渡邉五郎三郎さん戦争証言 「とにかくアジアを欧米列強から解放したくてね 少年兵に志願しました」 | あびこかずひろの取材日記

あびこかずひろの取材日記

テレビ番組演出家
NPO法人テレビくん代表
取材にもとずいたリポート、及び、取材から掘り下げた情報をまとめます。
太平洋戦争の取材については、WEBサイト「みんなの戦争証言アーカイブス」にて
インタビュー映像をノーカット公開
http://true-stories.jp

渡邉五郎三郎さん(97)
戦争証言ノーカット版公開しました。

みんなの戦争証言アーカイブス
http://true-stories.jp

   
4月の終わり、ゴールデンウイーク直前。
春光うららかな季節と言いたいところだが、
もう夏の暑さを予感させる日差しの強い日。
ご自宅に我々を招き入れてくれた娘さんに促されリビングに入ると、
渡邉五郎三郎さんが一人掛けソファーに座って出迎えてくれた。
とても戦争を経験され予備士官学校では厳しい教官で名を馳せていたとは思えない柔和な笑顔に少しだけ緊張がほどけた。
           
渡邉五郎三郎さんは、戦後復興に尽力された方である。
その源となった大きなきっかけが2つ。
   
まずは幼少期の世界情勢における日本。
とりわけ、アジアやアフリカの小国が
軒並み欧米列強の支配下におかれ、
植民地となっていない国は、
アジアでは日本とタイだけという状況。
   
このとき渡邉少年は「日本をまもらなければならない」という
強い思いから自ら兵役に志願した。
   
昭和19予備士官学校入校式
昭和19年 豊橋第一陸軍予備士官学校入校式

昭和19婚礼
昭和19年 婚礼
  
昭和13年熱河省
昭和12年 熱河省(現 河北省)

             
そして、所属していた歩兵第78連隊が南方に派兵されるときに、
渡邉さんには、日本に戻り
”豊橋第一陸軍予備士官学校”の教官になるよう
命令がくだされ、仲間とは道を分つことになる。
   
この後、歩兵第78連隊には、戦局厳しい戦場で
激しい米軍の攻撃を受け、
5000人のうち生還できたのは200人という
壮絶な運命が待ち受ける。
   
まさに運命の分かれ道となった このできごとが
渡邉さんの心を苦しめ、
戦死した多くの仲間に対し、
「生きながらえたこの命を私欲ではなく日本の復興に使う」
心に決めたという。
   
陸軍時代
陸軍時代
  
これらのことから、渡邉さんは戦後、
青年海外協力隊や日本健青会の創設など、
武力によらない世界平和実現のために奔走してきた。
   
今回、渡邉さんには、戦前から戦後復興のお話し。
そして中曽根元首相に「日本最後の国士」と言わしめる
末次一郎さんのお話もしていただいた。
   
末次一郎さんは、陸軍中野学校の出身で、
戦後、帰国したシベリア抑留者のお世話し、
渡邉さんとともに青年海外協力隊を創設。
   
また沖縄返還、北方領土返還に力を注ぐなど、
今の日本を作る大きな原動力となった方である。
   
ご本人は決してメディアに出ることや
有名になることを望まなかったことから、
日本国民にはあまり知られていないが、
歴代政権のご意見番であり、
民間人としてアメリカ、ロシアと交渉した、
戦後日本の歴史に欠かせない重要人物である。
   
昭和26年末次一郎さん
昭和26年 末次一郎氏
    
  
97歳の今でも
「万世のために太平を開く。道義世界を作る、これが目標です」との
渡邉さんの言葉に姿勢を正さずにはいられない。
是非ご覧になってください。

渡邉五郎三郎さん97歳


みんなの戦争証言アーカイブス
http://true-stories.jp