
大阪・池田市の大阪教育大学附属池田小学校で起きた、殺傷事件。
突然、刃物を持って学校に侵入してきた男に、1年生と2年生の児童8人が殺害されました。
社会を震撼させた事件から、きょうで20年。
あの日学校にいた子どもたちも、今や社会人です。
あの日、何を目撃し、その後の人生をどう歩んでいるのでしょうか。

当時、小学2年生だった中原康輔さんは、いま28歳。
20年前、事件が起きたのは、2時間目の授業が終わってすぐのことでした。
授業の終わりを知らせるチャイムが突然途中で切れ、校内放送に切り替わりました。
「刃物を持った男が侵入!」
怒鳴り声のような声が放送から聞こえてきました。
その声のあと、中原さんは教室の前側のドアから見知らぬ男が入ってくるのを目撃します。
宅間守元死刑囚です。
次の瞬間、同じクラスの女の子が刃物で刺されました。
担任の教員が「逃げろ!」と叫んでいるのを聞き、運動場にいちもくさんに逃げました。
突然の出来事に、中原さんは何が起きたのか理解できませんでした。

中原さん
「最初は何が起きたのか、訳が分かりませんでした。運動場に着いて、とんでもないことが起きたという感情がふつふつと沸いてきました」
運動場に避難した中原さんはある行動を取ります。
刺された女の子のことが心配になり、助けようと教室に戻ったのです。
中原さん
「自分の恐怖よりも、友達が刺されたのが心配で、助けに行かなければと体が動きました。教室の前に行くと、血だらけの女の子と先生がいました。でも先生に逃げなさいと言われて」

事件では1年生と2年生の児童8人が殺害され、児童13人と教員2人がけがをしました。
女の子は一命をとりとめましたが、中原さんは、あのとき友達を助けることができなかったという思いを胸の奥に抱え続けてきました。
高校生になって将来の進路を考えたとき、事件のときの、あの光景がよみがえりました。
中原さん
「医者になる理由、なりたい理由を自分のなかで探したときに、一番最初に出てきたのは事件のときのあの光景でした。事件のときの女の子のような子が目の前にもし現れたら自分が助けたい。助けられるようになりたいと思いました」
中原さんは、医師になることを決意しました。

現在は大阪市立大学医学部附属病院で研修医として働く中原さん。
「子どもたちを助けたい」と、小児科医を目指して、勉強する日々を送っています。
ことし3月には救急病棟で新型コロナウイルスの重症患者の治療にあたりました。
比較的若い人たちが必死の治療にも関わらず、相次いで亡くなる現状を前に大きなショックを受け、改めて命について考えさせられました。
中原さん
「あの事件のことを思い出すたびに命の大切さというのは何なのかなと考えます。座っている席が違えば自分が亡くなっていてもおかしくなかったと思います。自分の命は、助かった命で、その後いろんな人に助けられて育ってきた命なので、次の命に役立てていきたいと考えています」

渡邉怜奈さん(27)は事件当時、小学2年生でした。
2時間目の授業のあと、教室のなかを歩いていると、突然、男とぶつかります。
最初は「誰かのお父さんかな?」とも思いました。
その男は、学校を襲った宅間守元死刑囚でした。
恐怖心と違和感を覚えた渡邉さんは、何が起きているのか理解できないまま、廊下に逃げました。
階段の前まで走ったあと、顔を上げると教室の窓から中が見えました。
担任の先生が男に椅子を投げつけていました。
逃げるとき、けがをした子どもを抱えた教員のスーツに血が付いていたこともはっきりと覚えています。
渡邉さん
「あのときぶつかったのが宅間守だと分かり、よくよく考えると自分が被害にあっていたかもしれない、とても怖いなと思いました」
事件からしばらくたったあと、渡邉さんは新聞やテレビに同級生たちの写真が映っているのを見つけました。
母親に理由を尋ねると「綾乃ちゃんにはもう会えないんだよ」と言われました。
幼なじみの森脇綾乃さんが亡くなっていたのです。
「何泣いてるの!泣いたらあかんで!」と泣き虫だった渡邉さんをよく励ましてくれた綾乃さん。
元気で明るく活発な子でした。
幼稚園も同じで、小学校に入ってからも、一緒に通学し、休み時間にともに過ごしていたのに。
もう会えない、もう遊べないと思うと、悲しくて涙があふれる日々が続きました。

