そもそも家族は何も言わなくとも分かりあえるものだと言われてきたわけですが、お互いに分かりあっているつもりが、気がついてみたら夫婦や親子の間に亀裂が入っていたというのも珍しくありません。
家族だから、あるいは血が繋がっているからわかりあえるはずだという思い込みが、思いがけない結果につながることもあります。
自然発生的な家族から主体的選択に基づく家族の転換は、「話さなくともわかりあえる家族」から「話さなければわかりあえない家族」への転換を意味します。自然に任せているだけでは不十分であり、ある程度人為的な努力を傾けることが必要になってきました。家族はそこに「在る」のではなく「創っていく」ものなのです。
近年、話さなければわかりあえない家族はさらに深刻化しています。そのためにも、家族の絆について考えなおす必要性があると言え、同時に家族の絆を維持するために第二章の第二節で述べた通り、まずコミュニケーションが必要であると言えます。
以上、社会における家族の絆とこれからについて述べてきました。第一章では、そもそも家族とはどのようなものであるか、そしてその形は近年どのように変化しているかを述べてきました。
家族の変化は、日本だけには限らず変化しつづけています。それに従って、われわれもその形にふさわしい教育や社会を作らなければなりません。また
、個人が自由なライフスタイルを選べる社会にはある程度の制限が必要です。第二章では、現代における社会について述べてきました。現代の日本では、核家族がますます増えてきています。その一方で、生活に焦点を当てるとコミュニケーションの不足が問題となってきています。前述した通り、コミュニケーション不足は家族の絆の希薄化になりかねないと何度も述べてきたが事実そうです。コミュニケーションがいかに大事かさらに、コミュニケーションがもたらすものも述べました。社会における家族について述べ、社会変動と同時に家族の形は変わり、また家族の形が変わると社会も変わり、個人が作りだす社会は三つの次元から形成するものだという事を述べてきました。
家族とは切っても切れない関係であり、常に我々は家族と関わって生活しています。それが、たとえ離れて暮らしていたとしても、家族は何にも置き換えることができない存在であると思います。そんな家族の絆が希薄化し、その原因はコミュニケーション不足だと述べたわけですが、これを形成し直すことによって我々はまた違った
、家族の存在を知ることができ、少子高齢化となった日本に何か良い影響を及ぼす可能性もあるのではないかと考えます。さらに、家族内での殺人といった奇妙な事件も多発しているわけですが、家族の絆を手に入れれば、そのような事件なども考えることができないであろうと考えられます。
これらを通して、絆の形成は簡単なものではなく、我々の意識を変える必要性があると考えます。そして、家族は社会、経済、日本の将来を担っているものです。その結果、実際に家族の変化でこれらのものが変化し、それと同時に近年の家族の絆が希薄化しました。社会の変化は家族のコミュニケーションの数を減らしていきました。よって、家族の絆の希薄化はコミュニケーションにあり、これを見直す必要があると考えます。
iPhoneからの投稿
最近の若者の悩みごとの中には、「もう自分はどうにもならない」、「自分は無力だ」、「生きていてなにが楽しいのか分からない」、「なにもする気になれない」、「自分でなにも決断できない」ということが非常に多いように思います。それは馬鹿息子の言動にも、よく表れています。
人間は生きているかぎり、そのような疑問にぶつかることが当然ですが、昔はそのような疑問に正面から立ち向かって、自分で分からなければ書物を読みあさったり、先輩や上司に尋ねたり、友人どうしで議論をして自分なりの回答を得たと思っています。少なくとも私の周りの人達は、そのようにして人生の疑問を解決してきたと思っています。さすがに親には相談できなかったですが。
私達の年代の多くの者は、人生の諸問題や社会の矛盾について、授業をサボり、時間を忘れてお互いの考えを本音で討論し合ったものです。そして、その事がどんなに役に立ったかはかり知れません。
また先生達も真剣に相談に乗ってくれたものでした。私の中高時代は悪いことをすれば、先生は本気になって私達を殴りつけました。げんこつはもちろんのこと、ボクシングのストレートよろしく殴られたり、チョークを食べさせられたり、酷い時は革靴で蹴飛ばされたりもしました。それだけ先生たちも教育には命を懸けていたのです。体罰がいいとか悪いとかということではなく、教える方も真剣だったと言いたいのです。今になってようやく分かりましたが、先生達も真剣に生徒を育ての親として一生懸命育てて下さっていたのです。
今は時代が変わってしまって、体罰は悪い事として禁止されてしまいましたが、それはそれで仕方のないことです。また子供たちも自ら人生の疑問を考えることも少なくなり、相談できる相手もいなくなり、心の中に疑問をしまい込まざるを得なくなりました。競争ばかりの社会なので、みんなが利己的になってしまい相手を蹴落とすことが自分の利益になると思ったりして、相手を信じられなくなったのです。同時に親も子供の教育面だけに気を遣い、躾はできなくなりました。その理由はここでは取り上げません。親は子供に勉強ばかり要求して、日常生活のことを手伝わせることもなくなり、子供は人生にとって一番大切な体で覚えるということがなくなりました。 その結果子供がどうなったかというと、
自主性や自立心がなくなった
知識は豊富になったが生きる知恵がなくなった
物事を理屈だけで考えるようになった
汗を流すことの尊さが分からなくなった
