六、人間の生きるべき方向と目的


(1) 人間の本然の姿



① 堕落前


人間が堕落する前、神様の人間に対する望みは大変大きなものでした。


神様は、エデンの園のすべてを人間が自由に主管できるようにし、人間に限りない豊かさを与えてくださいました。


そうして神様は、未成熟の期間にあった人間に、守るべき一つの戒めを与えたのです。


ところが不幸にも、人間はその戒めを破ってしまったのです。



神様の人間に対する望みは、喜びのと幸福だけであり、決して苦痛や悲しみや、疾病や痛みではありませんでした。


神様は人間が生育し、繁殖し、神様の世界で豊かさを享受して生きることを望まれました。


そして、神様は人間が喜びを享受することができるように、万物を創造なさいました。




しかし、人間が堕落することによって、人間と万物の関係が途絶えてしまい、神様と人間の関係も断絶してしまいました。


そのような関係の中で、人類歴史が流れてきたのです。


神様と人間、人間と万物という縦と横の関係が断絶したまま、人類歴史は暗黒の雲霧に包まれ、その出発と方向がベールに包まれたまま流れてきたのです。




しかし神様は、絶対性、唯一性、無限性、永遠性を備えた存在であるため、神様の創造理想もまた、唯一無二にして永遠なるものです。


それゆえに神様は、人間がその本性を回復するその日まで、変わることなく待ってこられたのです。


そして、その悠久なる歴史の流れの中において、その人間の本性を回復した方こそ、まさしく文鮮明先生なのです。




文鮮明先生は16歳(数え)のとき、イエス様からメシヤのすべての使命を引き継ぎました。


その後、その使命を成就せんがために、様々な次元の峠を死線を越えに越えて、人類の「真の御父母様」の位置に就かれました。


文鮮明先生はその日まで、苦杯をなめながら、神様の解放のために犠牲となられ、人類の前に血と汗を流してこられたのです。


私たち人類は、堕落前の本然の姿に戻るために、文鮮明先生のみ言と思想の前に、無条件に従順に屈服しなければならないのです。




皆さんは肉身生活をしながら、あすがあり、来月があり、来年があると思っています。


しかし、ある日突然、皆さん自身が肉身を捨てて霊人体の姿になって、こちらから地上に胸痛い事情を告白する立場に立ったならばどうするでしょうか。


どれほどぞっとするようなことでしょうか!


千年が過ぎ万年が過ぎて、メシヤを迎える機会が皆さんにまた再び訪れるでしょうか。




皆さんは、アウグスティヌスの胸痛む切実な告白に注目してほしいと思います。


永遠に暮らしていく愛の安息地を準備するのに、どうして体面や威信や人目などが問題になるでしょうか。


このままでは皆さんの霊魂は、死んでもこちらの霊界に入ってくることができません。


ゆえに皆さんは、文鮮明先生に命がけで取りすがらなければなりません。


その方は傘寿(80歳)のお祝いをされました。


文鮮明先生が地上にいらっしゃるうちに、一度でもいいからお仕えして、それからこちらの霊界にこなければなりません。


皆さんの永生の問題は、その方を通さずしては決して解決されません。




私は、はじめ統一食口の原理講義を聴いたとき、いらいらして聞きたくなかったし、無念さのあまり炎のような嫉妬心がわいてきて、実際、改宗するどころではありませんでした。


しかし、どうしたらいいというのでしょうか!


その機会を逃せば、私には実際、滅亡の道しかないのです。


皆さんは、こちらの霊界に来る前に、最善を尽くして堂々とメシヤを迎えなければなりません。


そしてその方を迎えるためには、ずべてを超越しなければなりません。


皆さんは、いかなる威信も体面も忘れ去って、メシヤを証して侍っていくことに、全力を集中しなければなりません。




一般的に愚かな者は、無駄な自尊心にとらわれて、ためらう場合が多いのです。


この時代において、自分の自尊心ばかりに気を取られて、メシヤを迎えることができなければ、皆さんは千秋の愚かな者になってしまうでしょう。


メシヤは、皆さんが堕落前の本然の姿に戻れるように、神様が送られた方です。


皆さんは急がなければなりません。


メシヤが地上に何年くらいとどまるか祈ってみてください。


皆さんが我がメシヤ、我が真の御父母様を迎えて、侍って生きていくその時、初めて本然の姿を回復できるのです!


