親父と息子の口喧嘩

親父と息子の口喧嘩

ある親父とある息子が、社会の色々な事柄について論じます。
こんなことを考えている親子もいるのかと、ぜひぜひ少し覗いてくださいな。

 

 

 

 

難波の宮遷都

何故に 難波に都 移せしや   大和打ち捨て 海の辺に行く

 

難波宮への遷都(主に前期難波宮)は、大化の改新(645年)の象徴的な出来事です。

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主な歴史的背景(孝徳天皇時代・前期難波宮)

  • 645年の乙巳の変で蘇我氏の本宗家が滅ぼされ、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足らが孝徳天皇を擁立。
  • これを機に大化の改新が始まり、飛鳥(大和)から難波(現在の大阪・上町台地)へ遷都。
  • 難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)と呼ばれ、652年頃に完成。日本史上初の本格的な宮殿建築(明確な中軸線・広大な朝堂院など)で、平城京の大極殿を上回る規模だったと言われます。

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なぜ難波へ? 主な理由

  1. 政治改革の象徴と心機一転
    蘇我氏の影響を排除した新体制をアピールするため、天皇の権威を体現する巨大な新都を造った。隋・唐のような中央集権国家を目指す「国づくり」のシンボル。

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  2. 交通・外交の要衝
    難波津(なにわのつ)は古くから瀬戸内海航路の玄関口。国際貿易・外交使節の窓口で、渡来人や倉庫群が多く、経済・物流の拠点だった。内陸の大和より大陸(唐・百済など)とのつながりが強く、改新政権の国際的視野に合っていた。

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  3. 当時の慣習
    天皇一代ごとに新しい宮を営む習慣があり、政権交代後の新都建設は自然な流れでもあった。

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歌の「大和打ち捨て 海の辺に行く」は、飛鳥の伝統的な内陸政治から、海に開かれた新時代への移行を象徴的に歌ったものですね。実際には完全に「捨てた」わけではなく、後に飛鳥に戻る時期もあり、天武天皇時代には複都制(飛鳥+難波)も採用されました。

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後期難波宮(聖武天皇時代)744年頃に一時的に首都となった時期もありますが、短期間で紫香楽宮などへ再遷都。副都・陪都としての役割が強かったです。難波は大阪のルーツの一つで、現代の「水の都」の原型でもあります。跡地は今も難波宮跡公園として保存・公開されています。興味があればぜひ訪れてみてください!