#63 夜空への手紙
〜Hit the floor外伝〜


来週の水曜の夜、
スケジュールの調整がつきました。
京都へ行こうと思っています。
大野さんのご都合はいかがですか。
夜分に失礼しました。



妻の香織の柔らかな肌に触れ、
その体を抱いた。


体調を崩したあとの香織の体は、
前より少し華奢になっていた。


それでも時折見せる笑顔とその体の温もりに、大野はこれ以上ない癒しを全身で感じ取った。


" 君の代わりはいない "
とは、大野が美麗へ言った言葉であるが、
それを妻の香織に対し、その夜ほど感じたことはなかった。


週明けにスケジュールを確認して、
ご連絡いたします。


ミナミからのメールに、大野はいつになくかしこまった返信を返した。


日曜日はここ数ヶ月では珍しく、
香織から「どこか行きたい」と言われ、
正直とても嬉しかった。


「パパと一緒に行きたかったの。
フェルメールの絵を見に。」


そう言って朝から着ていく服に悩み、
少し長めに化粧をする時間がかかっていたり、日頃しないヘアアイロンへ髪を巻きつけてみたりしている香織を、


素直に可愛いと思った。


「ねぇ、ディスティも出来るよね、
グランデ台場。
美術館のあと、どうかな…
遅めのランチ、ルームサービスで。
…ダメ? 贅沢?
ちょっと、ワガママ言い過ぎかな…」




「……予約できるか、電話してみる。
無理ですって言われても、
支配人にお願いする。」


その香織のワガママすら、
大野はずっと待っていたことのように嬉しかった。


一日中二人で過ごすと、
会話の中に本心を垣間見ることもできた。
それは大野も香織も、互いにだ。


フェルメールの絵を見つめながら、香織は小さな声で話した。


「描くことを再開してしばらくは、
アウトプットしていくことが楽しくて仕方がなかった。
でも、どんどん絵を描いていくうちに、
自分自身がすり減っていってることに気がついたの。
それで…周りを見たくなった。
視野を広げて、もっと色んなことを吸収したくなった。
もっとたくさんの人と、出会いたいと思ったの。
それで、絵画教室を思いついたの。」




初めて聞いた、絵画教室をやりたかった香織の動機だった。


「自分のこんなワガママに、
あなたを付き合わせられないと思った。
だから、資金をお願いなんて出来ないって思って…。
でも、ちゃんと話すべきだったよね。
家族なんだから、夫婦なんだから。」


久しぶりに足を踏み入れたグランデ台場の部屋からの眺めは変わらず、
ただ、昼間にこうしてこの場所へ来ることは初めてで、それはとても新鮮だった。


イタリアンのランチのコースを、
ルームサービスで食べた時、


京都でミナミと食べた絶品のイタリアンを、大野は思い出した。


絶品、だったはずだ。
きっとこの時食べた、ルームサービスのイタリアンよりは。


なのに何故だろう。


香織と囲んだテーブルに運ばれてくるその料理一つ一つが、
京都でミナミと食べたものより美味しく感じたのだ。


「昼間からシャンパンなんて飲んで大丈夫かな、私、顔赤くない?」


「…その生徒さんね、私たちと同じ美大を出てらして、必須科目のほら、
あの先生覚えてる?
その話題でいつも盛り上がるの…」


香織の笑顔と笑い声が、料理の味を一段と美味しくさせていることに、
大野は気がついた。


何を食べるか、どこで食べるか、
そんなものはきっと、どうでもいいことなのだ。


誰と食べるか、
誰と食べたいか、


それが大切なのだと、心の底から感じることができたのだった。


シャワーを浴び、
夕方の東京湾とレインボーブリッジを背に、香織の体を抱こうとベッドへ近づいていった時、


一日動き回った疲れからか、
日頃の疲れもあったのか、
香織は気持ちよさそうに眠っていた。


大野は静かな声でフロントへ電話をかけ、
チェックアウトの延長を申し出た。


そして自分も香織の隣に横になり、
そっとその体を抱きしめた。


「……あ、ごめんね、寝ちゃった…
私、シャワー浴びてこようか、
したい? よね、、、、」


ぼんやりとした視線を大野へ向けながら、香織はそう言ってきたが、
大野はこう答えた。


「ふふっ、あのなぁ、そうじゃない、
そうじゃないんだよ、、、
俺は別に、体の欲のために香織とこうしてたいんじゃないの。
したいとかじゃない。
こうやって、抱きしめてるだけでも全然いい。
なんて言えばいいか、、、」


大野はこの数ヶ月間の様々な出来事を思い返し、何故か涙が溢れてくるような感情に、少し声を震わせた。


香織は夫の大野に寂しさを感じさせていたことに、ここであらためて気がついた。


いや、気がついていたのに気がつかないふりをしていたことを、また省みた。


大野が言わんとしていることは、
ちゃんと香織には伝わってきていた。


「……わかってる。ごめん。」


香織は抱きしめてきた大野の背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめ返した。



そんな日曜を夫婦で過ごしはしたものの、
香織は " ミナミ " という女性のことが気になって仕方がなかった。


まるで付け焼き刃のように、
焦って妻の役目を果たそうと頑張ったところで、
夫の浮気を阻止できるとは限らないと、
自信を失くしていた。


そこに、マドカからの電話だったのである、


香織は予定通り画材店へ注文した絵筆を受け取りに行った。


昨日大野と二人で過ごした時はエレガントな雰囲気の装いを心がけたが、


今日は寒さもあって、ニットにジーンズ、
ブーツにダウンコート、
そしてグルグルと巻いたストール、
髪もカールなどせず、後ろで一つにまとめた。


こんな適当な装いの時に限って、
知り合いと偶然会ってしまうのは何故だろう。


帰り道、時刻はお昼ちょうど、といった頃である。


歩道を前の方から歩いてきた男性に、
香織は名前を呼ばれた。


「香織さぁぁ〜〜ん!」


「…あ、相葉さん!」


この寒さでも、元気ハツラツとした声の相葉雅紀であった。


「…わぁ、香織さん、いいっすねぇ。」


相葉は香織の姿を見るなりこう言ってきた。


「え? 何がいいの?」


「あ、いや、なんか、
カッコいいっすよ? 今日の香織さん。」


自分では適当だと思っている格好を相葉に褒められ、少しホッとした香織である。


「香織さん、用事で?
これから自宅へ戻られるんですか?」


「うん。
朝ごはん食べ損なってね、
お腹空いちゃったから急いで帰ろうかと。」


そう答えた香織を、相葉がランチへ誘ったのである。


「俺も腹ペコで!
香織さん、一緒にお昼食べません?
あっ…そこの、5〜6人並んでるカフェ、
カジュアルフレンチも食べられるんですよ!
大野さんと俺とで手がけた店です!」


それは、ミナミが経営する店であった。


何も知らない香織は相葉の申し出を快く受け、その店へ足を踏み入れることとなった。


(つづく)