第23回課題
五分間のドラマ(作中で扱う時間が五分間の小説)
『五分間の恋』 あべせつ
その人は向かいのホームに立っていた。
阪急今津線小林駅のホームは、すぐ後ろに六甲山を背負い、そこから吹き降ろす強風に年がら年中あおられている。
夏場には心地よい風も、冬の冷たい木枯らしに切り替わると、身を切られるようで居てもたってもいられない。
そこで大抵の乗客たちはエアコンの効かされた、暖かいが澱んだ空気に満たされている待合室に避難していた。
小さいボックスは見知らぬ人々で満たされ、席からあぶれた人たちは皆、身の置き所がないように三々五々のほうを向いて立っている。
亜矢子はこの光景を見ると、いつも水族館を思い出す。
大きな水槽で悠々と泳ぐ大魚たちの姿ではなく、おまけのように別室に展示されている、ありふれた小魚たちの小さな水槽。
せまい空間に押し込められ、うすぼんやりとした照明の中を、こちらを向いて口をパクパクさせている感情のない冷えた目をした小魚たちの群れ。
そうした連想を抱かせるせいか、なんとなく哀れな思いがして、亜矢子はどんなに寒い時でも決してボックスには入らなかった。
電車が来るまで、あと五分。
吹きすさぶ木枯らしを無真正面から受け止めホームの最前列に一人立ち、電車を待つ。
それが亜矢子の矜持であった。
亜矢子は大阪の中堅クラスの税理士事務所に勤めていた。
幼い頃より成績が良い分プライドが高く、およそ可愛げがないと親からも言われた自分には営業職は無理だとわかっていた。
顔立ちは決して悪くはないのであるが、きつく結ばれ、決してほころぶことのない口元や
かすかに寄せられた眉間のしわが男性を遠ざけさせていた。
自分はおそらくは一生一人でいるのだろう。
そうした思いから接客のない事務職の内勤で資格のとれる仕事をと選んだ就職先であったが、結局は自分の担当する顧問先へはこちらから月に一度は出向かねばならず、二十件も抱えているとほぼ毎日のように外回りをせねばならなかった。
それでも他の営業職のように愛想や愛嬌を必要とする職種でないことが幸いし、むしろその固い外見は顧客の信頼を得やすく、亜矢子はもう八年、この仕事を続けていた。
大学の同級生たちは次々と結婚をし、独身でいるのは亜矢子だけになってしまった。
職業柄、一流とされる男性ばかりを見てきた亜矢子は、手近にいる男たちといとも簡単にくっついていく同級生たちを心の底では軽蔑していた。
昨年、亜矢子は税理士試験を合格した。、
お局様となり、そろそろ居づらくなった事務所を退職し、個人事務所を開業することを考えていた。男なんて出世の邪魔にしかならない。亜矢子はそう、うそぶいていた。
向かい側の電車が大勢の人を吐き出し、その巨体を揺らして出て行ったあと、誰もいなくなったホームに、その人はいた。
今の電車に乗り遅れたのか、あえて乗らなかったのか。
次の電車までには、まだ一五分はあるのに、
その人は待合室には入らず、ちょうど亜矢子の前あたりにすっくりと立っていた。
遠目に見ても一目で上質とわかるベージュの仕立てのよいコートが彼の長身によく似合っている。
アタッシェケースを左手に、右手には皮のカバーのかかった文庫本を持っている。
彼はその文庫本を広げて読み始めた。
彼が手にしているのが安っぽい内容の週刊誌や携帯電話の画面でないことに亜矢子は好感を覚えた。
知的で育ちの良さが感じられたからだ。
突然、六甲おろしが吹きおろし、文庫本があおられて地面に落ちた。
彼はばつが悪そうに拾い上げると、反対側にいる亜矢子に気づいて、ふと恥ずかしそうに笑った。
亜矢子の胸がキュンとなり、たちまち恋に落ちてしまった。こんな人と一緒になれたら。
どこの誰ともわからない。電車が来たら、もう二度と会えないかもしれない。今、反対側のホームに行けば、何かか変わるかも。
はやる心の亜矢子の前に電車が入ってきた。
満員の人を乗せた電車の扉ガラスに、自分の顔が映っているのが見えた。
三十路を超えた疲れたオールドミスの顔。
亜矢子はひとつ溜息をつくと、満員電車の中にわが身を押し込んだ。完