〇債権者であるコマのエネルギーは、通常、ネガティブな質を帯びている。けれども、人はそのエネルギーに善良な意思を与えることで、エネルギーの極性を変えてしまう。だから、乾杯と決してして空疎な儀式ではなく、意図の宣言なのである。
しかしながら、せっかく乾杯が好ましい作用を持っているのにもかかわらず、どの乾杯も同じ間違いを含んでいる。それは、通常、未来に向けて願っている点である。すると、コマから提供されたエネルギーはただポジティブなものに変換されるだけとなり、リアリティには影響を及ぼさない。願っていることは依然としてどこか手の届かない遠くにとどまり続ける。そして、このことはすべて法則にかなっているのである。なぜなら、鏡は未来を映し出すことはできず、常に現在を反映するものだからである。
このことから何が導き出されるだろうか。それは、乾杯を現在形で行うべきだと言うことである。そうなると大変奇妙な完敗になるだろうが、効果があるのである。例えば、、「さあ、飲もう」ではなく「それ、飲んでいる」となる。あるいは「我々はすこぶる健康だ」「我々は勝利したところである」「ここにいない人々は常にわわれとともにある」「海で働いている人々は幸運だ」「我々の願いはかないつつある」「成功は常に我々について回る」等々となる。
アルコール飲料を用いれば、願いを簡単に現実化できると思ってはならない。ご存じのように、これには裏がある。借り入れが多ければ多いほど、利子も高くなるのである。「ローン負債」が増えるとともに、人間の意識、すなわち人間の意図は、亜空間にある現実とは合致していない領域に移っていくことは言うにおよばない。代わりに覚せい剤を用いて同じことを行うなどはもってのほかである。コマのネガティブなエネルギーをポジティブなエネルギーに変換することは、いつでもだれにでもできるというわけではないのである。
黒魔術の作用は同じ原理に基づいている。意地悪な魔法使いが闇の力に呼びか、そのエネルギーで敵意に満ちた自分の意図を強めようとするのである。
一般的に言うと、コマから借金する事はあらゆる点で得なことではない。しかし、もしそれでもあなたがコマから借金をするのであれば、決まりを守らなければならない。「コマの罠にかかっている」ときには、良いことだけを考えよ、という事である。
事象選択の駒を例にとってみよう。もちろん、事象選択の駒はあなたに害をもたらさないから、意図を宣言してみると、その効率性が上がるのをはっきりと実感できる。事象選択に関する情報に接するたびに、それが目的を達成しようとするあなたの助けになることを思い出そう。このような意図の固定は事象の流れのベクトルを必要な方向へきちんと向けてくる。
あなたの人生とは縁もゆかりもないような他のどんなコマの場合でも、同じやり方で振る舞うべきである。例えば、テレビシリーズやショー番組を見るときに、あなたはいずれにせよコマとエネルギーを交換している事になる。効果を観察しながら、目的とするスライド、つまり受け取りたいと思う画像を用意しておこう。情報の流れの中で、あなたの目的に少しでも関係しているような引っ掛かりを常に探してよいのである。例えば、テレビシリーズの主人公がゴージャスな車を乗り回していたら、そこですぐに自分も似たような車を買う予定だという事実を確認しておこう。
エネルギーの借り入れを受けるときには、絶体に悪いことを考えてはならない。思い煩い、重苦しい悩み、憂鬱、恐怖などはすべて追加補給されるエネルギーによって強められてしまうだろう。次に具体例を挙げよう。
休息をとるときには、間もなく訪れる成功について、それがまるでもう手の中にあるかのように考えよう。あるいは、CMがコーヒーの馥郁たる香りを楽しむようアピールしているとしよう。そのときには、自分の成功を楽しんでみよう。それは何が起ころうとも、常にあなたとともにある。なぜなら、あなたは意図の調整の法則を忘れてはいないからである。例えば、あなたがタバコを吸ったり、コーヒーを飲んだりするときに名は、思考を無駄に成り行き任せにしておくのではなく、意図を宣言してみよう。「あらゆる理ことは素晴らしくうまくいく。なぜなら、私は自分の意図によって自分のリアリティを形作っているのだから。それに、私はそれをどうやるかに知っているのだ」
まさにこの減に基づいて、茶会も執り行われる。食事の前の祈りや供物も、多くの民族の伝統に見られる。しかしながら、神を正当に評価する一方で、自分についてのことも忘れてはならない。
もしあなたが「さあ、たくさんお食べ、いい子だから、大きくなるんだよ」と言いながら、愛情と思いやりをもって「自分を養う」ようになると、全く予想外で信じられないほどの効果が得られるかもしれない。病気のいくつかは消えてなくなる事も大いにあり得る。最初、肉体は驚くだろうが、その後、大喜びし、優しく大切に世話された花のように開花することだろう。大事なのは、心からの愛情、配慮、そして、「おお、よしよし、たくさんお食べ」というような言葉をかけながら自分を世話することなのである。
そうした意図の宣言は、大きな力を持っている。もしこれまでのあなたが自分に対して冷淡に、あるいは憎悪を抱いて接していたのなら、自分を気遣うという儀式は驚くべき変化を引き起こすことだろう。信じがたいなら、試してみたらよい。
これまでに述べてきたことを念頭に置けば、意図の宣言を、相場、カジノ、競馬などの狡猾なコマとのゲームで利用できそうに思われるかもしれない。原則的には、利用しない手はないだろう。もしお金をかける瞬間やゲームの過程で、絶対に当たりが出るスライドを頭のかなに映し出しておくと、勝利の確率は上がることだろう。実践してみるのは簡単ではないが可能である。通常、プレイヤーの考えとはおおよそ次のようなものだ。「ああ、勝ちたいなあ」「でも、もし負けたらどうしよう」「いや、俺様は絶対に勝つはずだ」「今度はつくぞ」
これではどれもダメである。ここにあるのは、願望、どうやって勝つかという思惑、負けることへの恐れ、勝つことへの期待である。勝つ事への期待を含め、あらゆる思惑や感情を投げ捨てなくてはならない。疑う余地がなく、情熱とは無縁の、勝利を所有する決意だけが残っていなければならない。「私は勝利者だ」という糸の宣言で無ければならない。そこには、理由、条件、感嘆符などは一切ない。もしあなたが「所有する決意」と表現ざれる正体を無条件で平然と達成できたら、勝つチャンスは急上昇することだろう。

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〇既にみてきたように、人間の意識は低いレベルにあり、構造は徐々にではあるが着々と最後に残っている意識性のかけらまでさらに引き下げるための手を打ってくるだろう。構造が完全に勝利するためには、全ての構成員たちを一つの情報空間にまとめる必要があるのであるが、それは現在、急速かつ着実に推し進められている。おそそらく自分をすっかり封じ込めてしまうには、ほんのわずかな煉瓦を壁に積み足すだけでよいのだろう。
