(2)カトリック教会を代表した神父と修道女


③ 体と心が一つになる世界



人間は地上で生活しているとき、衣食住の問題が現実的な問題として台頭してきますが、それは一般的に見ると「肉身の成長」のためのものです。


しかし皆さんは、永遠性を持った「霊人体の成熟」のために、何をすべきかということを、じっくりと考えながら生きなければなりません。


人間の地上生活は、つかの間の夢のようです。


霊人体が目に見えないからといって、霊人体の成長を無視して生きてはいけません。


ここで、霊性の成熟を重要視し、一生悩みながら修道の道を歩んだ修道女の生涯を紹介しましょう。




その修道女は、肉身と霊魂という問題(煩悩)を克服することができずに悩んでいました。


肉身の欲望に従って生きれば、肉身は楽になっても心が休まらず、心の指示に従って生きれば、心は楽でも肉身が苦しくなります。


彼女は、そのような問題が解決できずに、修道生活の道を選びました。


しかし修道生活を通じても、その問題の回答を得ることができず、彼女は


「再び俗世間にもどろうか」


「どうして神様は人間を、こんなにも苦しい姿に創造なさったのだろうか」


と思いながら何度も悩みました。



そんなある日、彼女が祈祷していると、ふと神様の温かいぬくもりを感じ、天から非常に荘厳な声が聞こえてきました。


「我が子よ、私は、あなたの親であると同時に、全人類の親なる主である。


今あなたは至って狭く、至って瞬間的な世界にとどまっている。


しかし、あなたの行く手には、豊かで幸せに暮らせる永遠の世界が用意されている。


しかし、そこは肉体で来る世界ではない」




彼女はぶるぶる震えていました。




それ以降彼女は、肉身の悩みを中断し、地上生活は霊性を成熟させる期間であると考え、永遠の世界にとどまる霊人体を切磋琢磨する生活を続けました。


彼女はいつも、心と体が一つにならなくて大いに葛藤しましたが、神様の教えを肝に銘じて修道生活に精進しました。


しかし、地上でどんなに努力しても、心身の統一と霊性の成熟は、容易に実現できませんでした。




その後彼女は、霊界に来てから神様の愛を体験し、その愛の中で地上生活で悩んだ問題をすべて解決しました。


神様の愛は、偏在し、全知全能であるため、その愛によるならば、人間にまつわるすべての問題を解決することができるのです。




たとえば霊界では神様が動くたびに、その周りのずべての草や木は、神様を喜ばそうとして、その固有の特性と姿を発揮しながら、あらん限りの努力をします。


そして、その周りにいる人たちも、誰かから指図されたわけでもないのに、一様に平

和で慎ましく、平穏で幸せな姿をしています。


彼らの姿はみな、神様の愛で織りなされており、まるで一つの美しい絵のように、心と体が完全に調和しています。




このように、人間の心と体が一つになれる原動力は、唯一、神様の愛、永遠の愛であり、その愛は、神様が私たち人間を創造するときに賦与してくださったものです。


それにもかかわらず、私たち人間の心と体が一つになれないのは、人間が創造本然の姿を失って変質してしまったからです。




彼女は、人間が本然の姿を取り戻すには、信仰生活や修道生活が絶対に必要であるという事実を悟りました。


また、その後に彼女が霊界において様々な姿を見て発見したことは、人間が、成長過程において本然の姿から離脱したという点でした。




神様の無限の愛は、すべてに打ち勝ち、すべてを解決することのできる原動力であるということを、彼女ははっきりと悟りました。




「私たちはみな、神様の愛に抱かれて永遠に生きていけるように、私たちの来世のために忠実に準備していかなければなりません。


ですから私たち人間は、肉体をもっているときに、内なる私が成長するように努力していかなければなりません!」




これがその修道女の一貫した結論です。


(2000年5月17日)





(2)カトリック教会を代表した神父と修道女



③ ある修道女の告白


人間には、それぞれ一生を通じて神様の前に捧げていくべき内容があり、またそれに応じた器というものがあります。


それは小さな器もあり、大きな器もあるでしょう。


人間は、それぞれの個性に応じた、神様の前になすべき役割を持ってこの世に生まれでくるのです。


それゆえ、人間のもって生まれた個人個人の姿自体は、どれもこれも神様にとっては喜びの対象です。


つまり人間は、生まれながらに神様の前に、なすべき役割をもって生まれてくるのです。


それがまさしく神様の創造なのです。




一生を修道生活の中で送り、神様の前に身も心も尽くしながら帰依してきた、一人の修道女の生活をここで紹介しましょう。




その修道女は、カトリック信徒の家系に生まれました。


彼女の父親は、彼女が生まれたとき


「修道生活を一生送らせます」


と、聖母マリヤの前に堅く誓約しました。


しかし、父親を除き、家族はみな彼女の修道生活に反対でした。


そのため彼女は、家族間の多くの葛藤の中で修道女として出発し、その後はすべての親戚から反対されながら、修道生活を送るようになりました。


彼らは折を見ては修道院を直接訪問し、そのたびに、修道生活を中断して平凡に生きるようにと彼女を説得し続けました。


それゆえ彼女の修道生活は、多くの困難の連続でした。




彼女は大いに葛藤した結果、ある日、修道院をやめて家に帰ることにしました。


正にその日、聖母マリヤが彼女に現れました。


マリヤ様は


「シスター!


