課題『探偵×ミステイク』
『ミステイク』 あべせつ
女が前を通り過ぎるとプワゾンの匂いがあたりにたちこめた。一昔前に流行ったキツい匂いの香水だ。危険な熟女を連想させるこの匂いを、まだあどけない女子大生の彼女がつけていて戸惑ったことがあった。その頃を境に急激に大人びていく彼女との間に、何かしら歯車がずれ始めて、卒業と同時に別れてしまったが、今頃はこの香水が似合う女になっているだろう。
シティホテル上階の廊下の陰に張り付いて、そんな回想にひたっている間に、プワゾンの女はターゲットの男がいる部屋にたどりつきドアをノックしていた。カチャリと音がしてドアが開き、中から中年の男が首だけ出して当たりを伺うと、女の腕をつかんで中に引き込んだ。
俺は柱の陰から、その一部始終をカメラに収めた。あとは女を尾行して、どこのどいつか調べるだけだ。素人女なら泊まりのこともあるが、プロなら小一時間もすれば出てくるはずである。プワゾンの女は十中八九プロとふんだ俺は車で張り込むことにした。
案の定、一時間かっきりで女はホテルから出てくるとタクシーを拾った。
そして人通りの少ない裏道を抜けさせたかと思うと、大通りでは何度もタクシーを乗り換えた。追尾する側がもっともいやがる方法を女は知っていた。
挙げ句の果てに、いきなりタクシーを地下へと潜る階段に横付けさせると、脱兎のごとくその穴に逃げ込んで消えてしまった。相棒がいれば徒歩で追わせることもできるが、こういうとき車を乗り捨てては行けないローンウルフは分が悪い。
とりあえず浮気現場の写真は手に入れた。これで依頼主は希望通り、亭主にびた一文支払わずに家から叩き出せるだろう。俺の仕事はここまででも充分だったが、自分を翻弄した女の素性を知りたくなった。してやられた敗北感に、探偵としてのプライド、いや、そんな建前はどうでもいい。結局俺はその女が気になってしかたがなかったのだ。
その夜からすぐに聞き込みを始めた。あの女の写真をその筋の者に当たれば蛇の道は蛇。きっとすぐに割り出せるに違いない。
ところが案に相違してなかなか女は見つからなかった。
「こんな上玉なら一度見りゃ覚えてるぜ。こいつはプロじゃねえな」
この界隈で幅を利かせている女衒たちですら見たことがないと言う。
店に雇われている女じゃないということなのか。なら、あの亭主はどうやってあの女を呼び寄せたのだろう?
こうなるともう仕事そっちのけの個人的な好奇心のかたまりとなってしまい、あとには引けなくなっていた。
俺は再び、あの男を張ることにした。
ところがこの一週間、男は自宅と会社の往復だけで、まったく寄り道をしない。
これ以上、時間をかけるわけにもいかないとあきらめかけたその時、女が目の前に現れた。いや現れたなんてもんじゃない。張り込み中の俺の車の助手席に乗り込んできたのだ。
「久しぶりね」
言われた言葉の意味がわからず黙っていると、女は
「むかしの女を忘れたの?」と冷笑した。
車内にプワゾンの香りがむせかえり、俺の遠い記憶を呼び覚ました。
「礼子なのか?」
濃い化粧をほどこした仮面の下に、学生時代のあのあどけない面影を見いだそうと目を凝らしたが、薄闇がそれを邪魔していた。
「フィルムをちょうだい」
黙り込む俺に礼子はたたみかけた。
「あなたには貸しがあったわよね」
そうだ。俺は礼子に借りがあったのだ。
仕方なくカメラからフィルムを抜いて渡した。礼子はそれをハンドバッグに放り込むと車を降りた。
「また会えるのか」
呼びかける俺に礼子は振り返らなかった。
あれは本当に礼子だったのだろうか。
翌日、事務所に来た依頼主に、ご亭主は浮気などしていなかったと報告した。
そんなはずはない。あんたは無能者だと口から泡を飛ばしてののしる依頼人に報酬の話などできるはずもなく金も信用も大赤字だ。
まあしかたがない。今回は色気心を出した俺のミステイクだ。アダムとイブの時代から、女がからむとロクなことがない。
気分転換にドライブでもしようと乗り込んだ車にはまだ残り香が居座っていた。
プワゾンとはよく名付けたもんだな。
俺は窓を全開すると沈む太陽めがけて走り出した。
完