では、いったいどうすればよいのだろうか。何しろ、文明の利器を利用すれば、「放し飼い」状態に置かれてしまう。文明化から逃げ出し、自然に囲まれた共同体に移り住もうとする人々もいる。彼らの試みがどれほどうまくいっているかについては、判断を避けたい。どのみち、現代人が文明社会と完全に縁を断つことなど、不可能なのである。そのような生活に適応できないのだから。しかしながら、あらゆる有害な文明の産物を最小限に抑え、それらを自然からの恵みと置き換えてやることは意味のあることである。
例えば、庭や菜園のある土地に居を構えるというのがある。現代文明と言う砂漠の中にある生きた自然と言うこうしたオアシスの優れている点は、規則や基準を定めるのが構造ではなく、その土地の主だという事にある。気に入らないのに畝を耕す必要は全くない。だれにでも自分の生き方を自分で決める事由があるべきである。すべてをアスファルトで覆いたければ覆えばよいし、荒れ放題の無秩序の中で自然のなすが間にしておきたいのならそうすればよい。
では、都会暮らしを続けざるを得ない人にとってはどうかというと、別の手がある。自然食品だけを摂取する生活に移行するという事である。そのためにも、構造内で育て上げられ、スーパーマーケットで売られている見栄えのするリンゴが、本質的にその構造に「れっきとした」構成員にふさわしく、そうした食物はさまざまな病気の原因になるのだという事を、まずは目を覚まして認識すべきである。
一般に、道は多数あり、だれもが自分のために自分の道を選ぶ。私にとっての手本示してくれたのは、「拝謁の光栄に浴す」こととなった野良猫である。
私は友人たちとともに、文明の恩恵から離れて休息するべく、森へ出かけ、焚火を囲んで料理を作る事が好きだった。ある日のこと、丸々と太った猫がうまそうな匂いに誘われて、私たちのいる場所にやって来た。どうやらこの猫はかつて人間に飼われて遺たようだが、その後、何らかの事情で森にすむ事になり、野生化したものらしかった。大きさからさし計ると、この毛足の長い無頼漢は、鳥やネズミなどを巧みに捕まえているようだった。いや、こんな猫ならウサギでも仕留められることだろう。私たちの料理を分けてやったら、猫は遠慮しなかったが、余計な礼儀は省き、分け前を口にくわえると、一目散に走り去った。
その後も、私たちは一度ならずこのネコと森で出会った。髭もじゃのネコはごちそうされるのが嫌いでは無かったが、私たちがなれなれしく接するのは許さなかった。まさしくこの猫は本物の事象選択であった。彼は真の自由というものの味を知り、文明と時折接触するとは拒まなかったものの、自分の独立性をいかなるものとも引き換える気はなかった。
依存することなしに文明の利器を利用することは可能である。群れから自由な人格を分け離してくれるのは意識性である。ただ目を覚まし、回りで何が起こっているかを自覚するだけでよい。そんなわけで、私はそうしたすべての事を知ることができたから、あなたに話しているわけである。なぜならば…。そもそもこれは秘密なのである。しかし、親愛なる読者のあなたには教えてあげよう。実は、私は野生化した人間である。私は農場から逃げ出してきたのである。
これまで、どのようにしてコマから自由になり、その影響に屈しないようにするかについて考察してきた。それでは、コマから何らかの利益を得られないだろうか。一般的に言うと、どんな夢でも結局はコマたちの助けによって実現されるという事になる。なにしろ私たちはみな何らかの構造の中で暮らし、働いており、この事実からは逃げ出すことができない。要は、構造が夢を奪うのではなく、その実現を助けてくれればよいのである。
では、コマに直接作用する何らかの方法はあるだろうか。どう見てもなさそうである。コマを手なずけることは無理な相談であり、コントロールする事も不可能である。しかし、それでも自分の利益のためにコマの特性を利用することができるのである。
なぜ人が仲間たちと食卓を囲んで乾杯するのか、あなたにとっては思いもよらないことだろうか。そこには何か実際に役立つ意味があるだろうか、それとも、純粋に印象的な儀式に過ぎないのだろうか。実は、決して理由のないことではないのである。時折、人々の知恵は、無意味な迷信に似た慣習や決まりを生み出すものである。しかし、人々は、そのような慣習や決まりがリアリティを操縦するためのある種のやり方であることを疑わず、古くからあるそうしたことに無意識に従っている。
既にみてきたように、アルコール飲料の摂取はエネルギーを借り入れることである。自由エネルギーの追加補給を受け一段階分上昇する。これは意思のエネルギーに他ならないため、意思がどこに向けられているかに応じて、しかるべき結果が得られることになる。
例えば、やけ酒を飲むと、リアリティは益々真っ暗な穴の中に落ちていく、祝杯を挙げると、喜びの理由も増える。不安や恐怖という感情とともに杯を傾けると、人生が本当に何かを心配する方向へと暗転する。その他あらゆるケースで同じことがいえる。
エネルギーの高まりによって強化された思考放射は、それにふさわしい質を備えた人生ラインへと人を移動させる。クレジットを提供したコマは、意図のエネルギーの増幅器としての役割を果たしている。コマそのものは、それがどれほど揺れ動こうが、魂の意図にアクセスすることはできない。そのため、亜空間にあるセクターを物質化させる能力はない。リアリティは生物の身から影響を受ける。そんなわけで、人が乾杯するときは、自分の意図の方向性を固定していることになる。何が起こっているか、理解されただろうか。

〇コマによるエネルギーの「搾取量」が最大値を示すのは、覚せい剤を服用している者が相手の場合である。一瞬で終わる陶酔感は、その後に訪れる鬱症状と比べたら、割に合わないものである。もし定量を服用する事か遅れてしまうと、この不幸な者は戦慄すべき苦痛に襲われ、すべてのエネルギーを最後の一滴まで搾り取られることになる。
別の種類のずっと低金利のクレジットもある。それは何と言って、たばこ、コーヒー、紅茶、ノンアルコール飲料、チューインガムのことである。ここまで読んで、どうしても一言言わずにはいられないことがいるかもしれない。「よくもまあとんでもないことを。それに、何んでここにガムが入ってくるのか。」
すでに述べているように、何らかの物質的欲求や精神的欲求を満たす際に、エネルギーが放出される。満足期間、心地よさなどのエネルギーはどうという事はない。いずれにせよ、欲することはエネルギーを蓄える事であり、望むものを受け取ることはエネルギーを放出することなのである。ガムをかむ程度で人は一定の快感を得ている。ついでながら言うと、この物をかむという事はとても古い期限を持つ快感である。このような快感の本質は極めて明白なのである。あなたがものを食べているとき、全ては順調であり、あなたが食べられているとき、形勢は不利だという事である。
