諦めと全く興味がない俺はその言葉をいつも通りに「はいはい」と受け流していた。
 七時を少し過ぎた頃。「学校の窓から見たかも!」というひなにとって衝撃的事実話を聞いていた俺にもう一つの音が耳に入ってきた。
「ただいまー」
 玄関から凛とした声がした。スリッパを履く音と共に廊下を擦る音がリビングに向かってくる。
「弥生さんおかえりなさい」
 外見から言えば仕事が出来るかっこいい女性に見えてしまうスーツ姿の弥生さんはウェーブがかかった髪を肩の上で揺らし、訪ねてきた。
「もう夕飯できちゃいましたか?」
 俺より背が低いので上目づかいで言われる。
「はい。もう夕飯出来てますよ」
 おっとりとした表情で、
「いつもありがとう透さん」
「いえ俺の担当ですから」
「そういえば朝ごはんあんな物でごめんなさいね」
 小動物が困ったようにおろおろしながら言う弥生さん。この表情で男はいちころなわけか。
「朝気づいたら時間なくて急いでたの。今度はちゃんと透さんも二本用意しますね」
「ありがとうございます。出来れば今度はバナナ以外がいいですが」
「あらあら、バナナは朝に食べると体に良いんですよ? だからバナナなんです。栄養満点ですからね!」
 頬に手を当てながら笑う弥生さん。
俺はこの家で夕飯の担当を担っている。朝食は弥生さんで夕飯は俺というのがこの家のスタイルだ。まあ、朝食は手抜きなことが多いが用意してくれるだけありがたいと俺は思っている。このスタイルは俺が中学生の頃から続いている。だからこそめんどくさがり屋な俺でもこれだけは習慣づいている。昔からの習慣というのはなかなか変わらないものだというのを肌で実感している。
 テーブルの上にある時計に目をやる。もうすぐ七時だ。
そろそろ帰ってくるころかな。
後ろではお笑い芸人の声と同時にひなの笑い声が聞こえる。
「あー面白いー! あははははっ!」
 肩を揺らし腹を抱えながら笑っている。
そんなに最近の番組は面白いのだろうか。昔に比べテレビを見ることが少なくなった。そのため時々クラスメイトの話についていけなくなる時がある。
炒めた豚肉を皿にのせ、買ってきたサラダを盛り付ける。
「そういえばさー」
 するとテレビから聞こえる声と重なるように話しかけられた。
「ん? どうした?」
「この人どっかで見たことない? このイケメンお天気キャスター」
 味噌汁が入った鍋の火を止める。
「いや、画面越しでしか見たことないな」
 ひなはこちらに顏を向け、その小さな体にある手の人差し指をくるくると頭上で遊ばせ、
「あれだよあれ。えーっと何か遠くから見たかんじがする」
 なんだよそれ。
「もうすぐで思い出させそうなんだけどな。いつだっけなー」
 最初からそんなことどうでもいいという憮然な態度を俺はしながら味噌汁を取り分けた。
「そうだ学校だ」
 閃いたその表情は爽やかな笑顔を繕っていた。
その世界では魔法使いや超能者、吸血鬼や宇宙人などとありとあらゆる者が闘っていた。宇宙をかけた戦いの中で神の座を争っている。神とは常に存在が変わり、その席に座った者は唯一無二の宇宙の王となる。そして人間はその戦争の渦の中心にいる。
そう。その世界での現在の神は人間であった。
「お兄ちゃーん、お腹空いたー」
 廊下から聞こえてくる声に意識が向く。
「おーう、今作る」
 部屋のドアの向こうにいるひなに返事をする。
 俺は読んでいた漫画本をベットに置く。あんな世界があったら面白いだろうなと思う。こことは違う世界が存在し、それが神の座を争う世界ならきっと面白いに違いない。
「やっぱり漫画本は面白いな」
 その世界だけの物語が存在し、その中でキャラクター達は様々な困難に立ち向かって成長し生きていく。俺はそんなシンプルな物語が好みだ。
 部屋を出るとひなが階段を下りる姿が見えた。それに続くように一階に下りる。するとテレビを点ける音がした。
「あ、この人バラエティ番組にも出てるんだ」
 ああ、そのイケメンお天気キャスターね。
「そうそう。最近色んな番組でてるよ」
 へえ、そうなんだ、と適当な相槌をうちながら冷蔵庫を開ける。
「ねえ、今日の夕飯は何?」
食材を揃えながら、
「今日はさっき買ってきた豚肉とサラダに冷蔵庫にあった納豆だな。あと味噌汁も作るぞ」
「納豆もかー」
 微笑んだ顏をテレビに向けながらこちらに言っているようだ。
 麗奈のモットーは練習も遊びも適度に満喫するというものだ。
 それこそ効率がいいと言うのもなんだか納得出来る気がする。
 その麗奈はヘッドフォンをパソコンに挿し、曲を作る作業に没頭している。右隣では花より勉強という新しいことわざを生み出している仁太がいる。そして左隣でお菓子を食べながらポータブルゲームに夢中になっているひなは瑠璃と対戦をしているようで勝った、負けたと飛び交う声が聞こえてくる。本棚の近くではテーブルから移動した海斗が椅子にもたれかかりながら、本を読みふけっている。当の俺はというとひなと海斗が用意してくれた玄米茶をちびちびと啜っている。もちろん全員にもこの玄米茶はいき渡っている。
 湯呑みに口をつけながら天井を仰ぐと、オレンジ色の光が目線の先を走っていた。部室を包むかのように思える夕暮れの色に無機質な色が響き渡った。
 人間の手の甲がドアに二回音を鳴らした。
 全員が視線をドアに向ける。空気が固まる。ピタリとそれぞれの行動が止まる。ちなみに麗奈はヘッドフォンをしているため気づいていない。
 俺は湯呑みをテーブルに置く。仁太はペンを止め、ひなと瑠璃はお菓子を食べようとしていた手が止まり、海斗は栞を挿み本を閉じた。
 その時、部長席からは何かを外す音が聞こえる。全員が気づいたようだ。
 海斗は席に本を置き、ドアに近づく。
「今開けます」
 ドアの向こうにいる相手に話す。
 海斗がノブを回す。古く軋んだ音を聞いた。
ドアが開く。
そこには緋色に染まる光を纏った少女がいた。
廊下の窓から漏れた光を浴び、静かに佇んでいる。
手のひらで覆えそうなほど小さな顏には、漆黒の色を浮かべた目と小さな唇が綺麗に配置されていた。
その唇が動きだす。
「はじめまして。久遠アリスといいます」
 淡々とした口調で言う。
「天文部に入部したく思い、ここに来ました。趣味はありません。特技は……人間観察です」

