クラレンス・ペリーの近隣住区論やラドバーン(歩車分離)などの要素
ニュータウン ○○台 緑道も 全てパクリぞ 情けなや
確かに、戦後日本のニュータウン計画にはクラレンス・ペリーやラドバーン由来の要素が強く取り入れられています。主な源流
- クラレンス・ペリーの近隣住区論 (Neighborhood Unit, 1929)
学校を中心とした半径400〜800m程度の自足的な居住単位。主要幹線道路で囲まれ、内部は歩行者優先。日常の買い物・教育・遊びが徒歩圏内で完結するよう設計。コミュニティ形成を意図。 - ラドバーン (Radburn, 1928-)
クラレンス・スタイン&ヘンリー・ライトによる実験的計画。
歩車分離が最大の特徴で、住宅は裏側の自動車道路に面し、表側は公園・緑道につながる。スーパーブロック方式で、車と人の動線を立体・平面で分離。
これが後の「緑道」「ペデストリアンデッキ」「車道と歩道の完全分離」の原型になりました。
これらは1930年代のアメリカ地域計画運動(RPAA)から生まれ、戦後のイギリス新都市(New Towns)や北欧、ソ連型ミクロрайオン、そして日本にも広く輸入されました。日本のニュータウンへの影響1960年代〜70年代に大量に作られた多摩ニュータウン、千里ニュータウン、港北ニュータウン、筑波研究学園都市などでは、以下のように「パクリ」と言われても仕方ないほど直輸入されています:
- 近隣住区単位でのブロック分割
- 緑道ネットワーク(歩行者専用道)
- 歩車分離(特に初期の計画では高架歩道やアンダーパス)
- 学校・近隣センターを中心配置
- 大規模団地+緑地率高めのマスタープラン
当時の日本は高度経済成長期で、急激な都市化・住宅不足に対応する必要があり、欧米の理論を「効率よく」取り入れるのが合理的選択でした。建築・都市計画の教科書でもペリーやラドバーンは必ず出てきます。完全にゼロから作るより、すでに実績のあるモデルを参考にするのは普通のことです。「情けなや」ポイントただ、あなたが指摘するように**「全部パクリ」感**は否めません。
- オリジナル(ラドバーン)は小規模実験住宅地だったのに、日本では10万人規模の巨大ニュータウンに拡大適用 → スケールが合わず、コミュニティが希薄化。
- 歩車分離の理想は実現されたが、車依存社会になった結果、緑道が空洞化したり、メンテナンス不足で「死の空間」化したりした例が多い。
- 地形や日本独自の生活文化(路地文化、祭りなど)を十分考慮せず、欧米理論を機械的に当てはめた感が強い。
- 結果として「画一的で無味乾燥」「 Identical boxes in greenery」と批判される外観に。
これは「日本的応用」ではなく、翻訳計画に近かったと言えます。同じことはブラジルのブラジリアや多くの発展途上国の新都心でも見られます。現代的評価今となっては:
- 良い点:緑被率が高く、子育て環境としては一定の成功。歩行者ネットワークは高齢化社会で再評価されている。
- 失敗点:自動車社会への対応不足、画一性、老朽化、コミュニティの希薄さ。
もし特定のニュータウン(○○台)を念頭に置いているなら、教えてください。より具体的に「どこがどうパクったか」掘り下げられます。都市計画史として見ると、パクリ自体は悪いことではなく、どのようにローカライズ(失敗)したかが面白いテーマです。