皆さんが、新たな生の理想を実現することができるよう、私は切に願います。




六、人間の生きるべき方向と目的




神様は喜びを得るために、アダムとエバを創造しました。


そうして彼らが成長して夫婦となり、子々孫々に増え、愛の園を築き、幸福に生きていくことを望みました。


しかし、その人間始祖が堕落することによって、人類歴史は神様の創造目的から離脱しました。


そうして人類には復帰歴史という、胸の痛む恨の歴史が流れてきたのです。




それを正すために、人類にはメシヤが必要となりました。


つまり、メシヤによって重生(じゅうせい)するという役事の出発が必要となったのです。


したがって、人類が重生するためには、メシヤの再臨は絶対不可欠なものです。


私、アウグスティヌスは、人類が待ちに待ったメシヤが、ほかでもない文鮮明先生であることをこちらの霊界で悟り、改宗いたしました。


私が改宗するようになった動機に注目して、皆さんが深く研究してくださることを願ってやみません。




五、霊界での改宗


(4) 聖アウグスティヌスが目撃した文鮮明先生



私は実に恵まれた星のもとに生まれた者であると思います。


それは人間として望む、最も大きな目的を成し遂げたからです。


私は、数多くの人間の中で、神様の近くで仕え、神様の摂理を正しく知り、神様の摂理に直接参加することができるようになりました。


これ以上に恵まれた者がどこにいるでしょうか!




私、アウグスティヌスは、霊界に来て新しい真理に接するようになりました。



・人間の内面の世界と外面の世界


・被造世界の創造の奥義


・人間と被造世界の関係


・神様が人間を愛する理由


・心痛む復帰摂理


・エデンの園で神様のもとを離れるしかなかった理由


・人類歴史の誤った出発


・天使長が偽りの父母として人類を主管してきた実相


・歴史の裏道を整理しなければならない痛み




これらは、様々な次元における新しい摂理的事実でした。


「統一原理」には、誰も明かすことのできなかった秘密と真理が含まれています。


それは実に尊く、実にとてつもない真理です。




ところが、その「統一原理」を解明された方が、正に文鮮明先生なのです。


私はその方を、人類史上最も偉大な師として仕えようと決心しました。


私たちは、おそれ多くて、その方のお名前をそうそう簡単に口にすることすらできませんが、私は、私を慕っている地上人のために、あえてこの場を借りて偉大な師について紹介しようと思います。




私は、メシヤを迎える時代的な環境に恵まれなかったことが、常に悔やまれました。


そのため「統一原理」を学んでからは、統一食口(とういつしっく)を見るたびに、彼らがうらやましくて仕方がありませんでした。


地上で偉大な師と共に生き、地上で偉大な師を直接見つめることのできる統一食口を、私がどれほどうらやんだことか、皆さんは知らないでしょう。


私はそのことで、しばらく胸が痛みました。


しかし、こちらにはいまだに師を知らない人が多いということを慰めとしながら、私は新たに決心しました。


それは、私が自分自身の欲望から解放されるためでもありました。




統一食口は、常に師に対する自慢や慕わしさにあふれていました。


しかし、一度もお仕えしたことのないアウグスティヌスが、いったいどのように師の話ができるというのでしょうか。


そこで私は、文鮮明先生に関して、私が霊界で発見した側面、すなわち地上人が肉眼では見ることのできない側面を紹介しようと思います。




こちらでは神様は、光の姿で人間に近寄ってこられ、様々な次元の光彩で愛を表現されます。


そのため、神様の予告なき光が現れると、だれもが懐かしさと愛をもって迎えるようになります。




ところで、文鮮明先生は肉体をもったお方であり、神様は光と光彩をもって現れるお方ですが、私は、文鮮明先生が常に神様の光に包まれながら、きらびやかな光彩の上を歩いていかれる姿をはっきりと目撃しました。