どのような執着であろうと、結局のところ、つぎのようにまとめられる。もし人が「常連客」になると、その人は「群れ」、つまりコマに加わることになる。その人を群れに追い込む必要はない。コマが仕掛けた乗っ取りの罠に客の注意が向けられる内は、何もしなくてもその人はどこかへ逃げたりはしないからである。自分が執着している対象について考えているとき、その人はコマと同調する周波数でエネルギーを放出している。例えば、借金した「債務者たち」の全ての思考は、エネルギーの次の取り分、すなわち貸し付けを受けることだけにもっぱら向けられている。債務者たちは他のことを考えることができない状態にある。なぜならコマが彼らの注意をそらしはしないからである。
こうした注意の乗っ取りが可能なのは、人間の精神心理が持っているある特徴による。注意は何か同じとにしつこく向いてしまう。それは、コマが一定の方向に風を送っている場合の、風見鶏の風向きを示す矢に似ている。注意の方向を示す矢が乗っ取られた状態とは、頭からメロディーがなかなか抜けないような単純な例で見られる。
依存関係は生理学的要因だけのために深まると思ってはいけない。生理的要因もあるにはあるが、主因では無い。例えば、自他ともに認める愛煙家たちが潜水艦に乗って出港した場合、彼はらはタバコを吸えない事を負担には感じない。ハッチが閉じられ、潜航の命令が下ると、客観的に見て喫煙の可能性が全くなくなってしまうため、たばこを吸おうという考えがすっかり失せてしまうのである。愛煙家はこうした客観的必然性と完全に折り合いをつけ、喫煙について単に考えなくなる。愛煙家の注意は別の方向へ向く。生理的依存はどこへ消えてしまうのだろうか。ところが、潜水艦が航海から戻ると、もし愛煙家に喫煙するつもりがなければ、たばこを吸うのも悪くないものだと思いだし、またあのしつこい債権者が自分の罠へと愛煙家の注意を引き付けることになる。
注意の方向性を乗っ取る現象は、ゲーム依存症やインターネット依存症でも見らる。パソコン画面の前にいないと機嫌が悪くなるというように、度を越してしまった人々が大勢いる。こうした依存症に陥ってしまった人々をパソコン画面からたとえ数時間でも引き離すと、あらゆる苦痛の兆候が現れ、借金の返済が始まる。頭痛、筋肉痛、耐えられない不快感が起こる。ところが、その人がパソコン画面の前に戻ったとたん、全ての兆候は瞬く間に消えてなくなる。いかなる生理的欲求もここでは介在していないことは明らかである。
依存症はすべてのケースで主に注意の方向性が、コマによる乗っ取りの罠にはまったことによって生じる「ゲームから降りる」ためには、注意を切り替える。すなわち注意を何か別のことに振り向ける必要がある。
意思の力によって乗っ取りの罠から解放されることは、果たして可能だろうか。頭になかにいつまでも居座り続けるしつこいメロディーから解放されるには、ほかのメロディーに注意を切り替えなければらないのと全く同じことである。通常、有害な執着とは、一定のシナリオと舞台装置一式を伴っている。これらは、注意の乗っ取りに手を貸すことになる勤務時間中のたばこ一服のように、典型的な状況を創り出す。借金を生産し、こんな質の悪い銀行から立ち去ることは、シナリオと舞台装置を変更するという方法でしかできない。それは難しいことではなく、そう願う気持ちと若干の想像力があればよい。
いずれにせよ、文明の利器を利用する人は、「借り越し」にはなっていないまでも、自分の意思とは関係なく、エネルギーの一部をコマに渡している。人々は「飼育」されているとまでは言わないが、文字通りの意味で「放し飼い」にされているのである。文明社会の生活全体がエネルギーの消費と返却の絶え間ないプロセスである。そして、こうしたすべてのエネルギー交換がコマたちによってコントロールされているのである。
しかし、エネルギーを人々から集めること自体は、それほど恐ろしい事ではない。構造の持つ深刻な脅威とは、構造に所属する各メンバーが本来歩むはずだったせっかくの自分の道を無意味なものにしてしまう点である。構造のメンバーは、自分の歩むべき道が存在する事すらすっかり忘れてしまう。人間は、構造が命じることを実行するだけでなく、構造に有益なことを求めるようにさえなりつつある。人間は理性的な存在であるから、自分自身を奴隷化することはないだろうなどと、甘い期待を抱いてはいけない。

〇なんと不思議なことだろうか…。わかりきっているのに、不思議なことにも思える。栽培植物や家庭のペットと動物がかつては野生であり、自然の中で独力で存在していた。ところが、人間が「目覚め」それらを自分の管理下に置くとができると認識したのである。動植物が無意識の夢見状態にあるのに対し、人間は、まさに意識性のおかげで、動植物の上に君臨し、自分たちのためにそれらを利用することが可能となった。そのためには、奴隷化された者たちがどこでどのようにして存在すべきかを定める行動を作り上げる必要があった。
動物や植物の目的…そうした目的は疑問の余地なく存在する・・・・が、どのようなものであるにせよ、構造の秩序性はそうした目的を無意味なものにした。人間の観点からは、年下の兄弟である動植物の命の目的は、人間の食事と繁殖という原始的な欲求に記する。しかしながら、もしこの「最高の」生き物が本当にそう考えるのであれば、人間の完璧と言われている理性がむしろ原始的なレベルにとどまっていることの証である。
本当は、どんな生き物にも自分の目的があるのである。それにしても、どうしてそうなっているのか。なぜだろう? なぜならば、目的達成のプロセスが進化の原動力であるからである。
この問題にはまたあとで戻ろうと思うが、今は次の事実を確認するに留めよう。生き物の真の目的は、たとえそれがどのようなものであろうとも、その生き物が生息する自然環境の中でしか達成することができない、という事である。どのような構造でも、各構成員の目的を構造の利益に従わせる。飼いならされた、あるいは「秩序化された」動植物の発展は、それらのために人間が定めた方向へと進む。結果として、構造の構成員はより深く眠りこみ、最終的には自分たちの真の目的についてのイメージを失ってしまう。
野生の動植物の生活はずっと豊かで意識的である。野生のシカを例に取ろう。心配事は山ほどある。猛獣から身を守る問題もあれば、子供たちの躾け、食べ物探し、家族関係、上下関係などの問題もあれば、それに、ただ人生を満喫するという問題も含まれてくる。
農場という構造にいる牛の群れの生活はずっと貧しい。人間が、安全な寝床と食べ物を確保してやる事で、牛たちから一連の問題を取り除いたのである。しかし、その代わりに、彼らを飼い主に自分の目的を譲渡さざるを得ず、なぜ、どのように、どのくらい牛たちが生きるかを決めるのは、今や飼い主側となった。これは、人間が「悪魔に魂を売り渡した」場合とそっくりではなかろうか。では、人間の場合はどうだろうか。構造を作り上げることで、人間自身がその奴隷になるというのが現実である。人間は自分を見失い、自分が何者で、何を欲するのか、理解してみようとすることを止める。人間のあらゆる活動は、結局のところ、様々な商品の生産や売買に帰結する。あらゆる行動の中枢には、コマが上部構造のように君臨している。コマたちは商品自体に興味がないのに、構造は大変活発に発達する。なぜそうなるのか。
