
作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが亡くなったことを受けて、これまで交流のあった人たちからの追悼などの声をまとめました。
出身地の徳島市にある寂聴さんの実家の仏具店を経営している親類の宮本祥子さんは「いつまでも来ないと願っていたこの日が来てしまった。およそ40年にわたってかわいがってもらった。私たち家族を愛してくれてありがとう」とコメントしています。
2014年までの10年間、瀬戸内寂聴さんが館長を務めた出身地の徳島市にある徳島県立文学書道館の現在の館長で、40年にわたって親交があった富永正志さんは「最近はかぜをこじらせて入院していたと聞いていたので、心配していました。来年は生誕100年を迎える予定だったのでとても残念です。徳島県の出身者で最も有名な人のひとりだと思うので、『徳島の顔』を失ったという思いです」と話していました。
そのうえで「非常に快活で、気さくな人でした。自分の信念に従って自由奔放に生き、人の何倍も生きて何倍も本を書いたと思います。小説を書くことが本当に好きでしたが、瀬戸内さんと同世代の作家たちは亡くなっている人も多いので、その人たちとの再会を喜んでいるかもしれません。『長い間お疲れさまでした、ゆっくりとお休みください』と伝えたいです」と話していました。
雑誌の元編集者として60年以上前からつきあいがあったというノンフィクション作家の澤地久江さんは「100歳をすぎても生きてほしいと願っていました。寂聴さんは作家としての仕事や、恋に熱心に打ち込んだほか、子どもや孫などの家族と親しくにぎやかに過ごされていました。『人生の答え』とも言えるものを手にされたように思います」と話していました。
そのうえで「晩年は憲法改正の議論について国会議事堂の前に立ち演説を行うなど、仏門に入ったあとも臆することなく、一貫して政治的発言を繰り返していました。ひとりの存在として見事だったと思います」と述べていました。

雑誌で対談を行うなど交流があった、作家で日本ペンクラブの会長の桐野夏生さんは「謹んで哀悼の意を表します。瀬戸内寂聴さんには日本ペンクラブの会員として、平和のため、そして表現の自由を守るため、様々な場でご発言をいただきました。あらためて寂聴さんの思いを引き継ぎ、活動を続ける決意です」と、日本ペンクラブとしてのコメントを発表しました。
SNSには、多くの追悼のことばや、これまでの活動に対する感謝のコメントが投稿されています。
ツイッターに寄せられた投稿は「寂聴さんの話は最高に楽しい。もう元気なお声は聴けないのか……」とか「自分の人生を自分の思うように生ききった様は称賛に値するし尊敬する」「源氏(物語)を読むきっかけになった人」「毎朝ラジオで寂聴さんのお言葉いただいていたのに残念」などの寂聴さんの死を悼むコメントのほかに「瀬戸内寂聴さんの著書を読み言葉に支えられてきました。これからも私の中に残ります」「私高校のときもうやだ死にたいってなったとき瀬戸内寂聴さんの新聞のコラムに助けられたんだよね。ありがとうございました」「毎朝の元気になるお言葉が聞けなくなり、とても寂しいですが、お言葉を胸に頑張ります!今までありがとうございました」「1度法話を聞きにいかせてもらいました。凄くあたたかくてためになって心が安らいだのを 今でも覚えています」といった、寂聴さんのことばや活動への多くの感謝のコメントが寄せられています。

自身が司会を務めるインタビュー番組への出演などで交流があった黒柳徹子さんは「みんなの味方が、亡くなった。こんなことまで書いちゃうんだ!という小説家が、尼さんになった。尼さんになっても『書いちゃおうかな』と言って書いていらした。100歳近くまで尼さんで、説法しながら恋愛小説を書く。日本は面白い国だと思う。でも、もうお会い出来ないと思うと悲しい」とコメントしています。

瀬戸内寂聴さんと20年近く交流がある、福島県三春町の寺の住職で、芥川賞作家の玄侑宗久さんは「とにかく元気で『明るく元気なお坊さん』としての姿が多くの人を励ましたのではないか。いろいろなことを考え、意欲を持って晩年まで創作し続けたのはすごいことだ。その寂聴さんでも不死身ではなかったのかという思いだ」と話していました。
そのうえで「瀬戸内晴美さんの時代から、出家して瀬戸内寂聴さんとなったことで『過去が変わる』体験をされたと思う。『過去の事実』は変わらないが『過去の思い出のベール』は変わっていく。出家されたことで、人生はいつからでもやり直せるということを身をもって示したのではないか。多くの人の前で『死んだらどうなるのか、私が行って確かめて知らせる』と話していたので『そちらの様子はどうですか?』と聞いてみたい」と話していました。
瀬戸内寂聴さんは、東日本大震災から6か月後の2011年9月、東京電力福島第一原子力発電所の事故で全村避難となった福島県飯舘村の人たちを前に、避難先の福島市で法話を行いました。
このとき法話を聞いた飯舘村の菅野允子さん(76)は「避難したばかりで、みな不安ばかりでしたが『人生いろんなことがあるけれど悪いことは続かない。いいことが来るのを待ちましょう』と穏やかに語りかけていただき、私も含め皆さん涙を流して聞きました」と話していました。
菅野さんは法話のあと寂聴さんからブレスレットを贈られたということで、「とてもうれしく、きっといいことがあるなと思ってきました」と話していました。
そのうえで「避難をしていたころも今も、寂聴さんの存在が、心の支えになっていて、いらっしゃるだけで力をもらえていました。100歳まで生きてくださると思っていたので非常に残念です」と話していました。
瀬戸内寂聴さんは、平成19年に京都市の名誉市民に選ばれました。
毎年、寂聴さんの誕生日に合わせて訪ねていたという京都市の門川市長は「ことしはお会いできず、代わりに花を贈ると、『寂聴』と書いたお酒をくださいました。お酒が大好きで、人との出会いや京都の魅力を話していただき特に源氏物語の話になると止まらなくなるなど、とても魅力的な方でした。いつまでも生きていらっしゃるような雰囲気があり、厳しい病も克服されていたのでとても寂しいです」と別れを惜しんでいました。
長年の親交があった、歌手で俳優の美輪明宏さんは、NHKの取材に対し「瀬戸内さんは大正時代から理不尽な戦争、そして戦後の変容など同じ時代を一緒にくぐり抜けた仲間で、そういった存在がまた1人いなくなってしまったことに複雑な思いです」と心境を述べました。
そのうえで「本当に無邪気で烈女の生き残りのような方でした。私にとっては身の上のことも含めて何でも包み隠さずに話ができる存在でした。人の手助けをするのが大好きで、だからこそ多くの方々が相談に訪れたのだと思います。縦横無尽に、生きたいように生きた人生で、十分満足しているのではないかと思います」と話していました。
松野官房長官は、臨時閣議のあとの記者会見で「瀬戸内さんは、女性の生き方を真正面から問う小説家として、文筆活動で大きな功績をあげられるとともに、流れるような文体で源氏物語の現代語訳を完成させるなど日本文化に多大な貢献をなされた」と述べました。
そして「51歳で出家されたあとには僧侶として、講話などを通じ、悩む方々の思いに広く耳を傾けられるとともに、社会的な活動にも力を注がれた。心から哀悼の意を表したい」と述べました。