 自己紹介が始まったかと思うと、俺は次に続く言葉を人生で初めて聞いたと思う。


「私は『かば』を見つけに来ました」


 何を言っているのか理解できた奴はこの部室にはいないようで、「よろしくお願いします」と久遠アリスと名乗った少女が最後に言ったことを俺は聞き逃していた。
 これが久遠アリスとの出会いだった。
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「それよりも、よく体育館で演奏することを許可貰えましたね」
 まあね、とひなへ投げかけるとトリックを暴き出す探偵のような表情で言う。
「実はね、海斗に一肌脱いでもらったのよ」
 探偵から悪ガキの顏に変わり、
「色目を使ってね」
 まさかと思うよりも早く解説を始めた。
「文化祭実行委員長が女の子というところが味噌よね」
 横で仁太が嘆息をついていたが、俺は海斗に視線を向ける。そこには雨の日に傘がを持ってくるのを忘れてしまった女の子に「送りましょうか?」と傘を広げて柔和な笑みを披露する笑顔がこちらに気づき視線を捉えていた。
 この顏で全て悟ってください、と言わんばかりだな。
「私は気は乗らなかったのですが、部長命令なら仕方ないと思いまして」
「と言うわけで全校生徒が入る体育館で演奏することが決まったわけ!」
「ハードル高いなー」と俺。
「透、ハードルはね高いほうがいいものよ! 超えた時の観える景色が違うから!」
 哲学的なことを言うとやはり反応するのは瑠璃で、
「さすが麗奈先輩! 言うことが違いますね! よ! 大統領!」
 だからなんだ大統領って。
ってそこまた照れるな。
「さあみんな舞台はととのったわ! 練習はじめるわよ!」
「おお! 俄然やる気がでてきましたー! やるぞー!」
「瑠璃さん、頻繁に大声をだすとはしたなく見えますよ」
「決まったならやるしかないか。勉強する時間も調整だな」
「イブの日ならお菓子まとめ買いしないとなー。ね? お兄ちゃん」
「ひな。俺はその買い出しには絶対に付き合わないぞ」
 部員の一人一人の会話行き交う。
 喧噪の中それぞれが席を立つ。俺と瑠璃、仁太はロッカーに向かう。テスト期間中という規制で持ち歩けなかった相棒と会うために自分達のロッカーを開け、俺はギターを、瑠璃はベースを、仁太はスティックを取り出す。
 麗奈はスタンドマイクをセットし、はちみつ入りホットティーで喉を潤している。いつも持ち歩いているそれは歌う前に必ず飲んでいるようだ。
 ひなと海斗は二人分の席を用意し、そこに観客として席に着く。ひなと海斗はバックアップを担当する役目だ。ひなの親衛隊や海斗の甘いマスクでその役割を充分に発揮してくれている。
 そして全部員がいつも通りの位置に着く。
 ドラムのセットが完了した仁太に麗奈はスタンドマイクの高さを調整し準備万端という合図の笑顔を向け、ギターとベースのチューニングを終えた俺と瑠璃は目を合わせ、それを知らせるために横目と首肯を仁太に送る。仁太の納得した顏とともに、三人はこちらに向けられた待望の視線を真正面から受け、俺達の空気を作る。
 そして俺達は。
 麗奈の歌い出しと共に部室の中で音を奏でた。