自分のことしか考えられなくなった
勉強以外の努力ができなくなった
自分自身の考え方を持てなくなった
自分で決断できなくなった
親に依存ばかりするようになった
自分の意見が言えなくなった
思いやりがなくなった
忍耐力がなくなった
金がすべてになった
現実と仮想の世界の区別がつかなくなった
自己中心的(利己主義的)にしか考えられなくなった
家族さえも自分の目的達成のための道具と考えるようになった
挨拶もできなくなった
現実への対応能力がなくなってきた
協調性がなくなった
応用の利かない人間が多くなってきた
責任の取り方が分からない人が多くなってきた
優柔不断になってきた
物事を頭だけで考えるようになってきた
以上ようなことの当然の結果としてでてきたことが、青少年の犯罪の低年齢化と凶悪化です。本当に残念なことなのですが、今までのような教育や躾では今後ますますこのような現象は加速することでしょう。
今のように若者が現実に対応できなくなり、閉じこもったり、すぐにキレたり、諦めたり、責任転嫁をしてしまうのには十分な理由があると私は確信しています。本当はこんなことを確信したくはないのですが。今の若者に一番必要なことは、現実と対決する勇気を持つことではないでしょうか。それともうひとつ、失敗を過度に恐れない勇気を持つことです。
小さい時から親の言うことだけを聞くように育てられ、親に自分の意見を言えないで育ってくれば、子供は無力な存在ですから自分の世界に閉じこもらなければ、逃げる場所はなかったのです。または、キレてしまうかのどちらかです。被虐待児が正にそれです。
親は自分の心の葛藤の不安を解消するために、子供への愛情の名のもとに子供の心を殺してしまったのです。中には、本当に子供を殺してしまう親もいます。ここまで書くことは言いすぎのような気もしますが、大筋では残念ながら間違ってはいないと思います。
その結果として、自分では何もできない若者が多くなった、出来なくさせられたのです。その力があるにも関わらず。そして、閉じこもる若者が多くなったのです。
この現象は若者だけではなく、30代や40代の人にも見受けられるのです。アダルトチルドレンやマザコン、そしてパラサイトシングルの出現です。自分が無気力で何もできなく、閉じこもるしかなくなってしまった人は、今までの家庭環境と親の躾を考え直してみることが必要なのです。自分は親にどんな育てられ方をしたのか、真剣に考えてみることが必要だと思います。考える事は、現実に立ち向かう事でもあります。
現実に立ち向かうことができない、現実に立ち向かうことが恐ろしいといって逃げてばかりいると、今のままの苦しく辛い生活が続くだけです。
親が養ってくれるうちはいいのですが、親が働けなくなったらどうするのですか?どんなに恐ろしくても辛くても、一度は現実に正面から立ち向かわなければ、辛くて苦しい状況からは抜け出せないのです。絶対に抜け出せないのです。
一時的には苦しくなっても現実と立ち向かう必要があるのですが、若者の多くは親にこの立ち向かう勇気を奪われてしまっているのです。勿論親は意識的に子供を骨抜きにしたわけではないのですが、結果としてそうしてしまったのです。親も子供を幸せにするために一生懸命努力したのですが、親の努力の方向が間違っていたと言わざるを得ません。私がそうでした。息子を立ち直らそうと、今まで色々な事をしてきました。先日、私が信頼している病院の先生に馬鹿息子や自分の事を相談しました。そこで分かったのが、私は息子を立ち直らそうとする事に必死になる余り、その方法を誤ったのです。努力の方向が正しかったにも関わらず、息子が中々立ち直る事が出来なかったのは、その為でした。
昔のように親が無学であれば子供に説教もできなかったし、また経済的な理由から子供の教育にかまうこともできなかったので、逆にそれが子供の自立心を育てたのです。子供も子供なりに両親を助けて働かなければ、生活していけなかったからです。そのなかからお互いの思いやりや労働の尊さ、自立心を身につけてきたのです。
今は親も高学歴の人が多くなり、子供の数も夫婦当たり1.5人を切るようになりました。経済的にも一応ゆとりがでてきたので、親は子供のこと全てに干渉し過ぎるようになったのです。そして間違った自信を持つ親が多くなったことが、今の状況をもたらしてしまったのです。余計なお金を持つと、人は余計な事をしたがるものですね。
いま自分でも分からないけれども苦しくて仕方のない人は、このことを考えてみてはどうでしょうか?しかし、それが当たっていたからと言って、親を恨んではいけません。 親は、その他にはどうしようもなかったのですから。親は本当に子どもの幸せを考えてやったことなのですから。ここのところはだけは分かってあげて欲しいのです。ただ過去を振り返って親を恨むのではなく、そのことを反省材料として未来を見つめるしかないのです。虐待する親は、論外です。私もつい最近まで、恨む事で頭がいっぱいでした。
いま悩み苦しんでいる人は現実から逃げれば逃げるほど、生きることが苦しくなるだけだということを分かって欲しいのです。私に騙されたと思って、逃げることを止めてみてはどうでしょうか?一時的にはもっと苦しくなるでしょうが、その未来に幸せがあるのです。幸せは簡単には手に入らないのです。
汗水を流して、苦しみや辛さを味わった人だけに幸せは訪れるのです。今の私には、そのように思えるのです。
