#61 夜空への手紙
〜Hit the floor外伝〜


「風間さん?
…なんだか聞き覚えのあるお名前ね。」


「…あぁ、前の会社で一緒だった後輩だよ。相葉と同期の。
今はミトリファニチャーで営業やってる。」


「ミトリ、、、
最近は都心にも店舗を出してるよね。
絵画教室で使えそうなものも結構置いてあってね、
あなたに言わなかったけど、生徒さんに座ってもらう丸椅子とか、
実はミトリで揃えたのよ。」


「え、、、何だよそれ、
何で俺に言ってくれなかったの?
言ってくれれば椅子くらい……」


「そんなことお願いできる雰囲気じゃなかったでしょ。
それに、あなたが作る家具はやっぱり高価だもの。
公共の建物でやってるカルチャースクールなのよ。
見合わないと思ったの。」


「、、、、、そうかな…」


就寝前の寝室で、夫の大野がまだ眠らずに、自身の会社の話をしているのは、最近では珍しかった。


日中、妻の香織の絵画教室へ差し入れを持って来たことといい、
それにもかかわらず、黙って立ち去ったことといい、
今日は一日が終わるが終わるまでおかしな日だと、
香織はベッドの上で腕や脚にボディクリームを塗りながら思っていた。


「…いい匂いする。」


隣のベッドでまだ体を起こしたまま、
大野は香織の様子をぼんやりと見ながらそう呟いた。


「…毎日寝る前に塗ってるけど、、、」


「ふ〜ん、、、、
外に出るときも、そんな匂いさせてんの?
たぶん、男が好む匂い。」


そのボディクリームは数年前から香織が愛用しているものである。
初めて寝室で香織が使った時、
大野がいい匂いだと言ったのだ。


そして香織の体をきつく抱きしめてきたのである。


それからずっと、香織は就寝前にそのボディクリームを体へ塗るようになったのだが、、、


「…ここでしか使ってない!
なんっにも覚えてないんだからっ!」


香織は少し乱暴にボディクリームを片付け、ガバッと布団をかぶってベッドへ入った。


「…えっ、ちょっ、、、
なんで怒ったの、、、?」


香織には、夫の大野が考えていることなど、
そのちょっとした言葉と表情から、
手に取るように分かるのだ。


外へ出た時も、絵画教室でも、
松本の前でも、
そんな男が好む匂いをさせているのかと、
そう言いたいのだろう。


こんなにも色んな感情が態度に出て、
妻に対しては過剰なほど嫉妬をするくせに、
よくもまぁ他の女性と浮気を挑もうなどしているものだと、
香織は半ば呆れていた。


「…だから、さっきの話だけど。
風間を正社員で雇おうと思ってる。
香織は…今は会社にタッチしてないけど、無関係じゃないだろ。
小さな会社だし、、、
家族で頑張っていかなきゃって事も、
今後ないとも限らないから…
ちゃんと香織にも相談しておこうと思って、、、、」




大野もベッドへ体を横たわらせたのを、
香織は背中で感じていた。


「……俺も、 話すから、、、
会社のこと、大事なことはちゃんと。
香織も、なんでも一人で決めないで…
俺、頼りにならないかもしれないけど。」


「…………………………。」


さっきまで抱えていた、怒りと呆れの感情が、香織の中からすーっと消えていった。


そして、絵画教室を始めた頃のことや、
体を壊すほど、一人でバタバタ忙しくしていた時期のこと、


倒れた後、
松本と一緒に絵画教室を行うことも、


全てにおいて夫へは事後報告となり、
その返事を待たなかったことを省(かえり)みた。


そういえば、
忙しかった時期は心にも余裕がなく、
このボディクリームを塗ることさえ忘れていたではないか。


香織はゆっくり大野の方を向いた。


「……風間さん、お子さん3人いらっしゃるんでしょう?」


そう問いかけた香織の口調は穏やかで優しかった。


薄暗い寝室の照明に照らされている妻の香織が、自分を見上げてきた少し艶っぽい表情に、大野は視線を外せなくなった。



「……あぁ、そう、男ばっか3人だって。」


「ふふっ、奥さん大変ね、、、
守ってあげてね、あなたがしっかり、
ご家族まで。」


「、、、うん、わかってる。」


「………パパ。」


「なに、、、、?」


「話してくれてありがとう。」


「いや、、、うん、ふふふ、
じゃあ、おやすみ。」


「…………うん、、、」


何気ない、夫婦の会話。
でもそれが、どれだけ大切であるかを、
大野も香織も、17年という結婚生活の中で幾度となく訪れた危機を経験し、
痛感していた。


「今日は、おかしな日ね、、、」


大野が他の女性へ目がいってしまうのが、
この時の香織にはわかるような気がした。


決して、これまでの自分に非はないとは言い切れなかった。


香織は大野のベッドへ体を寄せていった。


「寒いから…そっち入ってもいい?」


大野はなんとなく、香織がそうしてくるのではないかと予感していた。


さっき自分を見上げてきた香織は、


妻でもない、マリの母親でもない、
絵画教室の講師でもない、、、


久しぶりに見る「女」の顔をしていたからだ。


「…嘘つけ、ぬくぬくしてんじゃん。」


大野は自分の布団をサッと開け、
自身の胸へ香織の体を抱き寄せた。


「…ごめんね、何度も私、、、」


この数ヶ月あまり、夫からの誘いを断り続けたことを、香織は大野の胸の中で謝った。


「……もういいって。
香織が元気になってくれただけで。
あ〜〜いや、今はそれだけじゃ済みそうもない…けど。」


大野は香織の唇へ自分の唇を重ねながら、鼻をくんくんさせ、
漂う香りを嗅いで言った。


「…ちゃんと覚えてるからね、
この匂い、初めて嗅いだ時。」


「え、、、そうだったの?」


キスを交わしながら普通に会話も交わす香織を、大野は愛おしさいっぱいという眼差しで見つめていた。




「…あ、炊飯のタイマー、
セットしてない、、、」


「はぁ?
なんでここで思い出すんだよ!
もう、しばらく忘れて、
後で俺がやるから、、、、」


「うっそ、絶対すぐ寝るでしよ。」


「…おまえさ、よくキスしながら喋れるな、、、、ふふふっ、、、」


久しぶりに肌と肌を触れ合わせ、その体を繋ぐことで、
明日からの何かが変わるのかどうかなど香織にはわからなかったが、


夫の大野が何かとても満たされている表情で眠りについたことは、間違いなかった。


香織が脱いだパジャマを着て上着を羽織り、炊飯のタイマーをセットしに寝室から出ようとした時である。


ベッドのサイドテーブルに無造作に置かれた大野のスマートフォンが、ブンっとバイブ音を鳴らした。


時刻はもう、深夜1時を回っている。


そして、目をやったスマートフォンの画面に表示されたショートメール受信のメッセージの冒頭部分と、
それを送ってきた相手の名前を、
香織は見てしまったのだ。


「…ミナミ、、、、
来週の水曜の夜、、、」


こんな時間にメッセージを送ってくる女性。
香織はその女性が、大野と京都で一緒に仕事をしている相手で、


なおかつ、大野が浮ついた感情を抱いている相手であることを確信した。


「通知くらい、オフにしとけばいいのに。
バカね、、、、」


そうひとり呟きながら、
" 来週の水曜の夜 " を香織はカレンダーで確認し、強く記憶した。


(つづく)