エルンスト・ユンガーの鋼鉄の体験と人口知能
毎月の定例の研究会は、ほぼ土曜日に行われていたが、今月は都合により5月15日の日曜日になった。土曜日は翌日が休みなので、参加者も時間的なゆとりがあるのに対し、日曜日は翌日は仕事なので、どうだろうかと思ったが、いつもと、ほぼ変わらないくらいの参加があった。回によって参加者の顔ぶれも、大体、半分ほどは異なるが、昨日は、比較的年齢の高い人(といっても40代前後だが)が多く、20代は少なかったように思う。
事前告知したようにエルンスト・ユンガーについての拙論を読んだが、少し内容を変えた。最初は、2009年頃に書いたワイマール戦間期のユンガーのナショナリズムについての文章を読む予定にしていたが、その前にナショナリズムの前提となるユンガーについても取り上げた方がいいと考え、1977年、私が27歳の頃に『現代の眼』という雑誌に書いたユンガー論を読むことにした。これは、ユンガーの第一作である『鋼鉄の嵐の中で』等の、彼の初期の戦争作品を取り上げ、その内容や戦争体験の様相、そしてそれを表現するユンガーの言葉について考察した文章だ。しかも、戦後世代では、最初のユンガーについての批評性を持った(ということは教科書的ではない)文章だと思う。書いたのが、まだ1970年代の後半であり、市民社会の可視的な風景からは、1968年闘争期の痕跡は消えていたが、私の中では、自分の闘争体験についての思想的な問いや総括が残っていた。その前に「総破壊の使徒バクーニン」という約400枚ほどのバクーニン論を『情況』に連載して、私自身の1968年闘争期のバクーニン主義的なアナキズムの総括を行い、次いで1968年闘争期のゲバルト体験、つまり暴力体験だが、それを総括したいと思いエルンスト・ユンガーに取り組み始めたのだった。なぜユンガーなのかというと、私は1968年として語らられる1970年前後の闘争は、政治闘争というより、性格的には一種の軍事闘争としての戦争(内戦)と考えている。つまり、政治的交渉ではなく、武装した部隊による実力行動だからだ。ブントの「丸太抱えて防衛庁」闘争や東大安田攻防戦は分かりやすい事例だろう。ゲバルトとは暴力であり、暴力は行使する相手の言語を封殺するところがある。逆に、こちらが封殺される場合もある。そのような暴力の行使体験をした者が、言葉に依拠した思想をやることは出来るのか、そんな言葉は、暴力を隠蔽した欺瞞ではないのかというのが、私がユンガーをやり始めた頃の問題意識だった。ユンガーは文字通り20歳前後に第一次世界大戦の最前線で壮烈な戦闘体験を重ね死地を潜っている。戦争は、端的に敵を殺すことだが、殺すとは、相手から言葉を奪うことでもある。だから、そのようなユンガーが、言葉をどのように考え、どのように言葉を獲得し、如何なる表現をしたのかということに強い関心があったのだった。
だが、当時、ユンガーをやるには一つの困難があった。まず、今日と異なり、東大の独文の院生クラスでもユンガーを知らない者がザラであり(これは、日本の独文学界の本質的な問題として思想化出来る)、また翻訳がなかったことだ(最近は、少しずつ翻訳も増えているが、それでもユンガーの著作の、ごく一部にすぎない)。だからユンガーを読むためには、当たり前の話だがドイツ語が必要になる。私は、69年に京大の入試に落ちたままの高卒者であり、改めて一からドイツ語をやる必要があった。
今回は、「エルンスト・ユンガーの体験──鋼鉄の嵐とその言葉」の前半を読んだ。次回は後半を読み、次々回に、当初の目的だったユンガーのナショナリズムについての拙論を読み始めることにする。
今回は、来阪していた東京で美学校で講座を開いている美術家の中ザワ・ヒデキ氏と、11月に阿佐ヶ谷で「凸凹絵画─バルス」を開く予定の草刈ミカさんの参加があった。中ザワ氏とは、人口知能自身が行う美学と芸術について中ザワ氏たちが立ち上げた「人口知能美学芸術研究会」のことや人工知能について、やはり強い関心を持つ小灘君共々、反芸術から芸術の外部、私流にいえば、物理としての超芸術について、あれこれと話しをした。この人口知能の問題は、私の関心に引き寄せれば、ユンガーの『労働者』の理解について、面白いヒントを与えてくれたと思う。 研究会は、内容的には、思想から政治、文学、芸術まで多岐に及んでいるが、そのため、思想や政治だけでなく、音楽や美術、演劇、映像と芸術や表現関係も、遠路、東京からの参加者も含め、交流が多彩になっている。 いつもは、土曜日だから翌日が日曜ということで、交流会は、時には、早朝の6時頃まで続くことも少なくないが、今回は日曜で、翌日が月曜ということもあり、例外的に午前1時頃に解散した。
