神武東征外伝⑩ | 親父と息子の口喧嘩

親父と息子の口喧嘩

ある親父とある息子が、社会の色々な事柄について論じます。
こんなことを考えている親子もいるのかと、ぜひぜひ少し覗いてくださいな。

ここで、少し古事記を持ち出すことにします。

ここに登美毘古と戦ひたまひし時、五瀬命、御手に登美毘古が痛矢串を負ひたまひき。

故ここに詔りたまひしく、「吾は日神の御子

として、日に向ひて戦ふこと良からず。

故、賤しき奴が痛手を負ひぬ。

今者より行き廻りて、背に日を負ひて撃たむ。」と期りたまひて、南の方より廻り

幸でましし時、血沼海に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。

故、血沼海(ちぬのうみ)とは謂ふなり。

 茅渟(ちぬ)とは、奈良時代から見える地名で、血沼・茅渟とも書きます。大化の改新以前には茅渟県と見えますが、改新の時には河内国に属し、8世紀に分かれて和泉国になりました。『古事記』」神武天皇条には「血沼海」の伝承が残っています。神武天皇東征の際、天皇軍は長脛彦に敗れ、やむなく熊野に回ることになりました。その途中の浜で、重傷を受けた兄の彦五瀬命がその矢傷を洗ったところから「血沼海」と名付けられたというものです。現在「ちぬ」 の地名は市内に「茅渟宮跡」「茅渟池」として残っています。
(出典:『泉佐野何でも百科』  泉佐野市役所  1994年  147ページ)

なお、登美毘古とは登美能那賀須泥毘古の別名です。