幸せがやってくる前の段階の苦しみのところで、考えることや行動することを諦めてしまうから、いよいよ無力感を感じてしまい何事にもやる気をなくしてしまうのです。本当はそこで苦しみを乗り越える必要があるのです。ちょっと苦しいから、辛いからといって、そこで諦めてしまえば生きることが辛くなって当然なのです。何故なら自分の経験したことは、全てが苦しみや辛さの中で完結してしまっているから、何をしても面白くない、生きることの全てが苦しくなってしまうのです。だから人生に意味が見いだせないのです。今の若者の多くは、その乗り越えなければならない手前で止まってしまうから、無気力になってしまうのです。それが若者の多くが無気力になってしまった唯一の原因だと、あえて断定させてもらいます。もうひとつ先に、幸せが待ち受けているのです。あと一歩の努力で幸せになれるのに、そこで諦めてしまっているかも知れないのです。馬鹿息子にこの事をそのまま言っても難しくて理解出来ないので、言葉を替えて同じ事を私達夫婦は教えています。
自分の知らない経験したことのないことを信ずることは難しいことですが、一生に一度くらいはその一線を乗り越えてみませんか?そのあとで生きていくことは面白くないと、いくら叫んでもかまいませんから。目先の苦しみに一度は正面から立ち向かってみませんか。そうすれば人生に、自分の考え方にどんな変化が起きるかを試してみませんか。
私は、怖かったけど試しました。試したら、自分も家族も、今まで大嫌いだった人間も好きになりました。本当は好きだった事を思い出せました。今は大変な事も多いけど、幸せです。不幸だと信じきって絶望していた事が、嘘のようです。
「人生、生きるに値するか否か」は、その後で考えてみてはどうでしょうか。やるだけやってみてから、生きていてもつまらないと叫ぶことには反対いたしません。やるべきことをやりもしないで、「自分は生きていくことが辛い」などとは言うべきではありません。やるだけのことをやって、それで人生に意味を見いだせなかったら、そのあとは好きにしてください。生きていくことには苦しみや辛さがつきまといますが、生きていくことは無意味ではないはずです。
人生を無意味にしているのは、あなたの現在の考え方なのです。あなたの知らない世界に飛び込んでみませんか?
生きることに意味があるかないかは、他人が教えてくれるものではなく自分で答えを出すことなのです。
「最終的に人生に意味を見いだせない」というのは、考え方ややりかたに何か問題があるのです。
だったら自分の考え方ややりかたを変えてみてはどうですか。いまの利己的な自分にだけしがみついていれば、幸せはやってこないと思います。現実と正面から向き合うこともしないで、「生きていても面白くない」とか「無力感に襲われてどうにもならない」などと言って欲しくないのです。一生懸命生きている人に、そんな失礼な事はありません。他人だけでなく、自分も馬鹿にしています。そのような言葉は現実と真剣勝負をしてからにして欲しいのです。
厳しい言い方になりましたが、本当にそう考えます。それでも現実に向き合うことのできない人が、大勢いることも理解しているつもりです。そのような人には、現実に向き合うための助けが必要なのです。一人で向き合う事が、とても大変な場合もあります。そんな時は、助けて貰っても良いのです。助けを求める事は、何も恥ずかしい事ではありません。助けを求められない事のが、恥ずかしい事なのです。
百歩譲って自分は現実と対決しているという人も大勢いると思います。それでも解決の糸口も見いだせないと言うことは、現実を見誤っているのではないでしょうか?あるいは現実への対処の仕方に問題があるのではないでしょうか?偉そうなことばかりならべて申し訳ないのですが。
どう間違っているかが問題です。自分を社会から孤立したものとして考えてしまうことに問題があるのではないでしょうか?苦しいときは、自分が社会と密接な関係を持ちながら生きていることを忘れてしまいますが、そのことを思い出すように努力してほしいのです。そうすれば解決の糸口が見いだせると信じます。少なくとも私はそうしました。以前は天地がひっくり返ってもダメだと思っていた事が、解決していっています。
悩みは現実と向き合い、自らが成長しなければ解決しないと言いますが、正しくその通りだと思います。
自分が成長するということは、経験する、体験するということであり、それは現実と関わり合うこと以外に何もないのです。現実と関わりを持たないで自分が成長できるということは、あり得ないことなのです。そのあり得ないことを期待して現実を無視するから、悩みは解決しないで、かえって苦しくなる一方なのです。どんなことをしても、あるいは何もしなくても、それも現実なのです。人間は人と関わり合うことなしに生きていけないのです。
いくら人間関係が煩わしいといっても、人と関わり合うことは避けられないのです。であれば積極的に人と関わり合って、楽しいはりのある生活をした方がいいはずです。私も人間関係が煩わしくて仕方なかったので、前向きな考えが出来るようになるまでに相当の時間が必要でした。
人間が積極的に生きて精神症や神経症になったという話は聞いたことがありません。みんな消極的に考えてしまった結果、神経症や精神を煩ってしまったのです。苦労や悩みはつきることはありませんが。
そのような病にかかってしまう人は、次のような人たちなのです。 それが意味するところは、人間は消極的であれば、幸せにはなれないと言うことです。
マイナス思考の人
過去にこだわる人
結果論だけでものごとを考える人
自分なりの生き方を持たない人
完全主義の人
八方美人の人
社会に適応できない人
きまじめな人
人のいい人
頼まれても「いや」と言えない人
自己主張のできない人
物事を悪い方にだけ考える人
自分の世界に閉じこもってしまう人
優柔不断な人
他人の責任までも被ってしまう人