おそらくそのような姿を地上人は、ほとんど見ることができないでしょう。




私は、文鮮明先生がそのような状態で式場のあちこちをくまなく見回していらっしゃる姿を、何度も直接見ました。


顔は光で覆われていて、口から言葉が発せられるときには、赤や青の光が色とりどりに現れていました。


その姿を始めて見つめたときには、あまりの不思議さに、びっくり仰天して魂の抜けた人のようになり、ただ呆然としていました。


私の姿は、さながら自己の意識を全的に忘却した精神病患者のようでした。



私は、文鮮明先生が動くや否や、ぐるぐると光で取り巻きながら、その場その場を保護される神様の姿を見ました。


そのようにして両者は、時には一体となったり、時には分離したりしました。


その場の美しさは、いかなる文章や言葉をもってしても表現できません。


その姿は驚異そのものです。



そして神様が、光の姿で雲の上に座られて、万民を見下ろしながら呻吟すると、そのたびに文鮮明先生の顔には、血のような汗の滴が流れました。


その場面は、人類を愛して心配する神様とメシヤが完全に心情一体となった姿と言えるでしょう。


このような姿に接すると、私の胸中には燃え上がるような新たな精気と、新たな希望がわいてきます。


「私にも人類を愛する心が、誰にも負けないくらいあるはずだ!」


と、私は我知らずこぶしを固く握ったりするのでした。



このような人類のメシヤ、真の御父母様のもとで生きていく地上の統一食口たちは、真の御父母様の精気を受けながら全人類の前に、先駆者、真の師の弟子、真の御父母様の子女としての道を歩んでいかなければなりません。


しかし地上には、いまだに真の御父母様の位相と価値を正しく認識できない人が多いため、私の心は限りなく切ないばかりです。



しかし私は、このメッセージを通して、その実相を地上人に伝えたいと思います。


私の発見した文鮮明先生は、地上人が肉眼で見て判断できる方でもなく、ただ仰いでいさえすればいいという師でもありません。


地上人は、自らの師に地上で直接会うことができ、その方の教訓と教えを直接受けることができます。


なんと幸福なことでしょうか!


遠い将来、後悔の痛みを体験する前に、心をきれいに整理して自らの小さな姿から脱出しなさい!


そして文鮮明先生を研究してみなさい!


文鮮明先生は、皆さんの頭脳ではどんなに研究しても判断するのが難しい方ですが、研究しようと努める者には、その方に仕えることのできる恵みが共にあるでしょう!


これはアウグスティヌスの切実な願いです。


(2000年5月25日)





五、霊界での改宗


(3) 霊界の祝福式



私、アウグスティヌスは、地上では想像することもできなかった途方もない真理の中で、限りなき恩恵を受けながら生きています。


私は、このような真理と恩恵の中で自由を知り、こちらで毎日毎日、幸福な生を営んでいます。


ところが、ここでさらに驚くべき事実は、地上生活を整理し、肉身を捨てて霊界に来た人たちが受ける「霊界祝福式」という事件です。


「祝福式」とは何でしょうか。初めて耳にする人には、その用語が非常になじみにくいでしょう。




これは簡単に言えば、地上で嫁にいったり妻をめとったりする、いわゆる結婚式です。


地上では誰か尊敬する人物を主礼者として、多くの親戚や友人たちに祝賀されながら結婚式を挙げます。


しかし、「祝福式」は、神様の立会いのもとに善男善女が夫婦となることを誓約する式です。


皆さんが周知のように、文鮮明先生は天上天下の人類の「真の御父母様」であられるが、「祝福式」をもう少し詳しく説明するならば、それは神様の立会いのもとに、その「真の御父母様」を主礼者として立てながら、霊界や地上で永遠なる夫婦の絆を誓約する式です。




このような「祝福式」の式場において、地上人には、地上の善男善女しか見えないでしょう。


しかし、天上の祝福候補者たちは、地上の夫婦と天上の夫婦をともに見ることが出来ます。


「祝福式」の光景は真に美しく恍惚たるものです。


私自身が経験した「祝福式」の様子の一部をここで皆さんに紹介しようと思います。




文鮮明先生は、「祝福式」を執り行う際に、人間が堕落する前にエデンの園に現れた神様の姿に、忽然と変わられました。


言い換えるならば、神様の光彩が麗しい恍惚たる光となり、その光がぐるぐると回りながら文鮮明先生を取り巻くようになると、文鮮明先生は神様の体をまとうようになられました。


祝福式の前景はあたかも、真っ暗な部屋の中に数千ボルトのライトがついたかのようでした。


そのような式場で、神様のその光彩が善男善女の一組一組をなでていきました。


その時、私は霊界にいて、私の相対者(姜賢実女史)は地上にいました。




この話を聞いても、地上人はその意味が理解できないでしょう。


文鮮明先生の語る一言一言が、立体的な式場になったり、礼服になったりしながら、着せたり脱がせたりしていくのです。


その色も実に多彩でした。


神様の光彩が善男善女をなでていくと、それぞれの霊魂が聖別されて彼らの姿は、その光景を観覧している人たちの姿とは全く変わってしまいました。


それを二つの器に例えるならば、一方の器(善男善女)はピカピカに磨かれたものであり、もう一方の器は黒くてひび割れたものでした。


これがいわゆる「祝福式」というものです。


地上人の目には、その姿が全く見えも分かりもしないでしょうが、私はその姿をはっきりと見ました。


私は、この事実を地上人にはっきりと知らせたいのです。




「祝福式」とは本来、エデンの園でアダムとエバが成人したときに、神様が二人を結んでくださる儀式です。


私は、この目ではっきりと見たため、その事実を信じています。


文鮮明先生が神様の体をまとって、主礼者として善男善女を結婚させてくださるという事実を、私ははっきりと信じます。


それゆえ私は、私の伴侶を決めてくださった文鮮明先生に感謝し、地上にいる妻に会うために、地上に降りていくこともあります。




地上人よ!