ふさぎ込んでいた渡邉さんを元気づけたのは、地元のチーム、ガンバ大阪のサッカー選手たちでした。
幼なじみが亡くなったあと、学校を慰問に訪れた選手と交流したり、試合で花束を渡したりした思い出。
その思い出に支えられ、徐々に元気を取り戻した渡邉さんは、いつか自分でも周りを元気づけられるようになりたいと考えるようになりました。

渡邉さんはいま、サッカーJ1、ガンバ大阪の社員として働いています。
泣き虫だった渡邉さんも27歳。
支えられた自分だから、今度は誰かを元気にできる存在になりたいと、選手とサポーターの交流イベントを企画しています。
事件のことを決して忘れず、亡くなった幼なじみや同級生たちの分まで強く生きたいと考えています。
渡邉さん
「幼なじみには『今は泣いていないよ。強くなったよ』と伝えたいです。一緒に遊んでいた綾乃ちゃんや同級生たちに恥じないないよう、同級生たちの分までちゃんと生きていきたいです。私の経験を生かして、同じような思いをしている人や悲しい思いをしている人を元気づけたいんです」

伊藤政貴さん(27)は、いま、地元の池田市で母親の睦美さんとともに子ども食堂を運営しています。
事件が起きたときは小学1年生。
ちょうど体育館で体育の授業を受けていたときでした。

教員から逃げるように促され、伊藤さんは何が起きているのか分からないまま、クラスメートとともに一斉に運動場まで走りました。
逃げる途中、倒れている児童と、シャツが赤く染まった教員の姿も目に入りました。
母親の睦美さんは、事件直後の伊藤さんの様子を今でもはっきりと覚えています。
唇が紫になってぶるぶると震え、恐怖におびえていたのです。
その後も、不安感が続き、救急車のサイレンやヘリコプターの音に強く反応することもありました。
さらに、“誰かが侵入して来るかもしれない”と、戸締まりに執着し、何かにおびえるような状態が続きました。
母親の睦美さん
「授業が始まる時でもなんでも、一番先に教室の鍵を閉めに行っていると学校のメンタルサポートの方から言われました。ドアが開いていると怖い人が入ってくると、恐怖心を抱いている様子でした」
傷ついた伊藤さんを支えたのは、周囲の大人たちでした。
学校に慰問で訪れてくれたプロのスポーツ選手。
地域で登校を見守ってくれたボランティアの人たち。
そして両親。
大学生になった頃、その存在の大きさに気づきました。
振り返ると、伊藤さんの周りにはいつも子どもたちを必死に励ます大人たちがいたのです。
伊藤さん
「当時のことをふと振り返ることがあり、大人たちが自分を元気づけ、応援してくれていたのかなと年をとるごとに身にしみて分かってきました」
恩返しをしたいと伊藤さんが選んだのは子ども食堂をつくることでした。
今度は自分が子どもたちを支えたいと睦美さんとともに、地元で子ども食堂を始めました。
現在は会社員として働きながら関わっています。
心がけているのは絶対に怒らないこと。
家庭や学校でつらい思いをしている子どものよりどころになるため、決して怒らず、「お兄ちゃん」として優しく接することにしています。

食堂に通う中学1年生の男の子がいます。
小学2年生のころから、学校に通えない時期がありました。
そんななか、ありのままを受け入れてくれる伊藤さんに助けられ、学校に通えるようになりました。
いまでは、男の子は、弁当づくりを手伝うまでになり、“今度は自分が食堂を支える存在になりたい”と意気込んでいます。
男の子
「伊藤さんはお兄ちゃんみたいな存在。今まで伊藤さんがやってたことを俺がやりたいって思っている」
この1年半ほどは新型コロナウイルスの影響で食堂でみんなで食事をすることが難しく、月に2回ほど、睦美さんが弁当を作り食事を提供しています。
地域の子どもたちを支えようと奮闘する伊藤さん。
支えてくれた人たちへの感謝の思いを胸に、今後も活動を続けるつもりです。

伊藤さん
「来てくれる子どもたちの楽しそうな笑顔だとか、子どもたちの成長を間近に感じることができるのがうれしいです。子ども食堂のことをもっともっといろんな人に知ってもらってもっとたくさんの子どもたちに来てほしいです。亡くなられた方々の思いも背負って、これから人生を歩んでいかなければと思っています」
事件から20年。
今回の取材を通して見えたのは、「今度は自分たちが誰かの助けになりたい」と力強く歩み始めた、同級生たちの姿でした。
(取材:大阪拠点放送局 記者 北森ひかり)