実は、やり取りされる主な商品となっているのがエネルギーなのである。人間は自分の喜びや慰めのために物を買う。そうではなかろうか。喜びや慰めをもたらすものと並んで、他者に不快感をもたらす使命を帯びたものも存在する。そして、いずれの場合も、ポジティブあるいはネガティブなエネルギーが放出される。これこそがコマにとって必要とされるものなのである。
御覧のように、形あるものそれ自体の生産や流通が決してすべてなのでは無い。売買されるのは、何をおいてもまず第一にエネルギーなのである。そして、このエネルギー市場をコントロールしているのがコマたちである。エネルギーの少量が人間に与えられ、大半はコマたちに与えられる。千草をもらうものもいれば、ミルクをもらうものもいる、というわけである。
エネルギー市場では、金融市場にも似たオペレーションさえ行われている。例えば、アルコールである。これは純粋な意味でのエネルギーである。人はアルコールを飲むことで、エネルギーを借りる。アルコールによる陶酔は借金する事であり、二日酔い症状は利子をつけて借金を返済することである。いつも返済するときの方が多くなる。コマたちは決してただでエネルギーを恵んでくれたりはしない。
少量のアルコール分が入った飲み物はリラックスさせてくれる。コマはエネルギーを少しずつ吸収する。逆に、強い飲み物は「酒を飲め、歌を歌え」というようにエネルギーがこみあげてくる充実感をもたらす。ところで、コマはこのエネルギーを高金利で貸し付けているのである。まもなく調子が怪しくなってくる。「歌を飲め、酒を歌え」。大きな効用間の後には、奈落の底への急降下が待っている。興奮が強ければ強いほど、それに続く落胆ぶりも激しい。
二日酔いになる主な原因は、臓器への生理学的打撃ではなく、コマが人間の自由エネルギーをしきりに組みだすことにある。こうなると、のたうち回るか、迎え酒をするかしか無くなる。ふたたびコマが人間にエネルギーを貸し付けることもあり得る。慌てて取り立てる必要はない。借金の返済日は遅かれ早かれら確実にやってくる。バーテン相手なら、感情をすまさずに飲み逃げするのは可能かもしれないが、コマが相手ではそうはいかない。自分の「債務」が大きくなれば大きくなるほど、その返済も厳しいものとなる。
このような状況では、債務者の自由エネルギーは完全にコマの思うがままとなる。人は、自分のエネルギー身体の心臓部チャクラのあたりを、だれかに文字通り鋭い爪のついて手でひっつかまれるように感じる。もっと借金をするか、それとも、拷問を続けてほしいか、とコマは条件を突き付けてくる。人間の意思とは、実をいうと、その人の自己エネルギーが貸し付けられるが、そのために益々過酷な取り立てが避けられなくなる。心臓が停止してしまうことだってしばしば起こる。コマが人間をそっとしおいてくれるのは、それ以上奪うものがなくなってしまった場合に限る。そして、もし生き延びることができたなら、それは単に不幸中の幸いであっただけの話である。
一番初めのクレジットは、プレゼントのように恵み豊かで晴れがましい。ご存じのように、人生最初の一杯目の酒は非常に思い出深いものであり、その後、貝を重ねるごとに、感覚が鈍くなってくる、とまでは言わなくとも、ここ強さは次第に減退する。コマは自分の網へとおびき寄せたい一心で、「財布のひもを緩める」。その一方で、借金の取り立て初音に無慈悲に情け容赦なく行われる。だから、このような類の借金をしたら、意識性を特別高いレベルに維持し、自分の「支払い能力」を自覚しておくべきである。
酩酊したホームレスたちというのは、決して一般に考えられているような堕落した人々ではない。こうした風な人々は、自分の力を効力せず、手遅れにならないうちに思い切って借金の返済をしておこうとしなかっただけないのである。だから今日まで借金して暮らしているわけである。ローンを何度も受け、その都度に返済がどんどんつらくなって行く。だが、そもそもの始まりは心躍る宴席であった。転落のプロセスは知らず知らずのうちに速度を増すが、どうすることもできず。その後、雪崩のようになる。誘導移転の本質は非常に狡猾であり、だれもが漏斗に引きずり込まれかねない。
一般的に言うと、強烈な悩み、すなわちエネルギー消費の大きい悩みに関係するものの全ては有害な執着であり、それら全でがコマたちからのクレジットなのである。なぜ有害なのか。なぜならコマたちは本質的に攻撃的であり、争うごとにエネルギーを増大させようとする傾向を持つからである。魅力的だが有害なものの全ては、人間にとって早晩悪い結果に終わる。害が大きければ大きいほど、ネガティブなエネルギーが多量に放出される。ポジティブなエネルギーは決してそんなにたくさんは放出されない。

〇全ての子供は、生まれながらにして、輝かしい個性によって際立っている。まだ幼少時の子供たちはとてもかわいらしくて魅力にあふれている。子供たちの魅力の秘密は、魂と理性との調和のとれた一体性にある。彼らはあるがままの自分を受け入れているため、将来持っている魂の美しさは、理性の偽りのマスクによって歪められてはいない。
成長するにつれて、なぜこんな素晴らしい存在であるはずの子供たちに、不愉快な特徴や悪い面が現れて来るのだろうか。何しろ彼らは神の子供たちなのであるから、生まれたての頃の寄る辺なさにもかかわらず、神自身のように美しく強いのである。彼らは始めから創造主の力を持ち、新たなリアリティを築き上げる能力を持っている。ところが、神の子供たちの能力が開花し発揮される間がないのである。なぜなら、コマたちが、子供たちの持つ神の力である魂と理性の一体性を奪ってしまうからである。
子供たちはこの世界にやってきて、ビーズ玉のような両目を大きく見開き、信頼に満ちた澄んだ眼差しで世界を眺める。彼らにとって人生は期待と希望に満ち凍てると思われる。しかし、この世界では「分割統治」の原則に従って活動するコマたちが支配権を握っている。
コマたちは人々の思考とその方向性を一つにまとめるが、その際、人格の独創性や一体性を破壊する。理性を魂から分離し遠ざけると、神から授かった美しさと力は失われていく。
時間がたつにつれて、あらゆる希望は裏切られていく。あるものにとってこのプロセスはゆっくり痛みを伴わずに進むが、不運な者にとっては急激に残酷に進む。孤児院の子供たちの目を眺めてみると、希望と絶望という二つの相容れないものを同時に読み取ることができるような気がする。彼らの目には、「え、本当に」という果てしなく繰り返される疑問がまるで張り付いているかのようなのである。
コマの世界は、子供たちがぜい弱で不完全なことを常に彼らに示す、最初、彼らの意識には不振が芽生え、その後、恐怖も生まれる。恐怖はしっかりと根付き、それに慣らされていく。怖いからと言って逃げ出すことはできないのである。この好戦的な世界で何とかして生き抜かなくてはならない。行動の強力な影響下に置かれている神の子供たちは、構造の構成員ならざるを得ない。