あなたは私との約束を忘れたのですか。


私はあなたと約束するとき、主なる神様に、この女性の一生に責任を持ってくださいとお願いしました。


どんな険しい道であっても、行くべき道には、行くべき者がいなければなりません!」


と言って涙を流しながら去っていかれました。




その後、彼女は家族と親戚に、マリヤ様が現れたことを話しました。




「私のこの道は、主なる神様の願いですから、もうこれ以上、私の道を遮らないでください」


と、彼女はそのように勧告し、修道生活を本格的に続けることにしました。


家族は、一女性が主の願いにこたえていく険しい道を目の当たりにしながら、あまりにも胸が痛んで心残りで仕方がなかったのですが、もうそれ以上、彼女の修道生活の道を妨げないことにしました。




ところで、彼女には他の人とは異なる、神様直々の特別な恩賜と使命がありました。


彼女が主に祈りを捧げて至誠を尽くすと、主の聖霊の光とマリヤ様の恩寵の光が常に彼女に臨んだのです。


主とマリヤ様は、そのたびに彼女の使命の重要性を強調されました。




そのような中で彼女は、新しいみ言の恵みと神霊の役事によって、多くのシスターたちの前に、様々な奇跡を起こすようになりました。


しかし、カトリックの教理に凝り固まった信仰者たちは、新しいみ言の恵みと神霊の役事を受け入れず、彼女は少なからず葛藤しました。




ある日、マリヤ様が危うい病気で苦しむシスターの痛みをご覧になり、彼女に治してほしいと直々に願ってこられました。


しかし、カトリック教会の教えは、その聖霊の役事を受け入れませんでした。
しかし、カトリック教会の教えは、その聖霊の役事を受け入れませんでした。


彼女は、他の修道院に移っていくしかなかったのです。




状況が進展していくにつれて、新しいみ言と神霊の役事は、暗い道に追い込まれるしかありませんでした。


彼女は、大変厳しい修道生活を続けるようになりました。


老年期に至ると修道院を去り、さすらいながら、神霊の役事とマリヤ様の新しい真理のみ言を伝えて暮らしました。


そうしてその後、地上生活を整理し、こちらの霊界に来ることになったのです。




彼女はこちらで、主とマリヤ様のこの上ない愛を受けて過ごしていますが、地上で多くのシスターたちに、主の新しい真理を正しく伝達することができなかったことを、痛切に後悔しています。


彼女は、以下の内容をはっきりと伝えたいと言っていました。




「主の愛とマリヤ様の愛が、天地間のいかなるものも超越できる偉大なものであるということを、私はつくづく感じました。


律法とは、信仰生活において、人間の愛を完成するためのものであり、人間を拘束するためのものではありません。


律法を通じた人間の拘束は、神様の本来の願いではありません。


これからは、すべての修道者たちが、カトリック教会、プロテスタント教会、その他いかなる教派を問わず、各自がもっている教えの特性を生かしながら抱擁し合って一つになり、教派を超えた信仰姿勢に戻らなければなりません。


各教派には、共同の善が根底にあることを互いに認め、善悪の判断基準は、唯一、神様を中心とした一つの真理とならなければなりません。


全人類は神様の愛を中心とした血のつながった兄弟姉妹であるという事実を悟って、私たちの信仰姿勢を根本的に改めていかなければなりません。




そして永遠の世界に行ってから、神様の前にどのような生活をすべきかということを念頭におきながら、私たちの信仰の対象が唯一、神様であるということをはっきりと知らなければなりません!」




彼女はこちらで、常に謙遜な生活をし、マリヤ様の指示に従って過ごしたり、時にはイエス様に仕えて過ごしたりしています。


そして彼女は、修道女としての自らの位置を離れないように努力しています。


私は、彼女のそんな姿勢が美しくも思えるのですが、それよりももっと重要なことは、周りにいる同僚の信仰者たちの生活に、彼女が勇敢に飛び込んでいくことだと思います。


そして私は、彼女の正しい信仰姿勢を通して、プロテスタントやカトリック教会の信者たちが信仰の根本精神を広げていくことを切に願うものです。


(2000年5月15日)