なんでも自分が悪いと考えてしまう人 (相手が悪くても)
いつも自分と他人を比較して生きている人
くよくよ、こせこせしている人
相手に気を遣いすぎる人
ものごとを一人で抱え込んでしまう人
怒られる勇気のない人
物事の優先順位が分からない人
周囲の意見に流される人
災いを授業料にできない人
失敗からなにも学べない人
恨みなどを生きる原動力にしている人
レ・ミゼラブルの主人公のような生き方です(恨みを晴らすためだけに生きているような人)
こんな性格の人が、心を病みやすいと思います。このようなことで心を病むということは、このようなことは人間をしあわせにしてはくれないということです。
人間は現実と対決して多くのことを経験しなければ、決して強くなれないのです。今の社会はバーチャルな時代といわれるようになにが現実で、何がそうでないのかさえ分からなくなってきています。そんな中で自分を鍛えろと言っても、無理な話でしかありません。恐れずに現実と向き合うことによってしか、人間は強くなることはできないのです。分かり易いのが、武道やスポーツです。これらは自分と向き合う良い機会です。武道もスポーツも、相手がなければ出来ない事でもあります。人と接する事は、現実と接する事です。
言い換えれば、なにごとも積極的に経験して恥をかき、汗をかいて、はじめて生きることの意味を理解できるのだと確信します。
だから現実から逃げてはいけないのです。
iPhoneからの投稿
人間は生きているかぎり、そのような疑問にぶつかることが当然ですが、昔はそのような疑問に正面から立ち向かって、自分で分からなければ書物を読みあさったり、先輩や上司に尋ねたり、友人どうしで議論をして自分なりの回答を得たと思っています。少なくとも私の周りの人達は、そのようにして人生の疑問を解決してきたと思っています。さすがに親には相談できなかったですが。
私達の年代の多くの者は、人生の諸問題や社会の矛盾について、授業をサボり、時間を忘れてお互いの考えを本音で討論し合ったものです。そして、その事がどんなに役に立ったかはかり知れません。
また先生達も真剣に相談に乗ってくれたものでした。私の中高時代は悪いことをすれば、先生は本気になって私達を殴りつけました。げんこつはもちろんのこと、ボクシングのストレートよろしく殴られたり、チョークを食べさせられたり、酷い時は革靴で蹴飛ばされたりもしました。それだけ先生たちも教育には命を懸けていたのです。体罰がいいとか悪いとかということではなく、教える方も真剣だったと言いたいのです。今になってようやく分かりましたが、先生達も真剣に生徒を育ての親として一生懸命育てて下さっていたのです。
今は時代が変わってしまって、体罰は悪い事として禁止されてしまいましたが、それはそれで仕方のないことです。また子供たちも自ら人生の疑問を考えることも少なくなり、相談できる相手もいなくなり、心の中に疑問をしまい込まざるを得なくなりました。競争ばかりの社会なので、みんなが利己的になってしまい相手を蹴落とすことが自分の利益になると思ったりして、相手を信じられなくなったのです。同時に親も子供の教育面だけに気を遣い、躾はできなくなりました。その理由はここでは取り上げません。親は子供に勉強ばかり要求して、日常生活のことを手伝わせることもなくなり、子供は人生にとって一番大切な体で覚えるということがなくなりました。 その結果子供がどうなったかというと、
自主性や自立心がなくなった
知識は豊富になったが生きる知恵がなくなった
物事を理屈だけで考えるようになった
汗を流すことの尊さが分からなくなった
自分のことしか考えられなくなった
勉強以外の努力ができなくなった
自分自身の考え方を持てなくなった
自分で決断できなくなった
親に依存ばかりするようになった
自分の意見が言えなくなった
思いやりがなくなった
忍耐力がなくなった
金がすべてになった
現実と仮想の世界の区別がつかなくなった
自己中心的(利己主義的)にしか考えられなくなった
家族さえも自分の目的達成のための道具と考えるようになった
挨拶もできなくなった
現実への対応能力がなくなってきた
協調性がなくなった
応用の利かない人間が多くなってきた
責任の取り方が分からない人が多くなってきた
優柔不断になってきた
物事を頭だけで考えるようになってきた
以上ようなことの当然の結果としてでてきたことが、青少年の犯罪の低年齢化と凶悪化です。本当に残念なことなのですが、今までのような教育や躾では今後ますますこのような現象は加速することでしょう。
今のように若者が現実に対応できなくなり、閉じこもったり、すぐにキレたり、諦めたり、責任転嫁をしてしまうのには十分な理由があると私は確信しています。本当はこんなことを確信したくはないのですが。今の若者に一番必要なことは、現実と対決する勇気を持つことではないでしょうか。それともうひとつ、失敗を過度に恐れない勇気を持つことです。
小さい時から親の言うことだけを聞くように育てられ、親に自分の意見を言えないで育ってくれば、子供は無力な存在ですから自分の世界に閉じこもらなければ、逃げる場所はなかったのです。または、キレてしまうかのどちらかです。被虐待児が正にそれです。
親は自分の心の葛藤の不安を解消するために、子供への愛情の名のもとに子供の心を殺してしまったのです。中には、本当に子供を殺してしまう親もいます。ここまで書くことは言いすぎのような気もしますが、大筋では残念ながら間違ってはいないと思います。
その結果として、自分では何もできない若者が多くなった、出来なくさせられたのです。その力があるにも関わらず。そして、閉じこもる若者が多くなったのです。