子供たちは成長するに従い、皆と同じでないことに不安を感じるようになる。なぜなら、「皆と同じ」もの方が彼らに「言いがかりをつけて苦しめる」ことがしばしば起こるからである。群衆の中にあるとまだ安全なのである。ところが、もし群衆の外側に立っていると、仲間外れにされるかもしれない。こんな風にして、子供たちは生まれながらに持っていた独立心。意識性、直感、個性という天賦の才能を少しずつ失っていく。
今述べたすべての資質を最高のレベルで持っているのがインディゴの子供たちである。だが、それらの資質は行動にとっての死を意味するも同然であるため、意思の土俗化プロセスは今後も加速される一方であろう。その戦いで誰が勝利を収めるかはわからない。
私たちにとって大切なことは一つ。構造の側がまだ最終的な勝利を収めないうちに、今、この人生のうちに、神が私たちに与えてくれた力の一部分でよいから取り戻して置くべきなのである。その際、事象選択も私たちを助けてくるだろう。
ところで、親愛なる読者であるあなたは、たまたまインディゴではなかったのだろうか。もっとも、そのことにさほど大きな意味はない。私たちはみな本質的に同じなのである。大人になった子供か、子供のままの大人かのどちらかである。

〇非常にたくさんの人々の意識を支配するためには、有名な映画「マトリックス」に出てくるような吸盤付きのフラスコ状容器に人々を閉じ込めておく必要は決してない。なんでもありの情報網を作るだけで十分なのである。そうすると、人々は自らその組織単位の中に自分の居場所を見つける。
では、人が情報網の組織単位の中に居場所を見つけるというのは、どういう事だろうか。それは、いわゆる社会分子のことであり、マトリックスを想起させるような構造における本人の正体によって本人の意識が制約を受けるという事である。
構造は、思考や行動の固定観念の一定の組み合わせによって、各メンバーを知らず知らずのうちにしっかりと包み込む、人は自分が自らの意思で自由に行動しているものと思う。けれども、人は自由が本当はどういうものか知らない。なぜなら、その人の意思の「輪郭」は構造によって形成されたものだからである。人は、その人に割り振られた意思に従って、押し付けられたゲームをしている。
一見すると、だれにでも欲する全てのことを行う自由があるように思われる。宣言文に記されている自由とはそうしたものである。ただし、各人が欲することができるのは、構造の利益と合致していることだけである。行動は必要とされることを欲するよう教え込む。
まさしくこの意思の土俗化プロセスについて、私は話しているのである。このプロセスは、コマ自体が意識された意図を持たないことから、その性質上、共同作用的、すなわち自己編成的なものである。凍結すると氷の結晶が出来上がるように、全てはひとりでに起こる。寄生植物のコロニーにも似た、コマたちの網は、地球の生物圏全体を包み込んでいる。
恐ろしいと思われただろうか。あるいは滑稽に聞こえるかもしれない。どういう感想を持つかは各人にお任せする。こうした考察を空想小説と思うのも各人の自由である。そうは言うものの、日常に現実が見たこともない形で目前に現れると、その残酷なリアリズムが最も大胆な空想小説をも超越していることがある。
インディゴ・チルドレンに戻るとしよう。構造が意思を土俗化する今日の傾向が、生まれながらにして独立心を持つ子供たちの出現という応答反応をもたらしている。それは自然による当然のプロセスである。コマたちの網がはびこることに対して、平衡力の作用がそのように表れたのである。
一方で、コマたちは世界に秩序をもたらし、人々をマトリックスに似た構造に追い込もうとするが、他方で、インディゴたちはコマたちの専横を相殺している。まるで、インディゴたちはそうすることで自分たちに与えられた使命を果たそうとしているかのようにも見える。インディゴたちの行動は、秩序性の破壊に向けられている。インディゴたちは、固定観念と制約の枠に押さえつけられながらも、自由を求めて抜け出そうと試みる。
全ての子供たち、その中でも特にインディゴたちは、過剰ポテンシャルに敏感である。例えば、どんなごまかしでも途端に見破ってしまう。彼らにおもねると、横柄な態度に出る。ほめ過ぎれば、すぐにすねる。
どんな秩序性も分極化をもたらすが、その分極化を子供たちはすぐに破壊しようとする。「寝るのは嫌だ。オートミールなんかいらない。自分でやる。」子供たちに見られる反抗し無礼を働く傾向は、意地悪からではなく、外部によって管理される状態から解放されたいという自然な願望の結果として現れるのである。
時折、子どたちは面当てのようにして何かをすることがある。そのような場合、彼らの行為は偶然出会って、意識されたものではない。彼らは挑発的な振る舞いを企てたり思いついたりはしない。自然に一人でそうなるのである。大人たちが子供たちを押し込めようとする秩序性というものに対して、平衡力の作用はそんな風に表れる。
インディゴ達が独立性を勝ち取ろうとする傾向は、宗教への態度にも現れている。リー・キャロルとジャン・トーバーは次のように書いている。「新たな子供たちには今日の境界を受け入れることが難しい。インディゴたちは、自分たちが神の子だという張り詰めた自尊心とゆるぎない自信を抱いて、この世界にやってきた」。この場合、神との交流に仲介者を必要とするだろうか。おそらく必要はあるまい。
インディゴの子供たちは理性よりも心の声に従うことが多い。大人たちは、正しく振る舞うと、よくやっていると考える。子供たちは、愛を伴った心からの行為が大切なのであって、正しいと思われることが大切なのではない、という考えを堅持している。
ところで、あなたの子供が、いつの頃か、前世において、あなたの親であったとしたらどうだろうか。いまは立場が逆転していることになる。そして、この古くから存在している魂は、あなたにたくさんの懸命な教訓を垂れることによって、再びあなたを教え続けているとしたら…。
インディゴの子供達の賢さは、高い意識性の結果である。彼らは周りで何が起こっていて、誰が重要なのかという事をはっきり理解している。注意を向ける方向が、外部世界ではなく、自分になると、意識性は研ぎ澄まされる。何しろ、人は外部から押し付けられた心配事で頭がいっぱいになると、無意識に参加しているゲームにすっかり浸りきってしまうのだから。インディゴ達の意識性は、コマの網の中にいる人々の「意識麻痺」の傾向と対峙するものである。

〇目を覚ましたあなたは、行動が自分の決まりを押し付けようとて、どのようにあなたを抑圧しているかを感じ取り、理解することになる。すると、あなたは、構造の決まりと縁を切るか、それとも従うか、自分のために決断する事が出来るようになる。大事なのは、そうした決断をあなたは意識して行う点にある。その一方で、あなたの周りにいる他の人々は夢の中に居続けるのである。まさしくこれこそが状況の支配者の戦略と呼ばれるものである。典型的な例として、次のお便りを紹介しよう。