(2)カトリック教会を代表した神父と修道女


② 誤った教派分裂



カトリック教会とプロテスタント教会は一様に、神様を信仰の究極的対象とし、神様の愛を中心として始まった宗教です。


そのような状況からいろいろな教派に分裂し、カトリック教会もプロテスタント教会も、いろいろな派閥に分かれてきたわけですが、それはきわめて誤ったことです。


このような教派分裂の原因は、主のみ言葉に対する、地上人それぞれの信仰観や人生観、世界観や宇宙観などに差があるためです。



しかし、彼らの信仰の対象は唯一、神様であり、その見解の根底にあるのは、神様の存在を否定する立場でなく、神様を認める立場です。

それにもかかわらず、カトリック教会、ギリシャ正教、プロテスタントにおける長老派、ホーリネス派、神様の立場から見れば、きわめてこっけいなことではないでしょうか。


すべての人類が一つの子女であるという立場から見るならば、教派分裂の現象は、神様の前に奇怪極まりないことです。


ここで私は、また別の神父の見解を表明することにしましょう。




彼は、教派分裂の実相を研究し、神学的な側面から、教派分裂に関する様々な次元の問題点を提示した人物です。




「この世界にはカトリック教会やプロテスタント教会だけでなく、他の多くの教派がある。


しかし、各宗教で究極的な信仰の対象としてあがめている神様は、それぞれ異なるものだろうか、同じものだろうか。


なぜ人間は、神様の存在を追及して、来世を慕い求めたり、気にかけたりするのか。


人間の本姓とは何か。


神様の属性は何か。


そして神様と人間の属性の差は何か」




彼はこのような問題に関して、長らく苦心してきました。




「国ごとに互いに異なる多くの宗教があるが、それらの究極的な目的は、一様に善を指向しつつ一つの共同体を形成することである。


このような脈絡からみれば、宗教とは人間生活にとって欠くことのできない必須のものである。


人間生活に及ぼす宗教の影響力は少しも軽んじることができない。


とするならば、その宗教的な欲求はどこからくるのだろうか。


なぜ人間は、宗教的属性からぬけだすことができないのだろうか。


人間の宗教的属性は、どこに由来するのだろうか。


人間は、なぜ神を慕って頼ろうとするのだろうか。


絶対的な神に頼らなくても何かに頼ろうとする人間の属性、たとえば海や川や木の前で手を合わせて拝みながら、現実的な困難を克服しようという人間の属性はどこから来るのだろうか。


人間は、常に完全な存在になることを追求しながらも、どうして不完全は存在のままで生きていくしかないのだろうか。


なぜ人間は、自分自身の生死の問題を自ら決定できないのだろうか。


なぜ大部分の人間は、明日を約束できない不安な状態で、一日一日を生きていくしかないのだろうか」



彼は、このような人間の現実的問題を抱えては、家庭を築いて生きていくことはできないと思い、修道の道を選びました。


しかし、一生を懸けて修道生活をしても、人間における現実的な問題を根本的に解決することはできませんでした。



「私たち人間は、神を見ることもできず、神と落ち着いて対話することもできないのに、神が存在すると言えるのだろうか」



彼は、修道生活をしながら、人生に関する様々な次元の懐疑を抱きました。


しかし、かといって、その生活をなげうって離れてしまうことはできませんでした。


これがその神父の地上の生でした。



彼は、地上で修道生活をしてきましたが、完全に疑問を解決することはできませんでした。


しかし彼は、霊界に来てから、そのことをはっきりと悟ることができました。




「各宗教ごとに仕える教祖は、それぞれ違っていたとしても、各宗教が地上であがめている神々は、霊界においては別々でなく、同一の神様である。


彼らの信仰の対象は、唯一無二の神様である」




ある日、数多くの人々の前で独りの人物が講義をしていました。


彼は、講義の最中に


「我々には神はない。


あるのはただ、我々自身だけだ!」


と言いながら、熱弁を振るっていました。


すると突然、四方が真っ暗になって雷がとどろき、竜巻が吹いてきました。


しばらくすると、真っ暗闇の暗黒は消え去り、きらびやかな光彩がさしてきて、雷のような声が聞こえてきました。




「主なる神が全人類の創造主であり、始めも終わりもない唯一の存在であることを伝えよ!」



その周りにいる人々は、わなわなと震えていました。


そして、先ほど熱弁を振るっていた人も、どこかに消えていなくなってしまいました。



そこで彼が悟ったことは、宗教は数え切れないほどたくさんあるが、神様をあがめる方法が異なるだけであって、私たち人間にとっては唯一、万軍の主があるだけだという事実です。


彼はその場で、自分の一生を懸けた疑問を完全に忘れ去り、ひたすら主なる神様をあがめることに力を注ぐようになりました。


彼は、自分のようにいろいろと悩んで苦心したすべての修道者たちに、私たちの究極的な信仰の対象はただ一つしかないという事実を、自信を持って伝えたいと思いました。


そして彼は、結論的に次のように強調しました。




「地上の教派分裂は、人間の誤った思考から生まれた産物です。


すべての人類が一つの神様だけをあがめるようになれば、教派分裂が起きることはありません。


人類の様々な宗教が統一されて初めて主なる神様は、安らかに過ごすことができるのです。


全人類が唯一の神様をあがめるときに、人類の平和が実現するのです!」



(2000年5月11日)







