《上限の月 亥の刻・鬼灯堂》
ガタン!
「助けて。お願いです。助けてください」
よもや戸が外れるのではないかという勢いで格子戸を開けて駆け込んだ洋子は、輝夜に向かって叫んだ。履いていたはずのつっかけが脱げ、両足の靴下は真っ黒に汚れていたが、それにすら気づいていなかった。
「どうされました」
奥の間からゆっくり輝夜が出てくるのが見えた。
「お義母さん、お義母さんを助けてください」
「洋子さん、落ち着いてください。お義母さんがどうかされたのですか」
「わたしが間違っていたんです。お義母さんを殺そうなんて恐ろしいことを考えて。もう二十日もあのろうそくを灯しているんです。毒は、今からでも毒消しはできますか」
「ああ、あれに毒など入っていませんよ」
必死の形相で問いかける洋子に、輝夜は場違いなほど呑気に答えた。
「えっ、でも」
「あのろうそくには気持ちの安らぐ野草を練り込んでいるだけです。アロマキャンドルと同じですよ」
「じゃあ、どうして急にお義母さんは変わられたのですか。青炎さんが輝夜さんの作るろうそくは特別だから効き目があるって」
「お義母さんが変わられたとしたら、それはあなた自身の力ですよ。あなたが本心はどうあれ、誠心誠意尽くされたことがお義母さんの頑なな気持ちを解かしたのです。そしてまたお義母さんの気持ちがあなたを正気に戻した。それだけのことです」
「じゃあ、お義母さんは死なないのですか」
「あのろうそくではね」
それを聞いたとたん洋子はへなへなと腰が抜け、縁に座り込んでしまった。
「ああ、ああ良かった」
「大丈夫ですか」
「ええ、ありがとうございます。もう大丈夫です」
洋子が立ち上がると輝夜が履物をそろえて前に置いた。
「こんな男物しかありませんが、よかったら」
「まあ、すみません。わたしったら」
赤面する洋子に、輝夜は小さな紙包みを差し出した。
「それから、これをお持ちなさい」
「これは」
輝夜は紙包みの中の幾つかのまん丸いろうそくを見せてくれた。
「水に浮くろうそくです。あのろうそくと同じ気持ちの安らぐ野草が入っています。これなら眠ってしまっても安全に使えますから、あなたもこれで、ぐっすりおやすみなさい」
「ありがとうございます。なんとお礼を申し上げたらいいのか」
「洋子さん、まだですよ。満月まであと九日。その日こそがあなたの満願成就の日ですから」
「はい」
洋子は輝夜に深々とお辞儀をすると、家路に急いだ。
《満月 二度目の十五夜 戌の刻・ 洋子宅》
「お義母さん、お茶が入りました。今日はデザートに無花果のケーキを焼いてみたんですよ」
「あら洋子さん、ありがとう。どれどれ、うーん、これはとっても美味しいわ。貴女は本当にお料理上手ねえ。私の奥さんにしたいぐらいだわ」
「まあ、お義母さんたら」
「おほほほ」
「うふふふふ」
二人のなごやかな笑い声が部屋中に満ちた時、リビングのドアが開いた。
「な、なんだ、これはいったいどうしたんだ 」
「あら武史」
「武史さん?」
洋子が振り向くと、そこには武史が目を丸くして驚いていた。
「武史、ほら見て。私はこんなに元気になったのよ」
昔のように、きちんと身支度をした母親が車椅子に背筋を伸ばして座っているのを見て武史はまるで信じられないものを見たかのように唖然としていた。
「今週からリハビリを始めたの。頑張ればまた歩けるようになるって先生から太鼓判もいただいたのよ、ねえ洋子さん」
「そうですよ、お義母さん、あんなに頑張ってらっしゃるんですもの。回復はきっとお早いですわ」
「母さん、洋子」
「武史、これもみんな洋子さんのお陰なのよ。どれだけ洋子さんが尽くしてくれたか感謝してもしきれないわ」
「まあお義母さん、そんな」
「そうか、そうだったのか」
突然、武史が洋子に頭を下げた。
