#65  夜空への手紙
〜Hit the floor外伝〜


「オーナー、相葉さんがいらっしゃってますよ。初めて見かける、同年代の女性をお連れになって。」


カフェの男性店長が、厨房より奥の従業員控え室へと入っていき、
オーナーのミナミへそう声をかけた。


「あら、後でご挨拶へ伺うわ。
、、、先月のチェック終わりました。
ここは夜のフレンチが主力だし、
これまでのレシピのパンケーキが出せなくなっても大丈夫かな。」


「…やはり、問題は若年層のお客様が多い渋谷の店舗ですか?」


「そうね。
あとは、埼玉、千葉の店舗も、
売りはパンケーキだからね。
閉鎖を検討してる。」


「閉鎖、、、、、」


「まさかあのレシピが丸々盗んできたものだったなんてね。」


ミナミが机に広げたノートパソコンをパタリと閉じながら大きくため息をついた。


「…商品開発室の室長、
伊藤さん、でしたっけ。
彼女、行方不明って本当ですか。」


男性店長がミナミへそう尋ねた。


「あぁ、今朝ね、ようやく連絡があった。
ちゃんと生きててくれてたわ。
そりゃそうよ、小さな子供二人も抱えて、
シングルマザーで頑張ってきたの。
そう、、、ちゃんと収入を得たければ結果を出しなさいって、
ハッパかけた私も悪かった。
だから伊藤さん、離婚して出てきたご主人の実家のパンケーキのレシピをそのまま、、、。」


ミナミの話に驚いた表情を見せながら、
男性店長は応えた。


「そうだったんですか、、、
関西の老舗カフェって、観光ガイドにも載るような有名店ですよね。
彼女の義実家だったんですか、、、」


「、、、、うん。まいったなぁ。」


この間、日本料理の店で大野と二人きりで打ち合わせを行った時の柔らかな印象の髪型や服装を、大野に「いいですね」と褒められてから、
ミナミは普段こうして仕事をする時も、
以前のようなダークな色味でタイトなスーツを着ることも、濃いメイクをすることも減っていた。


今日はゴールドの入った淡い黄色の女性らしいスーツを着ていた。
スカートはタイトでも、裾に広がりのあるマーメイドラインだ。
唇の色はコーラルといったナチュラルなメイクで、
困ったように笑った顔を男性店長へ向けながら、ゆっくりと立ち上がった。


盗作レシピの件と、自分の息子の親権を元夫と争ういう裁判を二つ抱えてはいても、


今、心には僅かでも、暖かい光のようなものを携え続けていられるのは、
ミナミの中に大野の存在があるからに他ならなかった。


「…じゃあ、よろしくお願いしますね。
私、相葉さんにご挨拶してから渋谷へ向かいます。車も待たせてるし。」


ミナミは最後に男性店長へそう声をかけ、従業員控え室から厨房を通り、
ランチどきで混雑している店内へと出て行った。


端の方で立ち止まり、目線だけを四方八方に向けながら相葉の姿を探し、


店内の中ほどの席で女性と向かい合い、
楽しそうに笑顔で話している相葉を見つけた。


女性の方の顔は後ろ姿のためわからなかったが、長めの髪を一つにまとめ、
ルビー色の質の良さそうなオフタートルのニットを着ているその肩は、
とても華奢だった。


これまで相葉がこの場所へ連れてきた女性といえば、仕事仲間の藤谷美麗か、
大野の娘の女子高生のマリ、
その二人だけしか見たことのなかったミナミは、


相葉と同年代という目の前のルビー色のニットの女性に、
興味津々の眼差しを向け、無意識に全身をチェックし始めていた。




「大野さん、夜、香織をまだ一人置いていくのは心配だって、
だから急きょ水曜日、俺が京都へ行くことになったんですよ。
あとは照明を入れて、店内の雰囲気とかをオーナーと確認する作業っていう、
結構大事なところなんですけどね。」


30分ほど寒い店の外に並び、ようやく暖かい店内で席につき、
メニューを広げてランチを選んでいる相葉と香織である。


端の方から向けられたミナミの視線に、
相葉はまだ気付いていなかった。


「…夜、なんだ、京都の仕事。
私のことが心配?
そんなこと言ったの、、、あの人。
ふふっ、悪いと思ってるんでしょ、
私が倒れた時、京都に行ってたんだもん。
別に仕事なんだから、気にすることないのに。」


香織が足元の荷物入れのカゴの中に無造作に押し込んでいたダウンのコートに、
ミナミはふと視線を落とした。


上質なダウンコートを作ることで有名なフランスの老舗ブランドのものだとわかり、思わず息を飲んだ。


次に椅子の上にポンと置かれたバッグに目をやると、使い込まれたものではあるが、
その目立たない飴色のレザーバッグも、
さり気なくハイブランドだ。


ミナミは何歩か歩いて、
その女性の横顔の見える位置まで移動した。


女同士というものはまず、
着ているものや持ち物、顔、年齢といった外見を自分と比べ、
勝ち負けの判断をしてしまう生き物である。


この時点で、ミナミは少し身構えていた。


すっと通った鼻と、とがった顎、
素顔に近いほどの薄いメイクであるのに、透き通った肌、
瞬きをするたびに、長いまつ毛が印象的に動き、
時々、耳のピアスの小さなダイヤがキラキラと輝いているその横顔に、
遠く、記憶があるような感覚がした。


でも、その記憶と、目の前の女性とがなかなか一致せず、
ミナミはまだ店の端の方で、
相葉へ声をかけるのを躊躇っていた。


その時、相葉の聴き慣れた高らかな笑い声と話し声が、ミナミの耳へと届いてきた。


その中に、向かい合うその女性の名前を呼ぶのを、確かに聞いたのだ。


「香織さん」と。


ミナミはその名前を聞き、ハッとした。


そして、頭の中ではいつのまにか、
大野の声が繰り返されていた。


数年前、大野の事務所をミナミが訪れた日、大野が「香織」と、自分の妻の名を自然に呼ぶ声は、
今でも鮮明に覚えている。


香織、、、、
香織、、、、


何故か、見たこともない大野の、
自宅で甘く妻の名を呼ぶ姿までもが、
瞬間、頭の中に浮かび上がった。




ミナミは咄嗟に顔を伏せ、相葉に気づかれないように満席の店内を足早に抜けて、
店の外へと出た。


そして振り返り、大きなガラスの窓越しに、今度は正面からハッキリと、
香織の顔を見たのである。


数年前に一度しか見たことのなかった大野の妻の香織の顔であったが、
それに間違いなかった。


でも、それでも一致しないのだ。


数年前の大野の妻といえば、
淡い色の服装に、ふわふわとカールさせた髪型で、家庭的で柔らかな印象だった。


そこには、夫の庇護のもとで何の悩みもなさそうな雰囲気すら感じられた。


それが、今の香織から醸し出される雰囲気は、それとは真逆であるのだ。


数年前、大野が既婚者であると知った時のショックの、何倍もの衝撃が、
ミナミの体を貫いていた。


(つづく)