(2) カトリック教会を代表した神父と修道女


① ある神父の人生と告白



一般的に見ると、カトリック教会の礼拝儀式は、プロテスタント教会の礼拝儀式よりもはるかに厳かで神聖です。


そのためカトリック教会には、礼拝儀式や行事を通じて人間の心を浄化したり、教化したりする機会がたくさんあります。


そのような環境の中で、生涯ひたすら主に仕えて独身のままで生きてきた、独りの清廉な神父の神体験を紹介することにします。




彼は、家族方多くの蔑視と迫害を受ける中で、信仰の道を選びました。


彼は、幼いころから並々ならぬ心的苦痛を受け、非常に緊迫した精神状態で修道の道を選び、それ以降は、世俗的なことには少しも関心を示さず、ひたすら修業の道を歩んできました。


彼にとっては、神父としての修行の過程のみならず、すべての聖職生活が天涯孤独な生の連続でした。


家族がないわけではないのですが、家族の中には世話をしてくれる者も、訪ねてくる者もいませんでした。


彼の親兄弟はみな、関係が複雑でよじれていました。


そんな彼の聖職生活はひたすら主と共に同苦同楽する暮らしでした。




ところが、そのような修道生活の中で、彼はあまりにも思いがけない体験をしました。


修道生活は、世俗的なすべての因縁に対して節制していかなければ、決して続かない道です。


ところがある日、彼がぐっすり眠っていると、とても美しい女性が全裸の姿でやってきて、愛を要求してきました。


彼ははっと驚きながら、


「いったいどうしたのですか。


あなたは誰ですか」


と尋ねました。


よく見ると彼女は、同じ聖堂の修道院で、共に聖職者の道を歩む処女でした。


若い男女がこのような状況に直面すれば、生理的にどのようなことになるでしょうか!




ここで彼らは、主の前に罪を犯してしまいました。


それ以降、彼は彼の道に、彼女は彼女の道に進み、それぞれ別れていきました。


彼は、聖職者の道をあきらめようとしました。


彼は、


「主が人間を創造した目的は何か」


「人間はどれほど修道しなければならないのか」


という問題をめぐって非常に苦悩しました。


彼の心と体はずたずたになって、絶望と挫折感に包まれ、紙の直前にまで達しました。


このような境地の中で、彼は神様の愛を体験しました。




ある日、傷ついた彼が独り真っ暗な部屋の中にいると、その時どこからともなく、きらびやかな明かりが忽然と現れて、彼の心と体を包み込みました。


彼の心と体は平和と幸福のベールに優しく包まれ、夢なのか現実なのか区別できませんでした。


すると、その明かりの中から、慈悲に満ちた声が聞こえてきました。




「主なる神は汝を愛す。


それゆえ、主なる神が汝を愛したように、汝も全人類を愛すがよい。


主なる神は、アダムが独りでいるのはよくないゆえにエバを与えたのである。


今、汝は独りのように思っているが、汝は独りではない。


常に、主なる神が汝と共にあって、愛を与えているのだ」




彼は、夢のような幸福の坩堝の中で心身が新たにはぐくまれ、全く別人のように生まれ変わりました。


彼は、神様の愛が自分の苦痛だけでなく、全人類の苦痛と傷をきれいに洗い清めてくださるという事実を体験したのです。




それ以来彼は、神様の慈悲深い声を常に心にとどめながら、聖職者として人類を愛することに力を注ぎました。


そして彼は、修道院の規則を徹底して守りながら、聖職者の道を歩んで地上生活を締めくくりました。


その後彼は、霊界に来て、神様の永遠で無限な愛、そして神様と人間の宿命的な関係を体験しました。


そして彼は、人が独りで生きることは神様の本然の願いではないということを悟りました。


神様h常に人間の姿を見つめながら喜ばれるという事実、神様御自身も独りでいるときは決して喜ばれず、人間と共にあってこそ初めて喜ばれるという事実を、はっきりと悟ったのです。




しかし彼は、


「神様はエデンの園にアダムを造り、その配偶としてエバを造って、彼らが万宇宙に繁殖して満ちあふれるように祝福された。


それなのに、なぜ修道生活を願われたのか」


という疑問を解くことができませんでした。


彼は、何度も至誠を尽くして、神様に尋ねてみました。


そうして彼は、ようやく神様の願いを知るようになったのです。




神様の摂理が完全に成就するまでは、神父、修道女としての修道者の道が必要です。


しかし、神様が人間を創造した目的は本来、アダムとエバが夫婦となって子女を繁殖し、家庭を築き、社会、国家、世界を完成していくことにあったのです。


このことをはっきりと悟った彼は、今日の教皇庁や数多くの修道者たちが、本来神様が人間を創造した目的を理解することができたならば、どれほどいいだろうかと切実に思いました。