今や私は、妻と一緒に地上にいることもできるようになりました。


そして私は、明らかに天上の霊界にいますが、私たちは結婚式を挙げました。


「祝福式」をしました。


新婚の夜もともに過ごしました。


皆さんは、この事実を信じなければなりません。


私はアウグスティヌスです。


こちらの霊界で改宗したアウグスティヌスです。


地上人が言うところの「聖アウグスティヌス」です。


皆さん、「祝福式」を研究してみてください!


文鮮明先生がどんな方か研究してみてください!


文鮮明先生がどんな方であるかを、アウグスティヌスはずべての信仰者に明らかにお知らせします。


私は、この霊界に先駆けてきた者として、永遠なる美しい天国の生を明らかにお知らせします。


(2000年5月24日)




五、霊界での改宗


(2) 「統一思想」



「統一原理」と「統一思想」は、文鮮明先生の新しい真理のみ言を土台として定立された内容です。


そして「統一思想」は、「統一原理」をより詳細に学問的に体系化したものです。


したがって、それは多くの人々、特に知性人に相当な感動を与えうる思想です。




私は「統一思想」を学ぶたびに、あまりにも立派な学問の境地の世界に没頭してしまいます。


「統一思想」の思想性に没入すると、私は自らの感動と感激を禁じることができません。


人類にとって、これほど偉大な真理と思想はないと思います。




私は「統一思想」を直々に体系化された李相軒先生から熱烈な講義を聞いたのですが、それは一般的な講義でなく、霊力と謙遜と愛と知性が渾然一体となった講義であり、私の心は完全に魅了されてしまいました。


李相軒先生は、講義が進むその瞬間に自らの師を誇りながら、


「私などは及びもつきません。


これは真の御父母さまの思想です。


これが個人の思考の中から出てきたものとは考えないでください」


と語られました。


李相軒先生は、講師にはあまり見かけられない、謙遜と親切と誠実と信実の姿勢をもっていらっしゃり、信仰者としての率直な姿勢と特別な美徳を兼ね備えていらっしゃいました。




私は、「統一思想」の講義を聴講しながら、「統一思想」から新たな事実を大いに感じる一方、


「文鮮明先生は実に幸福な方だ。


こんなにも忠誠を尽くす弟子をおもちになるとは」


と思いながら、非常に恐ろしくもあり、うらやましくもありました。


私は、文鮮明先生の新しい真理のみ言によって改宗したため、これからは文先生がすべてを信じて任せることのできる弟子となり、忠実で謙遜な弟子として仕事をしてみたくなりました。




そのため私は、「統一思想」を徹底的に研究、分析し、一生懸命学んでから、まずは「統一思想」の講師になろうと決心しました。


このような一念から、私は李相軒先生に質問しました。




「私も『統一思想』の講師になることができますか」


「あなたは熱心に勉強して、真の御父母様から認定と決裁を受けなければなりません」




私はその話を聞きながら、


「汝はあまりにも欲張りである!


謙遜な立場こそ、アウグスティヌスの立場である!」


と神様に以前言われたことを思い出しました。




そして私は、


「まだ時が早い。


いろいろな講師のもつ、それぞれの特徴をじっくり観察しながら、一生懸命に『原理』のみ言と『統一思想』の学習によって生きていくならば、私の誤った部分はすべて洗い流されていくだろう。


その時になれば、私はメシヤである文鮮明先生の前に認められるはずだ!」


と固く決心しました。




その時が一日も早く訪れることを願いながら、私は原罪の位置で分相応に真をつくしていこう!


信仰の立場を守り、アウグスティヌスの位置を守りながら、主メシヤに出会うその日に備えて生きていこう!


