島に原爆を落とす日』です。