「修道者の道は、決して易しい道ではありません。


人生にこのような険しい道があるのは、神様の本然の願いではありません」




彼はこのように強調していました。


これがその神父の結論でした。



(2000年5月9日)








(1)プロテスタントを代表した牧師たち


③ 神様は万人の父母



人間は、父母を通して生まれるゆえに、自分の母親の姿を容易に理解することができます。


また人間はほとんど、天倫を通して共通的に流れる、父母の像というものを抱いています。


そうして、だれもが人間の生死や苦楽の問題という、肉身生活において避けることのできない問題を抱えており、だれもが喜怒哀楽という、肉身生活を通して経ていかなければならない必須の問題を抱えています。



ここで私たちは、肉身の親を超えて、人類の親としての神様の実存問題を考えざるを得ません。


人間ならば誰もが一度は考えざるを得ないのが、神様の存在に関する問題です。


私はまた、他の牧師を訪ねて神体験の話を聞いてみました。




彼もまた、すべての人間の共通する問題をめぐって、非常に悩んだ人です。


彼は、幼いころに両親と死別し、父母の愛をほとんど受けることなく孤児院で育ちました。


彼はその後、富裕な家門の養子になって、養父母のもとで幸福な生活を送りました。


しかし、肉身の親と霊魂の親、そして神様の存在に関する問題を解決することができず、彼は、数多くの悩みと煩悶を繰り返して神学の研究に入門しました。


そしてその後、並々ならぬ信仰生活を通じて、お釈迦様に相応するような人生体験を経て、彼は神様に出会いました。




神様は彼を呼ぶとき、常に名前では呼ばれませんでした。


「息子よ!


我は汝の父である」


と語りかけてこられました。


彼は神様から


「我が息子よ!」


と呼ばれる瞬間、誰からも感じたことのない特別な慰安感を体験しました。


その慰撫の声は、この世のいかなる親を通じても感じることのできない、温かく幸福で平和な情感をもっていました。


彼は神様に尋ねました。


「どうして神様が、私の父であられるのですか」


と。




「万軍の主は、すべての人間の創造主であり、万人の父である。


ゆえに、主なる神は父の中の父であり、汝は我が息子である」




天の父の温かく幸福な情感を、地上において実感してきた彼は、霊界に来てから、天の父の実態を無性に見てみたくなり、数限りなく祈りを捧げて至誠を尽くしました。


彼はその中から、神様が「体」をもって現れない方であるということ、そして神様が「体」をもつとすれば「万人の父」として登場することができないということを、はっきりと悟りました。




彼は地上で長らく神学を研究していましたが、神様が自分の親であるという事実を実感することができず、明瞭に確信することができませんでした。


しかし彼は、霊界での生活を通して、神様が自分の「永遠の父母」であるという事実をはっきりと悟るようになりました。


彼は、


「私の願いはかないました。


私は限りなく幸せで、限りなく恵まれた者です」


と言いながら、率直な告白をしました。


(2000年5月8日)






(1)プロテスタントを代表した牧師たち


②神様の永遠の愛



神様は、時間と空間を超越して現れたり、現れなかったりします。


これは、いくら人間に対する神様の愛が無限であったとしても、神様がいることのできない環境圏もあるということを意味しています。


これは、どんなに胸の痛むことでしょうか!