これが私の確固不動たる人生の目標です。





五、霊界での改宗


(1) 「統一原理」



私、アウグスティヌスは、こちらの霊界で新しい真理に触れました。


その真理が正に「統一原理」です。


私が始めて「統一原理」を聴くようになった所は、多くの人々が集まって講義を聴くことのできる大講堂でした。


そこは誰でも自由に聴講できる所で、私はその内容を負担なく聴くことができました。




私は、「原理」の内容があまりに論理的で体系的であるため、ずっと聞き続けていたいという衝動にかられました。


その後、私は単独で講義を聴くことにし、講義のあとで質問したりしました。


「統一原理」は私にとって、大いに役立つものでした。


前編の「創造原理」から後編の「復帰摂理」までの内容は、あまりにも感慨深いものでした。


私は講師に質問しました。




「『原理』の根本思想はどこで解明されたのですか」



講師は、メシヤの再臨とその目的について説明し、答えました。



「これはメシヤによって解明されたものです」



そして彼は、メシヤの地上摂理について説明してくれました。




その時、私は少なからず混乱しました。


「メシヤ、再臨主、その方が地上に来られたとするならば、霊界にいる数多くの人々はいったい誰が救済してくれるのか、主のために一生信仰生活や修道生活をしながらも、悔しくも時代的な環境と恵沢に恵まれなかった人たちはどうなるのか」


私にもそのような不幸が訪れないとも限らないので、私は内心で大いに葛藤しました。


「どうしてメシヤの再臨を、万人が知ることができず、万人がメシヤの恵沢を受けることができないのか」


と。


そのことが頭に浮かぶたびに、私は悔しくてたまりませんでした。




ところで、「メシヤの降臨」ばかりか、「統一原理」の内容にも、私は少なからず驚きました。


私にとって「統一原理」は、人間の歩んでいかなければならない公式のように思えました。


あまりにも当然の内容であるため、疑問の余地がほとんどなかったのです。


ところが、当時の私は、「再臨論」に関しては容易に受け入れることができませんでした。


私は数日間、大いに悩んで祈ったあと、講師を再び訪ねて心境を吐露し、再臨主の現れる時期について再び説明を聞くことにしました。


その講師の説明は非常に有益でした。




「時代的な恵みにあずかれなかったことを悔やんで悩むよりも、再臨されたメシヤについて詳しく研究していくことのほうが、はるかに価値ある生となり、正しい信仰の姿勢となるでしょう」




私はその話を聞いて、心臓をえぐられるような痛みを覚えました。


私は、メシヤ再臨の事実が信じられず、またそれが事実でないことを願いました。


「統一原理」を流暢に講義している人たちはみな、一様にメシヤの弟子たちなのに、私はいったい今まで何をしており、どうして今になってこの消息に触れるようになったのか。


そのような抑えがたい後悔と痛みが、私の全身を覆い尽くしました。




しかし私は、「統一原理」を少しも否定することができませんでした。


それは、私の心中に深く打ち込まれてしまいました。


「創造原理」における、神様の人間創造に対する後悔と嘆息、そして復帰摂理において、すべての人間が再び本然の姿へ帰らなければならず、人類歴史が神様の復帰摂理であったという事実などは、まったく否定できない絶対的な真理でした。


これよりも明らかな真理が、どこにあると言うのでしょうか!




私は、心を完全に入れ替え、「統一原理」を解明するまでに文鮮明先生が経てこられた、霊界と地上界の血みどろの闘いを推し量ってみました。


そして、今や人類の終末が迫っているという事実を熱く感じてみました。


そして私は、自分の心を新たに整理しながら、私自身の悔しさが問題でなく、数多くの人類の苦痛と痛み、神様の復帰摂理の歴史について考えてみました。


そして私は、文鮮明先生が解明してくださった「統一原理」と新しい真理のみ言を、私の永世の真理として受け入れることに決意しました。


そして私は、「統一原理」を解明された文鮮明先生の新入り弟子として生きていくことを硬く近い、霊界で改宗することを明言しました。


(2000年5月22日)





(5)その他、無宗教の人々


② 無神論者



人間の地上生活は極めて短い一つの生涯ですが、大部分の人間はそれが永遠でもあるかのように錯覚して生きています。



私は、神様がいないと思って生きてきた人に会ったことがありますが、ここでそんな彼の経験を皆さんに紹介しようと思います。




彼は、体も健康で、あらゆる富裕栄華を享受しながら、人生を惜しみなく生きていました。


彼は、地上生活で


「神を求めて何になるのか!」


と反問した人でした。


彼は、


「神を求めるのは、自分の弱さを補ってほしいと頼むことだ。


私には弱いところがないから、神は必要ない!