この現象は若者だけではなく、30代や40代の人にも見受けられるのです。アダルトチルドレンやマザコン、そしてパラサイトシングルの出現です。自分が無気力で何もできなく、閉じこもるしかなくなってしまった人は、今までの家庭環境と親の躾を考え直してみることが必要なのです。自分は親にどんな育てられ方をしたのか、真剣に考えてみることが必要だと思います。考える事は、現実に立ち向かう事でもあります。
現実に立ち向かうことができない、現実に立ち向かうことが恐ろしいといって逃げてばかりいると、今のままの苦しく辛い生活が続くだけです。
親が養ってくれるうちはいいのですが、親が働けなくなったらどうするのですか?どんなに恐ろしくても辛くても、一度は現実に正面から立ち向かわなければ、辛くて苦しい状況からは抜け出せないのです。絶対に抜け出せないのです。
一時的には苦しくなっても現実と立ち向かう必要があるのですが、若者の多くは親にこの立ち向かう勇気を奪われてしまっているのです。勿論親は意識的に子供を骨抜きにしたわけではないのですが、結果としてそうしてしまったのです。親も子供を幸せにするために一生懸命努力したのですが、親の努力の方向が間違っていたと言わざるを得ません。私がそうでした。息子を立ち直らそうと、今まで色々な事をしてきました。先日、私が信頼している病院の先生に馬鹿息子や自分の事を相談しました。そこで分かったのが、私は息子を立ち直らそうとする事に必死になる余り、その方法を誤ったのです。努力の方向が正しかったにも関わらず、息子が中々立ち直る事が出来なかったのは、その為でした。
昔のように親が無学であれば子供に説教もできなかったし、また経済的な理由から子供の教育にかまうこともできなかったので、逆にそれが子供の自立心を育てたのです。子供も子供なりに両親を助けて働かなければ、生活していけなかったからです。そのなかからお互いの思いやりや労働の尊さ、自立心を身につけてきたのです。
今は親も高学歴の人が多くなり、子供の数も夫婦当たり1.5人を切るようになりました。経済的にも一応ゆとりがでてきたので、親は子供のこと全てに干渉し過ぎるようになったのです。そして間違った自信を持つ親が多くなったことが、今の状況をもたらしてしまったのです。余計なお金を持つと、人は余計な事をしたがるものですね。
いま自分でも分からないけれども苦しくて仕方のない人は、このことを考えてみてはどうでしょうか?しかし、それが当たっていたからと言って、親を恨んではいけません。 親は、その他にはどうしようもなかったのですから。親は本当に子どもの幸せを考えてやったことなのですから。ここのところはだけは分かってあげて欲しいのです。ただ過去を振り返って親を恨むのではなく、そのことを反省材料として未来を見つめるしかないのです。虐待する親は、論外です。私もつい最近まで、恨む事で頭がいっぱいでした。
いま悩み苦しんでいる人は現実から逃げれば逃げるほど、生きることが苦しくなるだけだということを分かって欲しいのです。私に騙されたと思って、逃げることを止めてみてはどうでしょうか?一時的にはもっと苦しくなるでしょうが、その未来に幸せがあるのです。幸せは簡単には手に入らないのです。
汗水を流して、苦しみや辛さを味わった人だけに幸せは訪れるのです。今の私には、そのように思えるのです。
幸せがやってくる前の段階の苦しみのところで、考えることや行動することを諦めてしまうから、いよいよ無力感を感じてしまい何事にもやる気をなくしてしまうのです。本当はそこで苦しみを乗り越える必要があるのです。ちょっと苦しいから、辛いからといって、そこで諦めてしまえば生きることが辛くなって当然なのです。何故なら自分の経験したことは、全てが苦しみや辛さの中で完結してしまっているから、何をしても面白くない、生きることの全てが苦しくなってしまうのです。だから人生に意味が見いだせないのです。今の若者の多くは、その乗り越えなければならない手前で止まってしまうから、無気力になってしまうのです。それが若者の多くが無気力になってしまった唯一の原因だと、あえて断定させてもらいます。もうひとつ先に、幸せが待ち受けているのです。あと一歩の努力で幸せになれるのに、そこで諦めてしまっているかも知れないのです。馬鹿息子にこの事をそのまま言っても難しくて理解出来ないので、言葉を替えて同じ事を私達夫婦は教えています。
自分の知らない経験したことのないことを信ずることは難しいことですが、一生に一度くらいはその一線を乗り越えてみませんか?そのあとで生きていくことは面白くないと、いくら叫んでもかまいませんから。目先の苦しみに一度は正面から立ち向かってみませんか。そうすれば人生に、自分の考え方にどんな変化が起きるかを試してみませんか。
私は、怖かったけど試しました。試したら、自分も家族も、今まで大嫌いだった人間も好きになりました。本当は好きだった事を思い出せました。今は大変な事も多いけど、幸せです。不幸だと信じきって絶望していた事が、嘘のようです。
「人生、生きるに値するか否か」は、その後で考えてみてはどうでしょうか。やるだけやってみてから、生きていてもつまらないと叫ぶことには反対いたしません。やるべきことをやりもしないで、「自分は生きていくことが辛い」などとは言うべきではありません。やるだけのことをやって、それで人生に意味を見いだせなかったら、そのあとは好きにしてください。生きていくことには苦しみや辛さがつきまといますが、生きていくことは無意味ではないはずです。
人生を無意味にしているのは、あなたの現在の考え方なのです。あなたの知らない世界に飛び込んでみませんか?