ここで私は、別の牧師の神体験を紹介しようと思います。


彼は、地上生活において、牧師になるまで長い間放蕩生活をしてきた人物です。


彼は青年期まで、神様の実存と信仰に対して関心すらもたず、人生の意義もほとんど分からないまま生きていました。


しかし、彼はその後、神様は実際に存在するかも知れないという考え方に変わりました。


それは、自分よりもはるかに不良な青年が、神様の愛を通して新しく生まれ変わり、誠実に生きていく姿を目撃して、深く感銘したからです。


彼は、その青年に尋ねてみました。


「神様のために生きる人生とはどのようなものですか。


神様とどのように出会ったのですか」


と。




彼の返事は非常に簡単でした。



「私は、神様の愛を悟りました。


でも、私が出会った神様をあなたに見せてあげることも説明することもできません。


しかし、私は神様の愛を確信して生きています」




彼は、その青年の実証的な生を目撃しましたが、それでも神様に対する信仰や人生の意義を深く悟ることができずに、無分別に生きていました。


しかしその後、彼は神様の愛を体験することになりました。




ある朝、彼は明るくさしてくる光のまぶしさに目覚めると、ひと筋の陽光が自分自身を照らしているのに気づきました。


するとその光の中から、


「まぶしくても、目を開けてこの光を確認してみなさい」


という神秘的な声が聞こえてきました。


彼が目を開けて見ると、太陽の光は見えずに、窓の外からさしてくるイエス様の十字架の光彩だけが見えました。


そして、その十字架の光彩のあとについて進んでいくと、非常にみすぼらしい家があり、そこに独り残されたかわいそうな老人の姿が見えました。


十字架の光彩は、そのあとで消えてしまいました。




彼が正気に戻ってみると、そのかわいそうでみすぼらしい老人は、ほかでもない彼が今までとても愛してきた父親でした。


こんなにも近いところで彼の父親が独り暮らしをしていたのに、彼は父親とは全く関係ないところで放蕩な生活をしていたのです。


彼は、消えてしまった十字架を思い浮かべ、心の奥底から悔い改めの涙がこみ上げてきて、聖霊に満たされる体験をしました。


長い歳月の間、彼の父親は苦痛の中で過ごしてきましたが、彼は、そんな父親をいたわりもせずに、放蕩生活をしてきた自分の過去を悔いました。


彼は、声の限りに主を呼び求めて、


「私の行く道を照らしてください!」


と祈りを捧げました。




するとその瞬間、


「神の愛は永遠である。


始めも終わりも、ただ愛のみである。


汝の兄弟を愛し、汝の隣人を愛しなさい!」


という神様の声が聞こえてきました。




その時から彼の人生観は、完全に新しく変わりました。


しかし、彼の周囲には彼を援助してくれる人も頼る人もなく、彼はひたすら祈りにすがるしかありませんでした。


そして彼は、まず自分の父親から愛そうという決心をしました。


当時彼の父親は、肉体がほとんど衰退し、人の手を借りて起き上がるのがやっとでした。


それにもかかわらず、彼の父親は彼を見つめて言いました。


「お前は私のもとを離れて、人類を愛し、人類を救いなさい」


と。




その時彼は、父親の愛と、神様の愛を通して、全天地を溶かし尽くすような痛みと苦痛を覚えました。


彼はその後、一人の友人を訪ねて


「力を貸してほしい」


と懇願しました。


するとその友人は彼を教会に導いて、神様の教えに触れさせてくれました。


その後、彼は教会の発展と神様のために、牧師としての道を進もうと決心し、神様の教えと愛をもって人類を愛する仕事に専念しました。




神様には始めも終わりもない愛だけがあるのですが、人間は、そんな神様の無限な愛をほとんど悟ることができずにいます。


それゆえに、神様の愛と人間の生が断絶してしまったのです。


このように、地上においても霊界においても、神様の愛は計り知れないほど無限で永遠なものです。


神様の愛は、目に見える形ではっきりと人間の前に現れることは多くありませんが、それでも神様は私たちをずっと愛し続けていらっしゃるのです。


ただ私たち人間が、それを誤認しているだけです。




神様は、彼が放蕩生活をしているときにも、彼が帰ってくるのを待って訪ねてくださいました。


そして神様は、霊界で彼の過去の罪を問い返すことなく愛していらっしゃいました。


神様の愛は、永遠なる愛であり、永遠なる幸福の礎です。


しかし人間は、愚かであるため、その事実を悟ることすらできずにいるのです。


これが彼の結論でした。


(2000年5月3日)






地上生活で神様を知ったその日から、私の生の方向はその一点に集中するようになりました。


しかし、私が地上で知った神様と霊界で会った神様とでは、その次元において途方もない差がありました。


つまり、地上生活で知ったのは、神様のごく一部分にすぎなかったということです。


このことは私だけでなく、他の聖人や聖徒たちも同様の体験をしていました。




(1)プロテスタントを代表した牧師たち



① 神様の同等の愛



私が霊界で定着したところは、神様と対話できる環境圏でした。


私はそこで、神様に関する研究を続けていました。


私はそのような研究過程を通して、他の人たちが体験した神様の姿を調べ、その事例を収集したいと思いました。


そのため私は、こちら霊界で数人の牧師に会ってみました。



その中の一人は、地上で一生、主に仕えながら聖職生活に専念した上で、こちらの霊界に来た人物です。


彼は、地上生活において神様に出会い、その後、神様の愛と聖霊を体験しながら、自分自身の病気を治したことがあります。


しかし彼は、神様の実存については、かなり漠然とした見解をもっていました。


神様はどこかにいたとしても、限定された空間の中では決して見出すことのできない、あいまいな存在であると思っていました。


しかし彼は、こちらに来て、初めて神様の存在をはっきりと知るようになりました。


彼は、ほとんどの人間は、神様の聖なる霊によって自分自身の疾病を治すことができると主張しました。


そして彼は、人間の疾病が、神様の聖なる霊によって治った実例を話してくれました。


しかし、時には人間の疾病が、神様の聖なる霊によっても治らない場合もあり、その理由について、彼はいろいろな次元から考えてみました。




そして彼は、神様が人間の疾病を治すことは、神様本来の目的ではないこと、そして神様はすべての人間を同等に愛していて、それが神様の根本的な愛であることを説明しました。




そして神様は、疾病が回復する人も、回復せずに霊界に行く人も、同等に愛していらっしゃり、前者は霊界よりも地上でなすべきことがたくさんある場合であり、後者は地上よりも霊界のほうに、重要ななすべきことがある場合であると言っていました。


