さて、先に魔改造電車の419系と比較するために購入したクハネ581形。
そのクハネ581とセットだったクハ86形にようやく手を付ける時がまいりました。
こちらはいつものBトレインショーティーなので部品点数が少なくサクっと完成です。
手持ちの80系電車と並べてみました。
このクハ86形を含む国鉄80系電車は「湘南電車」として1950年から1959年にかけて実に652両も製造されています。
そもそもクハ86形っていうと右端の湘南顔の2枚窓しかイメージが無いんですよね~
それもそのはずで3枚窓のクハ86形は1949年に製造された1次車の20両だけなんですね。
その後製造されたクハ86021~は正面2枚窓のいわゆる「湘南電車」スタイルなんです。
1949年(昭和24年):クハ86001~クハ86020
1950年(昭和25年)~1955年(昭和30年):クハ86021~クハ86084
1956年(昭和31年)~1957年(昭和32年):クハ86100~クハ86142
1957年(昭和32年)~1958年(昭和33年):クハ86300~クハ86373・クハ86375
100番台は東北・高崎線用に耐寒設計とシートピッチ変更。300番台は全金属車になります。
車体の湘南電車塗装はウインドウシル/ヘッダーの位置関係から(300番台はシル/ヘッダー無し)塗り分け線が異なっていたようですね。
その他にも正面の塗分けRが若干違っていたり配属先管理所の采配で塗り分け線を変えていたようです。
さらに車両数も多いので異端な車両も存在します。
特にクハ86で最初の2枚窓車となったクハ86021・クハ86022の2両は台枠が3枚窓車用を使用したので前面鋼板の合せ目がなくて3枚窓と同様に曲面な顔をしています。
その後、他の車両も1950年台後半から車体更新工事がはじまって木枠だった正面窓ガラスのHゴム化等が進みます。
しかしクハ86059・クハ86060の2両だけは更新工事を受ける前に中京地区へ転属してしまい更新工事の機会を逃してしまいました。その後、山陽地区へ転属して更新工事を受ける1970年台前半までずっと木製枠の正面2枚窓だったんですね。
80系電車はそれまでの機関車が客車が引く列車形態から初の電車化という事で多くの苦労があったようです。
特に試運転時の1950年に保土ヶ谷~戸塚間で架線切断による火災事故でクハ86017+モハ80027が焼失してしています。
その後、2両共に大井工場で無事復旧はしているんですが、他にも初期故障が多く「遭難電車」などと揶揄されたようです。
さて、今回製作した京都鉄道博物館保存のクハ86001ですが、1950年(昭和25年)に日立製作所で製造されました。
田町電車区に新製配置され新前橋電車区へ貸出されたのち岡山・広島・下関と転属して1977年(昭和52年)廃車されています。
当時、車両保存に理解のあった関係者の判断で保存先が決定していないにも関わらずモハ80001と一緒に柳川駅構内で保管されていたんですね。その後1986年に大阪は弁天橋にあった交通科学館にて保存され2016年に京都鉄道博物館へ移設されています。
一世を風靡した2枚窓の「湘南電車」は1両も保存されることが無くてこの3枚窓の車両が保存されているのも不思議な縁ですね。
この元祖「湘南電車」登場当時は電車では世界最長最大となる16両編成で東海道本線(東京口)で運転を開始しています。
しかも戦前から修善寺への直通運転を行っていたので準急「あまぎ」「いでゆ」として駿豆線へ付属編成が乗り入れています。
←大阪 東京→
郵便荷物車(クモユニ81)+基本編成(10両)+付属編成(5両)
この時の基本編成は10両が4M6Tの構成なんですが、なぜか?付属編成5両が2M3Tの構成なんです。
どうして付属5両が2Mも必要だったのか?と思ったら・・当時入線していた駿豆線はまだ600Vだったんですね。
一部乗り入れだけの為に高価な複電圧装置を装備しないで最低限の改造で済ませる電圧切替装置だけを搭載してんです。
まず600Vと1500Vのデッドセクション区間に1両だけM車のパンタグラフを下げて進入します。
600V区間に進入したM車は電圧切替を行ってパンタグラフ上昇、そしてもう1両も同様にパンタグラフを下げて進入させ
同様に電圧切替後にパンタグラフ上昇させたんですね。
まさにこれは旧型電車だから出来る裏技的な運用だったんです。
その後、駿豆線は1500Vに昇圧してからは乗り入れ車両も153系に代わり切替の必要もなくなりました。
そしてこの80系電車は1960年台の首都圏を中心とする電化延伸工事の完成によって随時、新製配置や転属により日本全国で活躍することになりました。
この時代ならではの面白い運用があったのでご紹介します。
ひとつは長野原線(現:吾妻線)へ乗り入れしていた高崎鉄道管理局です。
準急「草津」運用では153系の上越「いでゆ」に併結して上野~渋川間を土日運転されました。
渋川からはC11+控え車兼電源車(オハユニ71形)+80系4両編成で運転されています。
※153系は電磁直通ブレーキ機能を停止して全編成自動ブレーキのみで運転、特殊ジャンパー連結器を使用していました。
もうひとつは房総方面で夏季輸送を行っていた千葉鉄道管理局です。
新宿(下り中野)~館山間を臨時準急「白浜」で運転されました。
稲毛からはDD13重連+電源車(クハ16形)+80系6両編成でした。
その後153系4両編成の臨時準急「汐風」になり機関車の付け替えは千葉駅に移りました。
この80系電車は準急・急行電車として全国で活躍したんですよね。
1957年には東京~大垣・名古屋を結ぶ準急「東海」、名古屋~大阪・神戸を結ぶ準急「比叡」
1958年には上野~水上の準急「ゆけむり」をはじめ、上野~前橋「あかぎ」、上野~越後湯沢「苗場」、上野~長岡「ゆきぐに」、上野~宇都宮「ひたあら」、上野~日光「だいや」、上野~黒磯「しもつけ」でも活躍。
1962年には信越本線電化完成で上野~新潟を結ぶ準急「弥彦」「佐渡」
1965年には準急「富士川」「伊那」にも投入されています。
その後1966年には100kmを超える準急はすべて急行となって継続運転されましたが随時165系等に置き換えに追われます。
それでも1973年に中津川~塩尻間電化完成でキハ58に置き換わり急行「天竜」に運用されています。
しかし1977年になると余剰老朽化と機器整備合理化から一気に廃車が加速。
1978年には急行「天竜」の運用も終了します。
最後は旧型国電の王国だった飯田線(豊橋口)で余生を過ごしていましたが119系に置き換わり1983年に営業運転終了となりました。
それでも仲間であるクモニ83は翌1984年まで旧型国電と共に最後の最後まで運用されていたのは面白いですね。
もうすっかり最近は作るよりも経歴を調べてはドンドン深みにハマって困っています。
手付かず状態の車両が増えていくばかりですなんですが・・
まぁ~作ってしまうと走らせる事も無いので終わってしまうので、
こういう楽しみ方もまたいいんじゃない?と思う今日この頃なんです。(笑)