それにいったい、神がどこにいるというのだ!」


と言い張りながら、地上で豊かに暮らしていた人物でした。




ところが、彼が豊かな地上生活を整理してから、こちらの霊界に来てみると、彼に残されたものは何もありませんでした。


こちらでは世話をしてくれる者もなく、食べる物も着る物もなく、甚だしきは、すべての友人が彼を軽蔑して冷遇するのでした。




「お前は、こんな物は食べないよなぁ。


こんあ服も着ないよなぁ。


こんな所では暮らせないだろう。


さあさ、お前の望む食べ物と場所のある所に移るがいいさ!」




彼は、行く先々で追い払われる身の上になって、乞食のように生きています。


そんな生活がいつまで続くのか分からないまま、つらい生活を送っている彼に、私は尋ねてみました。




「なぜあなたは、そのような身の上になったのかご存知ですか」




すると彼は、次のように答えました。



「神様は公平な方です。


私は地上であらゆる富裕栄華を享受してきましたから、私がここで苦労するのは当然です。


しかし私は今からでも、神様がいないと否定してきたことを悔い改めて、神様を頼りにいきたいのです。


私は、自分が足りない厳しい境遇になってみて、自分の過ぎし日の誤った生活を省みるようになりました。



神様が私を見捨てないならば、いや見捨てられたとしても、私は神様を追い求めていきます。


最後まで神様を求めて行けば、いつかはきっと私を許してくださるはずです。


神様はそんな方である、と私は信じています」




一般的に、地上生活で富裕栄華の生活のあまりに陶酔するようになると、自分の一生がその落とし穴にはまって、抜けだせなくなる場合が多いのです。


財物は人間にとって毒薬になりやすいため、適切に主管して管理しなければならないのです。


周知のように人間は、肉身と霊人体によって構成された、二重的存在です。


肉身は地上生活において必要で、霊人体は永遠なる世界において必要なものです。


どちらにより多くの力を注いで生きるべきか、じっくり考えてみてください。


(2000年5月19日)




(5)その他、無宗教の人々


① 辻の音楽士(声楽家)



人間は誰でも、自分にしかない一つの特性を持って生まれてきます。

そうして人間は、その固有で独特な素質を生かしながら、一生を送っていくものです。


ここで、そのように生きた人物を、一人紹介しようと思います。




彼は、天から与えられた美しい声をもっていました。


彼は誰の前に立っても、その才能を自信満々に現すことができました。


彼は、自分のような才能の持ち主には、声楽家が向いていると思いました。


彼は自分の素質を生かして、声楽を専攻してから教授になりました。


そうして、美しい歌を歌って多くの人々に感銘を与え、厚いもてなしを受けました。


彼は自分のもって生まれた素質に対して、常に感謝して生きました。


彼の名誉と富貴は、刻苦の努力によるものでなく、もって生まれた天性の素質によって得られたものでした。


そのため彼は、自分のことを幸運児であると思って生きていました。




しかし彼のこのような生活は、行き過ぎた驕慢心、うぬぼれ、利己心などでいっぱいでした。


彼は、他人の事情には全く関心を示さず、自ら願うところの人生目標を、天賦的な素質によって成就していきました。




ところがある日、予期しない不幸が彼に訪れました。


健康に異常が発生したのです。


彼の首に喉頭がんが発病したのです。


彼は、歌を歌うことができなくなり、教授の職も辞さざるを得なくなりました。


その時から彼は、人生のはかなさを感じ始め、人間は極めて微弱な存在であることに気づくようになりました。


彼は、病院で数多くの患者と出会い、彼らの苦衷に関心を持ち始め、患者を取り巻く人々の様々な難しい事情についても理解できるようになりました。


彼は、自分の無能さとむなしさをつくづく実感し、今まであまりにもけちけちと生きてきたことに対して、胸が痛くてたまらなくなりました。




病気がだんだん悪化すると彼は、地上生活があまり残っていないことを悟り、最後に自分の天賦的素質を生かして、世のため人のために献身しようと思い立ちました。


彼は、患者たちのたまり場や、孤独な監房、そして該当などで全身全霊を込めて歌を歌いました。


ところが、なんと不思議なことに、歌を歌うごとに新たな勇気がわいてきて、首の痛みがだんだんと消えていくのです!


彼は、このような不思議な体験をしたのち、過ぎし日の自分の過ちを悔い改めながら、辻芸人のようにあちこちを回っては、全身全霊を込めて歌を歌いました。




そんなある日、彼は、歌を歌っていると突然全身が炎のように燃え上がって、空中に舞い上がるような感覚を覚えました。


するとその瞬間、


「もはや汝の病気は回復したり!


