好き嫌いはだめよ 栄養が偏るから ピーマンもにんじんも残さずたべなさいよ
はい みなさま
お疲れ様です
お元気にされていますでしょうか
今僕は関学vs立命館の試合を見終わり
というか終了間際の立命のタッチダウンを見届け
ガーン
そうしてテレビの画面を変えて
こうして画面に向かっております
試合をしばらく見続けていて
終了間際にとどめをさされるほど
観ていて つらいものはありませんね
もつれてもつれてのこう着状態が続くのが
もちろんエキサイティングな試合なわけですが
ひょっとしたらひょっとして
の期待が木っ端微塵に粉砕されることは
スポーツ観戦にはつきものであり
ギャンブルにもつきものでありつつも
実際の人生のゲームは
それらのようにその場で終わりというわけではありません
死ねばゲームセットだけど
死ぬことは予期できませんしね
ので
僕はあまりスポーツ観戦もしないし
ギャンブルもしないわけです
スポーツは自分が行うわけではありませんから
前述のように応援した時間が実に空虚なものに感じつつ
ギャンブルは自分が主体であるものの
それらにはなぜかしら「根拠のない勝ち」を当事者たちは求めるわけですね
筋トレするわけでもなく
走り込みをするわけでもなく
勝てば喜び
負ければ悲しみ
ということが果たして有益かと考えると
ひいきのチームを応援するという視点ではなく
ただただそのゲームを楽しむということのほうが
よほど時間としては有益ではないかと思うわけです
視野が広がるといいますかね
人間関係でも同じで
好きな人ががんばっているから応援するじゃなくて
好きとか嫌いとかどうでもよくって がんばっていることに応援するべきであり
好きだから根拠がなくても応援するんじゃなくて
勝算があるから応援する
という理論はいささか浪花節に反するものがありますが
どちらのほうが応援のし甲斐があるかといえば後者のほうであるのは
確かでありますし
実際に自分がやっていることに対して
まったく関係性がない方から応援されることって
その「人間関係」から解き放たれた感じがしなくもなく
また本当に自分がやっていることが評価されているんだな
という意味での喜びも得られると思うわけなんですね
ドライといえばドライだけども
日本がそのような成熟した社会になれば
もっとベンチャー企業も生まれるし
ゼロからイチを生み出す土壌にもなると思うわけです
で
こうしてひいきのチームが負けるたびに
ああ
やっぱりこういう視点でスポーツを見てはならんな
色眼鏡はいかんいかん
僕が見ると負けるしな
と反省するわけです
repeat repeat
WELL
関学のみなさま お疲れ様でした
立命のみなさま 甲子園ボールがんばってください
ってこれがあかんねんな
がんばっている人
みんながんばってください
あきらめたときが
最後ですよ
追伸 大橋さんが嫌いな人は応援できませんよ
とゆーとりますが
確かに嫌いなら応援できないかもしれませんが
僕がゆーとるのは好きでもなく嫌いでもないニュートラルな対象にも
目をやりなさいよ
ゆー意味ですが
でも嫌いでもいいと思うんですよね
応援する相手がね