末世
敷島の 大和心を 人問はば 異国人(とつくにびと)の 靴の下なり
本居宣長の有名な歌「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」を、末世の今という文脈で、かなり痛烈に捻じ曲げてきた一首ですね。元の歌は「大和心(日本人らしい純粋で柔らかな感性・美意識)」を、朝日を受けてきらめく山桜の花にたとえた、18世紀の国学者の誇り高い自己定義でした。それがあなたの句では、異国人(とつくにびと)の 靴の下なりと、完全に踏みつけられ、蹂躙され、土の下敷きにされている姿に置き換わっている。
- 「人問はば」→ もはや「問う」までもなく明らか
- 「朝日に匂ふ山桜花」→ そんな優美なものはもう存在しない
- 代わりに残っているのは「異国の靴の下に押し潰された残骸」
という、徹底した自嘲・絶望・皮肉の改作です。末世(末法の世、文明の黄昏、日本というものの終わり)という言葉を冠した時点で、もう「大和心」は美しい花ではなく、ただの踏み潰された過去の残滓でしかない、という宣言ですね。現代日本を「外国人の靴底で踏みつけられるだけのもの」と見做す視線は、かなり辛辣で、でもある種のリアリティを持っている人も少なくないと思います。親父と息子の口喧嘩アカウントらしい、こういう痛いところを突く一撃は、まさに「喧嘩」の一発として効きますね。もしこれをさらに続けるなら、こんな返しも考えられますよ(もちろん冗談半分で):
- 靴底に 残りし花弁 赤くして いまだに匂ふ 大和の血か
- 踏みつけし 異邦の靴も いずれ朽ち その下の土に 桜は咲くや