これからは、汝の声を人のために捧げながら生きるがよい!」


という声とともに、神様の姿が現れたかと思うと、白い雲のように忽然とまた消えていきました。




それ以来、彼は辻の音楽士になって、行きかう人々の心を慰める人生を送りながら、地上生活を締めくくりました。


彼は、こちらの霊界に来てから地上で体験した神様の姿に再び出会ってびっくりし、神様は人間が治せない病気も治すことができ、人間がやり遂げられないことも、やり遂げることができると確信しました。


彼は、今までけちけちを驕慢に行動してきたことに対して徹底的に反省し、神様のいらっしゃる所で神様に仕えながら生きています。



人はみな、いかに自分の能力が優れていても神様の前には極めて小さな一部分にすぎないということを、悟ることができずにいます。


人はみな、地上で生活するとき、自分の持って生まれた能力をあまり誇示することなく、ひと助けをしながら正しく信仰しなければなりません。


そうすることによって、神様の前に賢明な子女となることができるのです。


私は彼の話を聞いてそのように思いました。



(4)儒教を代表した孔子様


人間は、この地に生まれてくるとき、すべての属性を完成した立場で生まれてくるわけではありません。


人間は、生まれてから完成するまでの成長過程において、内外両面の様々な次元の環境が必要です。


しかし人間は、完全に成熟する前の未完成期において、神様が願わざる方向に自分自身をつくってしまいました。




では、人間本然の姿、すなわち人間の完成基準はいかなるものであり、人間が本然の姿に完成するためにはいかなる過程が必要なのでしょうか。


皆さんが周知しているように、私アウグスティヌスは、地上と霊界における生の姿をすべて経験しました。


私は、このような経験を踏まえて、それらのことを明らかにしてみようと思います。


そのため私は、地上で多くの人が尊敬し、師と仰いだ孔子様に会ってみることにしました。




孔子様は、地上生活において、一歩、一時動くことさえ、一定の規範に基づいていました。


私は、なぜそのように生きなければならなかったのか、大変気になって孔子様に尋ねてみました。


しかし孔子様は、すぐに返事せずに、しばらくしてから話し始めました。



「私がこの世に生まれたのは、自分の意思によって生まれたのではありません。


したがって私は、父や母を尊敬するように、自分のすべてを大切に扱わなければなりません。




そしてさらに、私たち自身は、父や母や先祖から譲り受けた大切な個体です。


ですから人間は、肉身をもって生きていくとき、すべての面において目上の人を尊敬しなければなりません。


そして、目上の人にとって召したの人は、自らのずべてを伝授すべき大切な存在です。


ですから、目下の人には自愛をもって接しなければなりません。




人間の縦と横の関係は、貴重な愛を分け与えるべき関係ですから、信仰と信義で助け合いながら、過ちも痛みもお互いに包み込んで、すべてを分かち合いながら友愛を厚くしていかなければなりません




孔子様は、これこそが人間の道理であると強調していらっしゃいました。




「一方、私たちの周囲にある自然万物とすべての環境も、先祖と父母から譲り受けた貴重な遺物ですから、よりいっそう整えて大切に保存し、子孫たちに青く美しいままで譲り渡さなければなりません。




それゆえに、先祖から譲り受けたずべて、すなわち、自らの肉身や思想や生活環境はすべて、我々先祖のみ霊なのです。


人はみな、それをそのまま大切に保管して子孫たちに譲っていくべき責任があります。


この天地にあるものの中で貴重でないものは一つもありません。


それらは、人間が生活するに当たって必須の条件です。


それゆえ人間には必ずと言っていいほど、『規範教育』が必要なのです」




そして、孔子様は結論的に言われました。




「そうして、すべての信仰者が神を求めて崇拝するのは、人間の先祖をあがめることにほかなりません」




私は、儒教思想がいつどこで、どのように出発したのかよく知りません。


しかし、儒教の教えには、目に見えない光る何かがあるという結論に至りました。


人間には、自分勝手に生きずに、一定の期間を決めて、その中で自由に生きていこうという本姓があります。


それは究極的に見れば、神様を崇拝して愛そうという、本性の発露によるものではないでしょうか。


このような脈絡から見るとき、人間は太初から、神様と切っても切れない不可分の関係をもって生きていくように創造された存在であると言えるでしょう。


すべての人間は、そのように生きなければならないし、私は、それがまた当然の道理であると思います。


(2000年5月18日)