「自分の仕事をうまくこなしたり、そのうえ、目標以上に多くやり遂げたり、あるいは何か新しいアイデアの提案が熱烈に支持されたとき、手柄を立てたのは私だと言いう事には誰も注意を払わず、感謝の言葉を他の人に向けるという事が時々あるのはなぜでしょうか? ことが昇進に関係しているときでさえ、私のことなど始めから予定になかったかのようにしてすぐ忘れさせられたり、あるいはちょっとした昇進話が持ち上がっても、他の役職への手続き中なのに、私の座るべき席がすでに別の人に占められていたり、またはすべての手続きが滞ったりします。私はまるで透明人間のようなのです。どうしたこんなことになるのでしょうか?」
このお便りを寄せられた読者は、おそらくどこかの管理部門で働いているものと推察される。どのようなシステムであれコマなのである。最初は、思考と原則の総体としてのエネルギー情報構造が生まれ、その後、その物質的現実化、すなわちステムが立ち上がる。システムは、信奉者たちを自分の決まりに服従させながら、ひとりでに発達し始める。
コマは自分の信奉者たちを要職に付けるが、それは彼らが大きな業績を上げたからではなく、システムによりぴったりとあてはまるからである。出世会談、とりわけ権力の階層組織では、人々がおのおのの秀でた能力と業績に応じて並べられるはずと考えるのは無邪気すぎる。ある程度はそんな傾向もあるだろうが、秀でた能力や業績が主な理由なのではない。
主な基準となるのは、人がどれほどうまく自分の仕事をこなすかではなく、システムの観点から見て、どれほど正しく行うかにある。コマはまず何よりも安定性に腐心する。そのため、この女性読者も、まず第一に、システムの安定性の維持に向けた行動をとらなくてはならない。
もしこの読者が出世階段を上って行きたいと思うなら、「うまく」と「正しく」の間の違いを理解するべきである。いま述べていることは、具体的な集団によって異なる。コマにもいろいろな種類があるからである。
小さな集団では、創造性、熱意、イニシアチブが歓迎されることもあるだろう。しかし、集団が行政機関や大企業である場合、そこでは全く別の決まりと、全く別の論理・・・企業倫理・・・・が働いている。
企業倫理というのは、より厳格な法規制、規律、処理能力を前提とする。イニシアチブを発揮すると、しばしば罰せられ、独自性は警戒心を持って迎えられ、創造性は決定的な役割を果たしはしない。そのようなシステムでは、「よりうまく」ではなく、「より正しく」行動することが必要になる。
このように、自分の行動をコマの世界固有に文化風土とよく考え併せつつ、意識して柔軟に振る舞う必要がある。しかし、そうすることは、思ったほど難しくない。大事なのは、ちょうど良い頃合いに目を覚ますことなのである。
新たなリアリティのもっとも顕著な現れの一つに、「インデゴ・チルドレン」という現象がある。これについては、リーキャロルとジャントーバーによる同盟の本に詳しく書かれている。「インディコ・チルドレン」という用語は、霊能者でもあるナンシー・アン・タッペによって考案された。彼女は人の性格とオーラの色との関係を調査してきた人である。
1970年代の初め、ナンシー・タッペは、奇妙な現象に遭遇した。これまで出会ったことのないインディゴ色のオーラを持つ新しいタイプの子供たちが世の中に出現し始めたのであった。
インディゴ・チルドレンは性格的にも他のたくさんの子供たちと大きく異なっている。彼らの主な特徴は、異常に活発で注意力にかけている点である。もし目の前の問題が彼らにとって興味のないことであれば、じっと座っていることができない。インディゴの子供たちは全員が必ずそうした特徴を持っているわけではなく、その逆の場合もある。彼らは千差万別なのである。
彼らに共通しているのは、生まれながらに持っいる自尊心と独立心である。インディゴたちは自分の価値を知っており、この世に存在するに値することをまるで確信しているかのようである。彼らはそんな子供たちなのである。
インディゴたちはその聡明ぶりで大人たちを驚かす。彼らは年齢不詳応の認識力と世界に対する冷めた見方を持っている。彼らには天下公認の権威に対する気持ちがまるでない。
インディゴたちは旧来の風習や伝統を維持しようとはしない。他の人々は習慣的に世間一般に通用している基準や既存に従うのに対して、インディゴたちの目には、物事の中に全く別のやり方で行うべきことがあるとはっきり映っている。
彼らを聞きわけの良い子供と呼ぶことは出来ない。教育的観点からすれば、彼らは制御不能と言える。彼らは抜け目がない。このことは、どの新たな世帯でもある程度は見られる特徴である。しかし、インディゴ世代の特異性は際立っているのである。
数千年間、世代交代は、一様に、既存的と呼べるほどにして行われて来た。だが、近年、世代の更新プロセスが何か加速しているようであり、新たな世代は前の世代よりもますますラジカルになってきている。すでに子供を持つインディゴたちもいるが、インディゴ次世代たちの性格的特徴は親たちをもしのいでいる。
一体何が起こっているのだろうか。人間の意識の革命的更新プロセスは、特別な原因なしにひとりでには起こり得ない。ご承知のように、自然界や社会ではすべてが均衡に向かおうとする。つまり意識の更新は、何か別のプロセスに対抗する形で起こっているのである。
そのプロセスとは何かを理解することは難しくない。最近の数周年間に、情報構造や電信の発展度同時に、地球全体をがんじがらめにするコマたちの強力なネットが形成された。
科学技術の進歩は、全体としてはそれほど恐ろしいものではないのであるが、恐ろしいのはその情報の中身である。それはコマたちが誕生し存続するための恵みの土壌となるからである。同じ宇高を向いて思考する信望者集団が大きくなればなるほど、コマは強くなり、したがって、コマが人々を支配する権力も肥大化する。

〇「ところで、人が構造の中でよりどころを見つけたっていいじゃないか。見つけないのとどんな違いがあると言うのか。」もちろん、それも打開策ではある。ただし、もし構造の決まりに従属することになれば、自分自身の個性を捨てざるを得ない事は忘れないでもらいたい。「みんなと同じ」になれば、心は穏やかになり、安心できるだろう。しかし、それと引き換えに、自分自身の妙なる才能・・・・どんな独創的なことでもやり遂げてしまう魂の独自性・・・というものを失ってしまうことになる。
魂と理性の一致が達成されたない事については言うまでもない。長い間、構造にすっかり支配されている人は、ほとんど意識の欠落した状態にあり、魂の声に耳を貸そうとはしない。したがって、その人は自分本来の道を探し出せず、行動の幸せのために一生平身低頭して過ごす。私はその人本来の道が構造の外にあるのだと言いたいのではない。山中のこもり、コマの世界と絶縁することは可能である。けれども、もしそこでの生活も覚醒状態のままで無意識に見る夢のように続くとしたら、結局、何も変わらないだろう。
