《輝夜十二歳の年・宝月家》
母の部屋の濡れ縁から中庭に下りると、はらはらと散り急ぐ桜の花吹雪の中に輝夜はその小さい体をあずけた。見上げると木々の間からのぞく月は青く澄み、どこまでも上っていけそうな気がして両手を伸ばした。
「このまま天国のお母さまのところまで行けたらいいのに」
目を閉じると、昨年亡くなった美しい母・冴の笑顔が浮かんだ。
「輝夜様、旦那様がお呼びでございます。広間においで下さいませ」
侍女の瑠璃に呼びかけられて輝夜の空想は破られた。
「わかりました。すぐに行きます」
おそらくは明日の法事の件だろうと思いながら、輝夜は父・玄夜の待つ広間へと長い廊下を急いだ。
「お父さま、輝夜です。お呼びになりましたか」
「おお、輝夜か。入りなさい」
ふすまを開けると床の間を背に座った玄夜が輝夜を手招きした。
「ほかでもないが、輝夜。お前は今年幾つになるのだ」
「はい、中秋の名月の頃、十二歳になります」
「ふむ、まだまだ幼いな。お前にはまだ女手がいるであろう。冴が亡くなって一年になる。そこでわたしは考えたのだが、お前に新しい母を迎えようと思う」
「お父さま、わたしは新しい母などいりません。女手ならば瑠璃がよくしてくれております」
「そうは申すが、このところお前のふさいでいる様子をよく見かけておるぞ。亡くなった母のことばかり考えているのだろう。やはり侍女と母親では役割が違うのだ。それにな、新しい母とは申せ、お前の知らない人ではないぞ。よく知っている人だから、気を使うこともあるまい」
「お父さま、その方はどなたなのですか」
「うむ、紹介しよう。茜、入りなさい」
「茜ですって」
おどろく輝夜の前に一人の女が現れ、玄夜の横に正座をするとにこりと微笑んだ。それはかつて母付の侍女であった茜であった。
「お父さま、茜がわたしの新しい母になるということなのですか」
「そうだ。お前も小さい頃、茜を姉のように慕っておったではないか。茜ならこの宝月の家のしきたりも、お前のこともよく知っている。これほど安心して家を任せられる人はいないぞ」
「でもお父さま、お母さまが亡くなってまだ一年。それに明日は一周忌なのですよ。なぜ今そんなお話をなさるのでしょう」
「わかっておる。しかしわたしはもう決めたのだ。明日の法事の席で一族に報告するつもりだ。輝夜、お前もそのつもりでいなさい」
(お父さまはもう、お母さまのことなどお忘れなのだ)
輝夜は一人ぼっちになってしまったような寂しさを感じながら広間を出た。
つづく