生きることに意味があるかないかは、他人が教えてくれるものではなく自分で答えを出すことなのです。
「最終的に人生に意味を見いだせない」というのは、考え方ややりかたに何か問題があるのです。
だったら自分の考え方ややりかたを変えてみてはどうですか。いまの利己的な自分にだけしがみついていれば、幸せはやってこないと思います。現実と正面から向き合うこともしないで、「生きていても面白くない」とか「無力感に襲われてどうにもならない」などと言って欲しくないのです。一生懸命生きている人に、そんな失礼な事はありません。他人だけでなく、自分も馬鹿にしています。そのような言葉は現実と真剣勝負をしてからにして欲しいのです。
厳しい言い方になりましたが、本当にそう考えます。それでも現実に向き合うことのできない人が、大勢いることも理解しているつもりです。そのような人には、現実に向き合うための助けが必要なのです。一人で向き合う事が、とても大変な場合もあります。そんな時は、助けて貰っても良いのです。助けを求める事は、何も恥ずかしい事ではありません。助けを求められない事のが、恥ずかしい事なのです。
百歩譲って自分は現実と対決しているという人も大勢いると思います。それでも解決の糸口も見いだせないと言うことは、現実を見誤っているのではないでしょうか?あるいは現実への対処の仕方に問題があるのではないでしょうか?偉そうなことばかりならべて申し訳ないのですが。
どう間違っているかが問題です。自分を社会から孤立したものとして考えてしまうことに問題があるのではないでしょうか?苦しいときは、自分が社会と密接な関係を持ちながら生きていることを忘れてしまいますが、そのことを思い出すように努力してほしいのです。そうすれば解決の糸口が見いだせると信じます。少なくとも私はそうしました。以前は天地がひっくり返ってもダメだと思っていた事が、解決していっています。
悩みは現実と向き合い、自らが成長しなければ解決しないと言いますが、正しくその通りだと思います。
自分が成長するということは、経験する、体験するということであり、それは現実と関わり合うこと以外に何もないのです。現実と関わりを持たないで自分が成長できるということは、あり得ないことなのです。そのあり得ないことを期待して現実を無視するから、悩みは解決しないで、かえって苦しくなる一方なのです。どんなことをしても、あるいは何もしなくても、それも現実なのです。人間は人と関わり合うことなしに生きていけないのです。
いくら人間関係が煩わしいといっても、人と関わり合うことは避けられないのです。であれば積極的に人と関わり合って、楽しいはりのある生活をした方がいいはずです。私も人間関係が煩わしくて仕方なかったので、前向きな考えが出来るようになるまでに相当の時間が必要でした。
人間が積極的に生きて精神症や神経症になったという話は聞いたことがありません。みんな消極的に考えてしまった結果、神経症や精神を煩ってしまったのです。苦労や悩みはつきることはありませんが。
そのような病にかかってしまう人は、次のような人たちなのです。 それが意味するところは、人間は消極的であれば、幸せにはなれないと言うことです。
マイナス思考の人
過去にこだわる人
結果論だけでものごとを考える人
自分なりの生き方を持たない人
完全主義の人
八方美人の人
社会に適応できない人
きまじめな人
人のいい人
頼まれても「いや」と言えない人
自己主張のできない人
物事を悪い方にだけ考える人
自分の世界に閉じこもってしまう人
優柔不断な人
他人の責任までも被ってしまう人
なんでも自分が悪いと考えてしまう人 (相手が悪くても)
いつも自分と他人を比較して生きている人
くよくよ、こせこせしている人
相手に気を遣いすぎる人
ものごとを一人で抱え込んでしまう人
怒られる勇気のない人
物事の優先順位が分からない人
周囲の意見に流される人
災いを授業料にできない人
失敗からなにも学べない人
恨みなどを生きる原動力にしている人
レ・ミゼラブルの主人公のような生き方です(恨みを晴らすためだけに生きているような人)
こんな性格の人が、心を病みやすいと思います。このようなことで心を病むということは、このようなことは人間をしあわせにしてはくれないということです。
人間は現実と対決して多くのことを経験しなければ、決して強くなれないのです。今の社会はバーチャルな時代といわれるようになにが現実で、何がそうでないのかさえ分からなくなってきています。そんな中で自分を鍛えろと言っても、無理な話でしかありません。恐れずに現実と向き合うことによってしか、人間は強くなることはできないのです。分かり易いのが、武道やスポーツです。これらは自分と向き合う良い機会です。武道もスポーツも、相手がなければ出来ない事でもあります。人と接する事は、現実と接する事です。
言い換えれば、なにごとも積極的に経験して恥をかき、汗をかいて、はじめて生きることの意味を理解できるのだと確信します。
だから現実から逃げてはいけないのです。
iPhoneからの投稿
家族は社会によって様々な形に変化します。つまり、社会変動によって家族が変化するまでに至るのです。
家族は社会変動によって変化するだけではなく、家族の変化が社会変動を促すという側面もあります。年金問題も制度の問題だけでなく、少子高齢化による家族の変化も大きく関わっています。いうまでもなく、どのような社会変動も何らかのかたちで家族に影響を及ぼします。
そして、日本の家族に大きな影響を及ぼした要因として、高度産業化、大衆社会化、人口転換の三つがあげられます。
産業化が家族に与える影響は、その形