構造の中に踏みとどまりながら、自分の延命の主になるための話をしているわけである。例えば、サマーキャンプでコマの決まりに屈することなく、かといって離反者と呼ばれることも無く、望んでいる自信を得ることは可能だろうか。簡単なことである。そのためには、ただ目を覚まし、舞台から立ち去ることなく、そのゲームを観客の目で眺めてみるだけでよい。すると、だれがコマの寵児で、だれが「ひょうきん物」や「お調子者」なのか、また誰が決まりに従っている信望者なのか、すぐに見えてくる。
だからと言って彼らを非難してはならないし、軽蔑するのはもってのほかである。もし、物事のあるり方を認識した結果として、自分を「眠っている者」と対置し始めると、依存関係が生じ、分極化を招き、「目覚めた者」がはみ出し者にされることは絶対に避けられなくなる。コマの決まりと縁を切るだけでは不十分であり、それを事象選択の決まり「自分にも他社にもあるがままでいることを認める」に置き換えなければならないことを必ず覚えておこう。
すると、自分の中にによりどころを見つけることができるのである。回りで起こっている事態を理解する事で、すでに半分はやり遂げたも同然である。状況を理解しているだけでも、自分への穏やかで揺るぎのない自信が生まれる。なぜなら、自信の無さは、不確実性を前にした恐怖感から生まれるためである。人がゲームの決まりを知っていないと、取り巻く世界は恐ろしくて敵意に満ちたものに思われてくる。そうなると、沸き起こってくる孤独感や抑圧感といった感情がその人を眠らせてしまい、コマの決まりに従属せざるを得なくする。
さて、こうしたことすべてを知ったあなたは、人生を覚醒状態で意識してみる夢に転嫁させる。つまり状況のコントロールを手に入れることが出来る。それは、羊使いになるか、あるいは少なくとも羊になることを止めことになる。ところで、自分の状態をいかに強化すべきかについては、事象選択の基本に関する箇所ですでに詳しく述べた。第一に、罪悪感から解放される事である。そのためには、厚かましくも存在意義を擁護しようとか、証明して見せようとするのをやめることである。もしあなたが事象選択の決まりに従うのであれば、以上述べた二つのことでもう十分すぎるくらいなのである。すると、自分自身の中によりどころを見出す、すなわち自分の信条に従って暮らすことが可能になる。
だが、次のことは念頭においてもらいたい。深く考えることなくただ自分を行動と対置させ、手段を選ばずに行動の影響から逃れ出ようとしてはならないのである。今述べているのは、コマから完全に開放されることではなく、コマの操り人形にならないことだと繰り返しておこう。

〇自分なりの物の見方や自信を持たない未成年者は、自分の立場を強めてくれそうなよりどころを本能的に、あるいはほとんど無意識のうちに探し出す。このよりどころとなるものを提供してくれるのもコマであるが、ただで与えてくれるのではなく、行動の決まりに服従することと交換条件で、という事になる。
サマーキャンプと似たような環境では、威勢が良くてなれなれしすぎる人々を見かけることがある。そのような人々は、自分に百パーセントの自信があって、水を得た魚のようにのびのびと振る舞っている。彼らの見掛け倒しの自信は、コマが与えてくれたよりどころによって支えられている。
そのようなよりどころを持つ二人を想像願いたい。一人は「ひょうきん物」、もう一人は「お調子者」である。「おい、お前、何でぐずぐずしているんだ。鼻水すすっている場合か、なんかとんでもなくふざけたこと、やってみな」
この二人がコマの差し金でまるで操り人業のように頼りなさそうにゆらゆら動いているなどとは周りの人々にとっては思いもよらないことである。幻想を作り上げるのは、たとえつかの間の存在とはいえ、拠り所なのである。周りの人々は、操り人形たちのうわべだけの自信を眺めながら、同じように振る舞う。彼らはよりどころを得るのだか、その代わりに「私のようにやって御覧」という決まりを実行するわけである。すると、全員が「ひょうきん物」や「お調子者」のようにして、一切にゆらゆら動くことになる。このようにして構造は形成される。
重要なのは、コマの信奉者たちがすっかり無意識のうちにコマの決まりに屈している点にある。彼らの中では、まさしくこうすべきなのである。という完璧な幻想が出来上がっている。信望者たちはコマの決まりに従いながら、好きな事をやらかすことができるのであるが、その際、みんなが同じように振る舞う。例えば、最近は卑猥な言葉で罵倒しあうことはなくなってきたが、そうした言葉を用いた会話は耳にすることがある。当人たちはそれが卑猥だなどと思いもよらない。卑猥な言葉を用いた会話は何よりも趣味が悪い。下品なのである。それは、ふろにも入らず、汚れた服を着て歩き回るのと同じことである。いまはそんな風にして歩き回っていなくても、コマのそんな決まりが現れたから、歩き回らないわけがない。
例えば、フランス王ルイ十四世の宮廷では風呂に入ることが許されなかった。なぜなら、王自信が清潔にする事に病的なまでの嫌悪感を抱き、ブランデーで両手を洗浄するだけですませていたからである。家臣たちは王のやり方に従わざるを得ず、体臭を隠すために、身体に香水をふんだんにかけていた。その結果、宮廷内はすさまじい悪臭が漂っていた。それだけでなく、全員が白みにたかられたため、貴族や貴婦人達は常に棒を持ち歩き、かゆいところを時々「優雅に」掻くという「エレガントな」習慣を身に着けていた。御覧の通り、コマの決まりは、どれほど荒唐無稽なことであっても、それに権限を与えてしまいかねない。しかし、重要なのは、コマの決まりの追随者たちの大部分が、まるで羊の群れのように、一切に同じ行動をとることにある。例えば、最初に「クール「という言葉を「かっこいい」という意味で口にしたものは、自らを羊飼使いだとみなしたのかもしれない。しかし、残る全員は、オウムのようにその言葉やそれに類した言葉を唱和し、疑いもなく羊のように振る舞う。
さて、ここで稚魚の群れについての話を思い出しながら考えていただきたい。人間の意識性は、はるか遠くまで進歩を遂げただろうか。
未成年者たちだけでなく、大人たちもコマの影響を被る。とりわけ群衆の中にいるときがそうである。例えば、集会で何かについて討論するとき、人は立ち上がり、自分でも意外なほど饒舌になる。その後になって、その人は、よくもまあ喋ったものだと当惑するが、自分が話したことはすべて正しかったと長い時間をかけて自分に言い聞かせる。群衆は各発表者に対し、一定の、それもしばしば、各自にふさわしからぬやり方で振る舞うよう強いる。このようにしてコマはよりどころを探し求めるものに作用する。

〇互いに食うか食われるかの戦いを繰り広げている世界の攻撃性は、コマの一番目の法則の結果として高まった。攻撃はコマによってもたらされたものであり、決して生物界の必然的な特徴ではない。その証拠は地球上の隅々で見つけることができる。例えば、ニュージーランドには猛獣がほとんどいない。