(3)仏教を代表したお釈迦様


私、アウグスティヌスは地上生活を整理して霊界に来てみると、地上に残した私の著書が、極めて狭い見解で書かれた部分的な内容であったことを確認しました。




人間は神様によって創造された時、神様だけが唯一の創造主でした。

ところが人間の生と環境、そして生活方法などの変化によって、人間に新しい主人が生じました。


人類歴史の流れによって、創造主の神ではなく、八百万の神々がまつられるようになりました。




「なぜ人間は、このような神々をまつることなく、独自で生きることができないのだろうか。


なぜ人間には、何かを追求する欲望が生じたのだろうか。


人間の虚無性や不完全性は、なぜ生じるのだろうか。


そしてなぜ人間は、神への依存性をもつのだろうか」




人間は、このような問題を解決するために、神様やイエス様、そして八百万の神々を求めざるを得なかったのです。


人間は、地上において、永遠の世界において、いつまで集団ごとに分裂して生きなければならないのでしょうか。


これは神様の願いではないということを、私は何度も悟りました。


そして、神様が常に晴れ晴れとした、明るい姿でいらっしゃるとは限らない、ということも悟りました。




私は神様の姿を様々な側面から見ながら、聖賢の中の何人かに会ってみようと思い立ちました。


私はまず、キリスト教の側面から見た見解と、仏教の側面から見た見解を比較するために、仏教圏における代表者のお釈迦様に会ってみることにしました。




お釈迦様は、真に温和で謙遜な方でした。


その方は信仰者である前に、真の人格者でした。


私がお釈迦様を訪ねていくと、お釈迦様は快く対話の門を開けてくださいました。


私たちは、よそよそしさのない明るい雰囲気の中で、多くの対話を分かつことができました。


私はまず、お釈迦様に質問をしました。




「お釈迦様の考える『神』について、お話を聞かせてください」


するとお釈迦様は、次のように答弁されました。




「人間は、人生の様々な次元の苦悩から解放されたいと思っています。


生きて死ぬこと、老いて病むことなど、人間の現実的な姿から解放され、人生の根本問題を解決したいという欲望をもっています。


私は、地上生活において数限りない厳しい修道生活をしながら、人間とは、生老病死の問題を解決することも、そういう苦悩から抜け出すこともできない未完成の存在であることを悟りました。


そして幾多の日々を、肉身を打って精神統一しながら、人生問題を解決するために苦しみもがいてみました。




しかし、結局それは、釈然とした解決にはなりませんでした。


人間がこの世で生きていく姿は、つかの間にすぎないのに、そこでの喜怒哀楽や富裕栄華に意味があるでしょうか。


私は、この世の生にはまったく関心がありませんでした




そしてお釈迦様は、次のように話を続けられました。




「今日仏教徒は、こんなにも卑賤な私を崇拝していますが、私は、彼らと何ら変わりもない未完成な存在にすぎません。


ただ私は、そんな自らの姿を彼らよりも先に悟ったにすぎないのです。

私は、自らの足りなき姿と矛盾した姿を完成したものにしようと、彼らよりも先に苦闘してみました。


そうして、神秘的な如来(真如)の助けを借りて、意識が巡り巡る中、私は無我の境地(解脱)を体験しました。


その結果私は、何らかの存在から賦与された極めて小さい姿であるということを悟るようになりました。




しかし、人間が『神的な存在』によって賦与された姿であると表現するならば、それは私に・・・・・・」



お釈迦様はしばらく黙想したあと、再び話を続けられました。





「簡単に言えば、人間が『神的な存在』によって賦与された小さな存在であるとするならば、自らの姿を清算して切磋琢磨さえしていけば、私は自分自身を捨てる境地に入っていくことができるでしょう。


その時、賦与してくださった『神的な存在』から、もう一度改めて賦与していただけるならば、私の姿は『神的な存在』の小さな分野であると表すことができるでしょう。




そのような解脱の中で、私が自らの人生問題を解決したとするならば、それは私がそのような境地で、自分自身が『神的な存在』によって生かされている分身であるということを体験したということです。




したがって人間は、何人といえども神的な存在に仕えることができ、神的な存在によって生かされている分身であるということを体験することができます。


そのような体験をするようになれば、人間の心からは世俗的な欲望が減少し、個人的は我欲もなくなって、来世を考えることのできる余裕が生まれるのです。


ですから、人間においては、自らの省察が必ず必要なのです」




私は、お釈迦様の話を聞いて次のように考えるようになりました。


仏教徒、プロテスタントやカトリック信徒など、すべての人間が本能的に感じている共通の事実は、


「人間は神を求めて、常に不完全な状態で生きていく限定された姿にすぎない」


ということです。


それゆえ、本心の要求に従って神様を求め、神様と共に生きていくならば、その人には永遠なる幸福が永遠に宿るのです。