態よりも、むしろ内部の役割構造、権威構造および人間関係に与えた変化に大きな意味があります。本来ならば、子供の躾は父親がするものです。しかし、長時間労働の為に父親は不在です。そうなると、母親がしなくてはなりません。そこで、家族のバランスも狂っていきます。
生活活動が家族から工場へと移るにつれて、労働者は自分で仕事をすることが難しくなり、組織のルールに従って働くことを求められます。昔は農村のが多かったので、家族総出で仕事をしていました。
男性が家庭外で獲得する資金によって生活が営まれるようになるにつれて、有償労働に従事する男性と家庭内の無償労働に従事する女性という性別役割分業が支配服従関係へと転化します。大昔は父親が獲ってきた獲物が今の金銭であり、獲った後すぐに家族で分け与えたので、父親が狩りに出ている間に家族の面倒をみていた母親にも、獲物という報酬が支払われていたのです。だから、今よりは女性が抱える不満は少なかったと思います。つまり、昔は今のような金銭的な支配がなかったのです。
日本が高度産業社会に到達した、1960年代を中心とした高度経済成長期 以降では、池田内閣の所得倍増計画によって収入は上昇し、人々の消費性向は高まっていきました。 大衆社会とは、大量生産を背景に、一握りの権力者によって大衆が操作される可能性のある社会でもあります。購買力を備えた大衆が、テレビのコマーシャルに働かされて大量にものを買い、それによって経済が成長します。 医学の進歩、栄養状態や衛生状態の改善、そして避妊技術の発達と普及につれて、どの国においても多産多死から多産少死へと人口の転換が生じています。
日本の今後において、血縁を重視する従来の家族とは違い、これからの家族は個人の主体的選択的意思を重視します。
柚井孝子氏は「家族の変化が社会変動を促すという側面もある」と述べています。本当家族の変化は社会変動を促します。現に、我が国日本では少子高齢化です。家族は今、子どもの少ない少子化となっています。これによって、実際社会は悪化したと言えます。例えば、少子化により学校を閉鎖しなければいけないところもでてきました。
また、高齢化が進み社会に活気がなくなってきたと言ってもおかしくありません。一番お金を遣う子育て世代の消費が伸びないのが、その証拠です。
そして、高齢化が進み将来年金が出ないのではないかとさえ言われています。家族の変化により、社会は簡単に良くも悪くもなります。以上のことから、「家族の変化が社会変動を促す
という側面もある」と言えます。
さらに、我々の生活において、これらの社会変動が起こると家族も変化し、同時に家族が変化すると社会変動も起こると述べてきたわけですが、我々はこれを維持するためにも対策をとらなければいけないと考えられます。
家族は人々にとって重要な意味を持つと同時に、最も身近な存在です。また、個人は家族の中に生まれ、その中で様々なことを学習しながら社会化し、成長していきます。
個人を取り巻く家族をはじめとする社会は、個人の誕生以前から存在し、個人の形成に圧倒的な力を及ぼします。しかし、個人は社会によって一方的に作られるという側面を持っています。社会が個人によって作られますが、一旦できあがた社会は、今度は新たに生まれてくる社会を形作ります。相互に規定し合う個人と社会とはどのようなものか。
我々は、様々な形の対人関係で他者と結びついています。対人関係には、およそ3つの次元を設定することが可能です。「対立」の次元、「共存」の次元、「所属」の次元です。
「対立」の次元においては、2者の社会的距離は大きく、私と他者は互いをかろうじて了解できる希薄な基盤、たとえば同じ日本語を話す、同一の身ぶりが同一の意味を持つなどを共有しているにすぎません。
次に「共存」の次元においては、「ここ」と「そこ」は仲間や友人という共通基盤を持っており、この共通基盤、いいかえれば共通世界の批准の増加が「対立」次元には見られなかった協力を可能にします。
「所属」の次元が強調された人間関係においては、私的世界は他者の世界と重なり合い、自他の区別も消滅する。過剰な所属意識は、個人である事を忘れさせてしまいます。例えば、私なら息子のお母さんという名前ではなく、親に貰った名前があるといった事です。
つまり、人間は社会に「所属」し、その文化を身につけること(社会化)によって、初めて人間となります。
そもそも我々は、「対立」「共存」「所属」の3つの対人関係から成り立っているわけですが、「所属」がまずなければ「共存」「対立」も不可能だと考えられます。例えば、喧嘩を「対立」 とあてはめると、罵声や暴力は共有されなければなりません。「対立」は共有される世界が相対的に少なく、「所属」は多いといえます。これは、
言い方の度合だと言えます。例えば、○○学校出身○○部OBといったものです。
つまり、「所属」は「対立」や「共存」とは色調的に大きいものだと言え、人間はその人々が集まった集合的な社会に所属していると言えるのです。また、社会に「所属」した人間は生活する上で、常に「対立」し「共存」しているのです。
以上のことから、石井秀夫氏の「人間は社会に『所属』し、その文化を身
につけること(社会化)によって、初めて人間となる」といった主張は可能です。筆者は、個人は社会によって作り上げられ、またいつしか「所属」「対立」「共存」として成り立つと述べています。
これらのことから、家族は個人と個人の「所属」「対立」「共存」を積み重ね、そしてその絆の深さに気づかされるものだといえます。
iPhoneからの投稿
家族は社会変動によって変化するだけではなく、家族の変化が社会変動を促すという側面もあります。年金問題も制度の問題だけでなく、少子高齢化による家族の変化も大きく関わっています。いうまでもなく、どのような社会変動も何らかのかたちで家族に影響を及ぼします。