地球上に住む非常に多くの生物は、危険極まりない環境で生き抜くために、向けを作らざるを得ない。「おい、どうだ、若造、命が惜しいか? そんなら、俺のようにやってみな」というわけで、コマは生き物が構造の構成員にならざるを得なくする。
人間もまた利益のために集団をつくる傾向を持つ。そのような集団内なら意思疎通しやすいのだと説明される。だが、大変多くの人々が意思疎通に非常に苦労しているという事実は、奇妙なことではないだろうか。個人間の関係が外観上は打ち解けた物であるにもかかわらず、それは一連の内外要因によって無理やりこじつけられたものなのである。もっと親密な付き合いを築き上げるために、人々は相手と自分とを一体化してくれるであろう何か共通のものを本能的に探し出そうとする。ここで登場するのがコマの安定化機能である。話し相手たちが同じコマに従って揺れ動いていると、彼らは、「同じ波に同調している」わけで、難なく共通の理解に達する。一緒にたばこをくゆらしたり、酒を酌み交わしたり、祝宴の席に着いたり、ピクニックに出かけたり、ゲームをしたりすると、関係が気楽なものになる理由は、まさにここにある。
ところで、コマの二番目の法則、の最も印象的な証拠となるのは、おそらく文明の発生であろう。なぜ都市が現れたかについて、あなたは考えたことがないだろうか。数十万年間、人類は村落や小規模の集落で住んでいたのに、突然、文明化された巨大な入植地を創ったのはどうしてか。何がその原因がったのか。手工業化、公益か、それとも、戦争だったのだろうか。
もっとも古い都市は、エジプトのピラミッドが建てられた時代に現れた、そのような都市のひとつであるから累積が、近年ペルーで発見された。この見捨てられた古代都市は、ほぼ五千年間、その存在が忘れ去られていた。砂漠の真ん中に盛り上がっているいくつかの丘が、実はピラミッドであり、そのうちの一つはエジプトのピラミッドに匹敵する規模であることが明らかになった。発掘調査の結果、陶磁器も武器も発見できなかったことに考古学者たちは驚いた。当時の人々は、医師、骨、木から作った原始的な道具を利用していたのだった。
カラルの都市住民たちは、綿花を栽培したり、魚網を編んだりして、それらを沿岸住民がとった魚と交換していたことが分かった。その他、狩猟も盛んであったようだ。しかし、カラルの周辺に敵からの攻撃を防御する建築物は見つからないなど、戦争したことを示す痕跡は存在しない。では、都市が形成された原因は何だろうか。
古代の人々は村落で暮らし、原始的な手工業に携わり、公益を行い、内紛に加わることもあった。そして、そのようなことのためには、石造りの都市を築いたり、ピラミッドを立てたりする必要はなかった。おそらく、組織化の要因となったのはコマ、より正確には、コマの持つ安定化機能であっただろう。
それがどのように生じたかについて、正確に説明することはできない。真理はいつもどこかすぐに知覚にあるものである。きっと、ある瞬間、コマたちのそうした構造が自然発生的に形成され、その構造にその後の発展のための能力が組み込まれたのであろう。何しろ、都市というものは、本質的に、生産、消費、交換のコマたちからなる複雑な改装組織なのである。そして、もしそうした構造のゆえに、この自己組織化システムが最初から堅牢なものであれば、それは拡大強化される。構造が進化して、複雑な文明へと成長を遂げるのかもしれない。そして、こうしたプロセスは、建築における何らかの些細な欠陥によって巨大な建造物が崩壊するように、複雑に進化を遂げた文明が微小な欠陥によって破壊するまで続くことだろう。もちろん、そうなるのはまだずっと先のことである。とはいえ、いったい何が起こるかは誰にも予想できない。
では、私たちの時代に戻るとしよう。人間は、生物界のほかの種類と比べると「より覚醒している」生き物である。だが、人間はいつも自覚して行動しているだろうか。人間の理性は、複雑な装置やメカニズムを作ったり、都市を建設したり、取り巻く世界を研究したりできる。そうはいっても、意識性という意味では、人間は動物界からはるか先へと進歩を遂げたわけではない。
全ての人間社会は、家族から始まり大企業や国家に至るまで、それぞれの集団からなる複雑な構造になっている。人が生まれ落ちたときのまま孤立して暮らすのであれば、自分の行動に対する責任は主に自分で追う事になる。社会から隠遁している人の思考は明晰になることが知られている。しかし、人が構造の構成員になると、大部分の時間を覚醒状態のまま眠ることになる。ただ、そのことで理性が高度な技術を要する生産に携わることを阻害されたりしない。
最新鋭の工場はアリ塚よりもずっと複雑にできている。それでも、本質的には、工場もアリ塚も、コマに操られている構造である。また、科学技術の発展で達成された全ての業績は、それらをひとまとまりとして見るならば、構造の産物であって、個々人による産物ではない。テレビ受像機を発明したのは一人の人間かもしれないが、テレビ放送の方はコマに操られているシステム全体が生み出したものである。
人が構造の構成員になると、コマの決まりに従わざるを得なくなる。その結果、個人の利益を構造が押し付けてくる条件との間に矛盾が生じてくるのは避けられない。人はこの事実を認識せずに、額に汗して従順に労働に精を出すため、頭を挙げて周りを見回し、自分のしていることをはっきり理解するという余裕すならなくなることは、なおさら始末が悪い。
「ふざけたことを言うんじゃない。私が何をしているか自覚していないだと。まったくその逆で、自分の行動の意味と理由をはっきりわきまえているさ」と反論する人もいるだろう。けれども、そうではない。
典型的な例として、子供たちが参加するサマーキャンプを取り上げてみよう。授業から解放され、それまでよりも自由になった未成年者たちの不安定な精神心理は、コマが育つためのこの上ない土壌となる。コマは、その攻撃的な特徴のために、ライバル心が旺盛になる環境を創り出す。こうした環境では、みんなと同じでないもの、すなわち、形成された構造のパラメーターに合致しないとみなされたものは、嘲笑の的になるか「群れから追い出される」か、または暴力を振るわれることになる。
こんな条件下にある未成年者は、覚醒状態のままぐっすり眠っている。その子は、群衆の中に居ようとそうでなかろうと、自分の行動をキチンと自覚せず、夢の中のことのようにして暮らしている。催眠剤の役割を果たしているのは、ライバル関係からくる重苦しい感覚、および自分自身の欠陥や「規格」不適合を強く心配する気持である。このように抑圧や緊張といった思いは、たとえ本人が表面上は屈託なく快活にあるまって吐いても、一部たりとも頭から離れることはない。
人は今起こっている出来事に完全に支配されていると、無意識に見る夢の中で経験する逃げ場のなさとほとんど同じ抑圧を感じる。好戦的な環境にある人生は、通常の夢見と似ていて、「偶然起こるもの」なのである。嵐のような状況の流れが人を「押し流し」、本人の意識は、慌てふためいてあたりをキョロキョロ見回し、何とか溺れないようにすることばかりに向かう。