「洋子、すまん。夕べまた母さんから帰ってこいという電話があったんだ。またかと思って聞いていたんだが、母さんの声がいつもとちがって明るかったんで、何か気になって見に来たんだよ。そうか、お義母さん、本当に良かった。洋子、何もかもお前ひとりに押し付けて俺が悪かった。母さんをこんなに大事にしてくれて、ありがとうな」
男泣きに泣きながら、謝る武史に洋子は胸を打たれた。
「武史さん」
洋子も鼻の奥がつんとなり、目がしらに熱いものが浮かんできた。
「洋子、母さん、俺、ここに帰ってきてもいいか」
「武史さん、当たり前です。ここは武史さんの家じゃありませんか、ねえお義母さん」
「そうだよ、武史、洋子さんもこう言ってくれているんだから、今からでも帰っておいで」
《寝待ち月 戌の刻・鬼灯堂》
「こんばんは」
鬼灯堂の格子戸を開けると、やはり青炎が今日も来ていた。
「ああ、洋子さん。いらっしゃい。その晴れ晴れとした顔は、満願成就しはったんやね」
「はい青炎さん。この度は本当にありがとうございました。無事願いが叶いましたので、今日はお礼に伺ったんですよ。この時間なら青炎さんもいらしてると思ったので」
「ほんならお姑さんは、そうかあ、ご愁傷様でした」
拝むように手を合わせる青炎に洋子はあわてた。
「ええっ、違うんです、青炎さん。義母は生きています。むしろすごく元気になって、私にもとても優しくしてくれるんですよ。それを見て夫も帰ってきてくれたのです」
「えっほんま。旦那さん帰って来はったん。それは良かったねえ」
「はい、元気になった義母の姿をとても喜んでくれて。『これもすべてお前のお陰だ。今までのことは謝る。もう一度やり直させてくれ』と頭を下げてくれて」
「そんで、向うの女の人とはトラブル無く?」
「はい、わたしにははっきり言いませんが、どうやらお金で済む方だったようです。夫との仲も最近では冷めていたところだったようで、意外にすんなりでした」
「洋子さん、優しいなあ。これまでのこと、そないあっさり許しはるんやね。わたしやったら、ぎゅうぎゅう言わせたあげくに、罰としてダイヤの指輪の一つでも買わせたるのになあ」
「これ、加代さん」
輝夜にたしなめられ、加代はペロリと舌を出した。
「はい、わたしとて一度は鬼になりました。義母を殺そうとまでしたのです。わたしの罪に比べたら一度浮気されたぐらいが何だと思えるんです。今までわたしは自分が幸せになることばかり考えていました。義母や夫のつらい気持ちをまったく思いやってあげていなかった。だから夫も居場所を無くしていたんだと、それに気づいたんです。これからは、わたし強くなります。何があってもどんと構えて受け止められるように」
「強なったなあ、洋子さん。かっこええで」
「はい、青炎さん。ありがとうございます。それから鬼灯さん、遅くなりましたが、これをどうぞお受け取りください」
にっこり笑うと洋子は用意してきた菓子折りと謝礼の入った封筒を輝夜に差し出した。輝夜はそれらを有り難く受け取ると、中を確かめるでもなく座卓の上に置いた。そして入れ代わりに見事な柘榴の花の絵付けをしたろうそくを数本入れた化粧箱を洋子に渡した。
「これは子授けのろうそくです。 火を付けずともよいので、寝室に飾ってください」
「まあ、きれい。ありがとうございます」
「これで来年は洋子さんもお母ちゃんになれるわ。それでこそ、ほんまの満願成就やね」
青炎の言葉を聞いて、洋子はふと気になっていたことを尋ねてみた。
「鬼灯さんは、初めからこうなるとわかっていらっしゃったのですか」
「ええまあ、古今東西、昔話の『毒の粉』ですから」
洋子はその話を知らなかったが、初めて笑顔となった輝夜の顔に見とれてしまい、どんな話なのかは聞きそびれてしまった。
改めてもう一度、二人に礼を言い店を出た洋子を寝待ち月が照らしていた。
「ああ、なんてきれいなお月様なんでしょう。ここで一句。『子宝の柘榴を持ちて 寝待月 きみの元へと われ急ぐなり』なあんてね。さ、帰ろう」
月光もかすかに笑ったようだった。
第一夜 完