そして、日本の家族に大きな影響を及ぼした要因として、高度産業化、大衆社会化、人口転換の三つがあげられます。
産業化が家族に与える影響は、その形
態よりも、むしろ内部の役割構造、権威構造および人間関係に与えた変化に大きな意味があります。本来ならば、子供の躾は父親がするものです。しかし、長時間労働の為に父親は不在です。そうなると、母親がしなくてはなりません。そこで、家族のバランスも狂っていきます。
生活活動が家族から工場へと移るにつれて、労働者は自分で仕事をすることが難しくなり、組織のルールに従って働くことを求められます。昔は農村のが多かったので、家族総出で仕事をしていました。
男性が家庭外で獲得する資金によって生活が営まれるようになるにつれて、有償労働に従事する男性と家庭内の無償労働に従事する女性という性別役割分業が支配服従関係へと転化します。大昔は父親が獲ってきた獲物が今の金銭であり、獲った後すぐに家族で分け与えたので、父親が狩りに出ている間に家族の面倒をみていた母親にも、獲物という報酬が支払われていたのです。だから、今よりは女性が抱える不満は少なかったと思います。つまり、昔は今のような金銭的な支配がなかったのです。
日本が高度産業社会に到達した、1960年代を中心とした高度経済成長期 以降では、池田内閣の所得倍増計画によって収入は上昇し、人々の消費性向は高まっていきました。 大衆社会とは、大量生産を背景に、一握りの権力者によって大衆が操作される可能性のある社会でもあります。購買力を備えた大衆が、テレビのコマーシャルに働かされて大量にものを買い、それによって経済が成長します。 医学の進歩、栄養状態や衛生状態の改善、そして避妊技術の発達と普及につれて、どの国においても多産多死から多産少死へと人口の転換が生じています。
日本の今後において、血縁を重視する従来の家族とは違い、これからの家族は個人の主体的選択的意思を重視します。
柚井孝子氏は「家族の変化が社会変動を促すという側面もある」と述べています。本当家族の変化は社会変動を促します。現に、我が国日本では少子高齢化です。家族は今、子どもの少ない少子化となっています。これによって、実際社会は悪化したと言えます。例えば、少子化により学校を閉鎖しなければいけないところもでてきました。
また、高齢化が進み社会に活気がなくなってきたと言ってもおかしくありません。一番お金を遣う子育て世代の消費が伸びないのが、その証拠です。
そして、高齢化が進み将来年金が出ないのではないかとさえ言われています。家族の変化により、社会は簡単に良くも悪くもなります。以上のことから、「家族の変化が社会変動を促す
という側面もある」と言えます。
さらに、我々の生活において、これらの社会変動が起こると家族も変化し、同時に家族が変化すると社会変動も起こると述べてきたわけですが、我々はこれを維持するためにも対策をとらなければいけないと考えられます。
家族は人々にとって重要な意味を持つと同時に、最も身近な存在です。また、個人は家族の中に生まれ、その中で様々なことを学習しながら社会化し、成長していきます。
個人を取り巻く家族をはじめとする社会は、個人の誕生以前から存在し、個人の形成に圧倒的な力を及ぼします。しかし、個人は社会によって一方的に作られるという側面を持っています。社会が個人によって作られますが、一旦できあがた社会は、今度は新たに生まれてくる社会を形作ります。相互に規定し合う個人と社会とはどのようなものか。
我々は、様々な形の対人関係で他者と結びついています。対人関係には、およそ3つの次元を設定することが可能です。「対立」の次元、「共存」の次元、「所属」の次元です。
「対立」の次元においては、2者の社会的距離は大きく、私と他者は互いをかろうじて了解できる希薄な基盤、たとえば同じ日本語を話す、同一の身ぶりが同一の意味を持つなどを共有しているにすぎません。
次に「共存」の次元においては、「ここ」と「そこ」は仲間や友人という共通基盤を持っており、この共通基盤、いいかえれば共通世界の批准の増加が「対立」次元には見られなかった協力を可能にします。
「所属」の次元が強調された人間関係においては、私的世界は他者の世界と重なり合い、自他の区別も消滅する。過剰な所属意識は、個人である事を忘れさせてしまいます。例えば、私なら息子のお母さんという名前ではなく、親に貰った名前があるといった事です。
つまり、人間は社会に「所属」し、その文化を身につけること(社会化)によって、初めて人間となります。
そもそも我々は、「対立」「共存」「所属」の3つの対人関係から成り立っているわけですが、「所属」がまずなければ「共存」「対立」も不可能だと考えられます。例えば、喧嘩を「対立」 とあてはめると、罵声や暴力は共有されなければなりません。「対立」は共有される世界が相対的に少なく、「所属」は多いといえます。これは、
言い方の度合だと言えます。例えば、○○学校出身○○部OBといったものです。
つまり、「所属」は「対立」や「共存」とは色調的に大きいものだと言え、人間はその人々が集まった集合的な社会に所属していると言えるのです。また、社会に「所属」した人間は生活する上で、常に「対立」し「共存」しているのです。
以上のことから、石井秀夫氏の「人間は社会に『所属』し、その文化を身
につけること(社会化)によって、初めて人間となる」といった主張は可能です。筆者は、個人は社会によって作り上げられ、またいつしか「所属」「対立」「共存」として成り立つと述べています。
これらのことから、家族は個人と個人の「所属」「対立」「共存」を積み重ね、そしてその絆の深さに気づかされるものだといえます。
iPhoneからの投稿