後者は、地上生活という観点から見るならば、悲痛なことかもしれません。


しかし、永遠性という観点から節理される神様の立場から見るならば、前者も後者も共に重要であると彼は言っていました。


したがって、この牧師の結論によれば、人間を慈しむ神様の愛は、一般的な基準からは測ることも、判断することも、表現することもできないということでした。


(2000年5月1日)


人間は、父親と母親を通じて、この世に肉体をもって生まれ、父母の愛を受けながら生きていきます。


そうして、自分を生んでくれた親の愛を、限りなく尊く感じながら生きていきます。


そのような親の愛は、地上生活において、概して肉体的な感覚を通して経験することができます。


しかしその反面、神様の愛というものは、一般的に人間の肉体的な感覚によっては、ほとんど経験することができません。


そのため、人は神様の愛に関心をもたないで生きていくことが多いのです。




しかし実際のところ、私たちの全生涯において、親の愛よりも神様の愛のほうが、はるかに大きく作用しています。


ところがほとんどの人は、神様の愛とほとんど感知できずに生きているのです。



私は、地上生活をしながら、神様の愛をある程度まで悟ることができました。


しかし、私たち人間が考えているよりも、ずっと広くて深い愛を与えて下さっているという事実を、私は悟ることができませんでした。


私は肉身を捨てて霊界に来て以来、神様の愛を数限りなく体験してきましたが、それでもそのことがはっきりと分からず、どれほど長い間悔い改めてきたことでしょうか。


当時の私の心境は、文章ではとても表現し難いものでした。




人間が神様に仕えたり、祈ったり、切に願い求めたりするのは、神様について知らないからであると私は思います。


神様は、人間が必要とするすべてをあらかじめ知っていらっしゃり、人間が祈り求める前に、すべてを準備して待っていらっしゃるのです。


それはあたかも赤ちゃんが


「お母さん!」


と言わずとも、母親が、あらかじめ必要なものをすべて知って、準備して待っているのと同じです。




私は霊界で神様の声を聞いて以来、なぜか自分の足らなさと過ちを感じるようになり、何度も祈りを捧げました。


神様はそのたびに、


「アウグスティヌスよ」


と私の名を呼ぶばかりで、何も語られませんでした。




私がひざまずいてひれ伏すと、神様は何度も私の名をお呼びになりました。


「アウグスティヌスよ、アウグスティヌスよ」




そうして、しばらくすると神様は去っていかれました。


私が何も申し上げることができずに、ひざまずいて悔い改めの涙を流していると、


「お前の涙に私の心が痛む」


と語られ、それからまた去ってしまわれるのです。




私はそのことがあって以来、神様の前で泣くまいと決心しました。


それは、神様の心を傷つけないためです。


私が神様を体験したのはそれだけではありません。


私は、神様の愛をいろいろな次元から体験しました。




ある日、私は神様を紹介しようと、私が直接に体験した神様の姿について、ある人に熱心に説明していました。


「あなたも、神様に直接会うことができますよ」


と。




ところが何日かすると、私は神様に呼ばれました。


「『神様に会うことができる』と汝が説明していた者と、主なる神は直接会うことができない。


彼に代わって、汝が神の姿を証すがよい。


主なる神は、その者に会うには、まだ少し遠い距離にある。


主なる神が汝を愛するように、汝はそのものを愛し導かなければならない。


しかし、主なる神が『会うことができない』と言ったことは、その者に伝えてはならない」




神様は、はるかなる歳月の間、人間と共に住み、人間と共に喜び合うことを願ってこられました。


しかし、人間がその基準に達することができなかったために、人類を復帰しようとする神様の摂理はずっと延長してきました。


このような事実を想起するたびに、私の心は限りなくずきずきと痛みます。




私は誰にでも、自信満々に神様の姿を紹介することができます。


人間は誰しも、神様に直接会うことのできる心的基準を立てるために、努力を続けていかなければなりません。


私だけでなく、全人類が自らの心を啓発し、自らの信仰姿勢を正しく定立できる日が、一日も早く訪れることを切に祈るばかりです。


(2000年4月29日)




(2)神様のいらっしゃる所



偏在され、全知全能なる神様は、人間の一般的な思惟形式では決して判断できる方ではなりません。


そして神様は、常に人間の胸中に内在して、すべての生活領域で人間と共にありたいと願っていらっしゃるお方です。


しかし、私たち人間が神様と一つになれなかったことによって、神様のその念願は実現しませんでした。


神様が常に父母の心情を持って人間に訪れてきても、人間はそのような神様を迎えることができず、神様が常にそばで保護してくださっても、人間はそのような愛を体恤することができなかったのです。


はるかな歳月の間、神様は限りない愛で人間を抱き、優しく包むように見守ってこられましたが、人間はそのような愛を体験することができませんでした。


これが神様の悲しみと人間の悲劇の根です。




私は、地上で肉身をもって生きていたとき神様の愛をある程度体験したことがありました。


しかし、その当時に私が体験した神様の愛は肉感的なものであり、私が霊界で体験した神様の愛とは全く次元の異なるものでした。




ある日、人間アウグスティヌスが神様に祈りを捧げながら、


「常に神様と共にありたい」


と思っていると、静かでかすかな明かりが出現すると同時に、


「アウグスティヌスよ、聞け!」


という声が聞こえてきました。




「主なる神は、今まで汝と共にあったし、今後も常に共にいよう。


しかし汝は、主なる神が隣にいながらも、常に主なる神を探していた。


それは、汝が主なる神と常に一体となっていなかったからである




「どうしたら神様と一体となれるのですか」


と私が尋ねると、神様は答えずに、美しい明かりで私をしばらく包み、その後どこかに行ってしまわれました。


私は、神様から答えを得るために、かなりの期間祈り求めました。


すると、ある日、再びきらびやかな明かりが忽然と現れながら、神様が語られました。




「汝は汝でしかない。


汝は主なる神となるために、


どのくらい努力したのか」




「神様、私はそのために多くの努力をいたしましたが、私が神様のようになるということが、どのような境地に至ることなのか、容易に感じることができません」




「アウグスティヌスよ、汝自身を捨てよ!


そして汝の心を入れ替えよ!


そして常に汝に汝の胸中に主なる神が共にあるように、汝の心を啓発せよ!」




神様は、すべての人間の心に住みながら、人間と共に生活することを願っていらっしゃいます。


しかし、私、アウグスティヌスの祈る心、考える心、相手を記憶する心には、自分を中心とした欲望、すなわち利己心でぎっしりと埋まっていました。


そのため、神様が常にとどまろうとしても、私の心にはとどまることのできる家がなかったのです。


私は霊界において、その点をつくづく実感しました。




私の心には、いまだにそのような欲望が渦巻いています。


私たち人間は、心から利己的な欲望をすっかり捨ててこそ、初めて神様に出会うことができるのです。


私はその日のために、今でもずっと努力し続けています。


(2000年4月28日)


すると、雷がたちまち消えて、春の日のはるかな野原の陽炎のような、きらきらと輝く宝石のごとき明かりが暖かくさしてきました。


その明かりはあまりにも美しく、神秘的で、触ってみたくなるほどでした。


ところが、きらきらと輝くその明かりは、巻き貝状にくるくると回って、瞬く間に消えてしまいました。


そして、消えたかと思うと、また再び現れ始め、また消えたかと思うと・・・・・・。


このような現象が何度も何度も続いたあと、それは五色のきらびやかな色合いに変化して、竜巻のようにぐるぐると回り始めました。


その隣にはきらびやかな花火が空一面に上がり続け、その隣には華やかな虹が美しく輝いていました。


全天地は、きらびやかな光彩で満ち溢れていました。


またその一方では、きれいな綿雲の間から、一筋の光のような光彩がひそやかにさしていました。


実際、神様のこのような姿を、何らかの形で表現しようとすること自体、不可能なことであるということを、私はよく知っています。




私は、あまりにもまぶしくて、このような壮観をまともに眺めることができず、魂が抜けたようにただ呆然としていました。


そのとき突然、、


「頭を下なさい!」


という大きな声が聞こえてきました。


そうしてしばらくすると、


「我が姿を見たか。


主なる神は、そのように頭を上げて見つめることのできる方ではない」


という声が、またしても聞こえてきました。


私は頭を下げてひざまずき、ひれ伏して


「神様、申し訳ありませんでした。


申し訳ありませんでした


と何度も言いながら、自分の姿をたどり始めました。




私はそのような雰囲気の中で、地上生活では一度も体験したことのない、恍惚たる平和な心の境地を初めて経験しました。


そしてそのような心の境地を通して、いかなる困難も克服でき、いかなる問題も解決できる、という自信をもつようになりました。


私は、全生涯を通して、そのような恍惚たる気分を感じたことも、聞いたこともありませんでした。


その幸福感と自信感は、言葉ではとても表現することのできない驚くべき体験でした。


そしてその光彩の中では、私の過ぎし日の、過ち、悲しみ、羞恥、憎悪、挫折、不信、そしていかなる苦痛や喜びも、解けていくような感じがしました。


それは、ずべてを溶かすことのできる「溶鉱炉」とでもいうことができるでしょうか。




私は、神様の多様な姿をもっと具体的に表現したいのですが、私の表現力の足りなさゆえに詳細に説明することができないことを、正直いってこの瞬間感じています。


ただ、はっきり言えるのは、私の経験した神様の姿が、数千万ボルトの美しくきらきらした明かりで、私たち人間を優しく包んでいらっしゃるという事実です。


そして、個人個人の姿によって神様は「いろいろなパターンで、私たちにやってこられるという事実です。


(2000年4月27日)