事前告知したようにエルンスト・ユンガーについての拙論を読んだが、少し内容を変えた。最初は、2009年頃に書いたワイマール戦間期のユンガーのナショナリズムについての文章を読む予定にしていたが、その前にナショナリズムの前提となるユンガーについても取り上げた方がいいと考え、1977年、私が27歳の頃に『現代の眼』という雑誌に書いたユンガー論を読むことにした。これは、ユンガーの第一作である『鋼鉄の嵐の中で』等の、彼の初期の戦争作品を取り上げ、その内容や戦争体験の様相、そしてそれを表現するユンガーの言葉について考察した文章だ。しかも、戦後世代では、最初のユンガーについての批評性を持った(ということは教科書的ではない)文章だと思う。書いたのが、まだ1970年代の後半であり、市民社会の可視的な風景からは、1968年闘争期の痕跡は消えていたが、私の中では、自分の闘争体験についての思想的な問いや総括が残っていた。その前に「総破壊の使徒バクーニン」という約400枚ほどのバクーニン論を『情況』に連載して、私自身の1968年闘争期のバクーニン主義的なアナキズムの総括を行い、次いで1968年闘争期のゲバルト体験、つまり暴力体験だが、それを総括したいと思いエルンスト・ユンガーに取り組み始めたのだった。なぜユンガーなのかというと、私は1968年として語らられる1970年前後の闘争は、政治闘争というより、性格的には一種の軍事闘争としての戦争(内戦)と考えている。つまり、政治的交渉ではなく、武装した部隊による実力行動だからだ。ブントの「丸太抱えて防衛庁」闘争や東大安田攻防戦は分かりやすい事例だろう。ゲバルトとは暴力であり、暴力は行使する相手の言語を封殺するところがある。逆に、こちらが封殺される場合もある。そのような暴力の行使体験をした者が、言葉に依拠した思想をやることは出来るのか、そんな言葉は、暴力を隠蔽した欺瞞ではないのかというのが、私がユンガーをやり始めた頃の問題意識だった。ユンガーは文字通り20歳前後に第一次世界大戦の最前線で壮烈な戦闘体験を重ね死地を潜っている。戦争は、端的に敵を殺すことだが、殺すとは、相手から言葉を奪うことでもある。だから、そのようなユンガーが、言葉をどのように考え、どのように言葉を獲得し、如何なる表現をしたのかということに強い関心があったのだった。
だが、当時、ユンガーをやるには一つの困難があった。まず、今日と異なり、東大の独文の院生クラスでもユンガーを知らない者がザラであり(これは、日本の独文学界の本質的な問題として思想化出来る)、また翻訳がなかったことだ(最近は、少しずつ翻訳も増えているが、それでもユンガーの著作の、ごく一部にすぎない)。だからユンガーを読むためには、当たり前の話だがドイツ語が必要になる。私は、69年に京大の入試に落ちたままの高卒者であり、改めて一からドイツ語をやる必要があった。
今回は、「エルンスト・ユンガーの体験──鋼鉄の嵐とその言葉」の前半を読んだ。次回は後半を読み、次々回に、当初の目的だったユンガーのナショナリズムについての拙論を読み始めることにする。
今回は、来阪していた東京で美学校で講座を開いている美術家の中ザワ・ヒデキ氏と、11月に阿佐ヶ谷で「凸凹絵画─バルス」を開く予定の草刈ミカさんの参加があった。中ザワ氏とは、人口知能自身が行う美学と芸術について中ザワ氏たちが立ち上げた「人口知能美学芸術研究会」のことや人工知能について、やはり強い関心を持つ小灘君共々、反芸術から芸術の外部、私流にいえば、物理としての超芸術について、あれこれと話しをした。この人口知能の問題は、私の関心に引き寄せれば、ユンガーの『労働者』の理解について、面白いヒントを与えてくれたと思う。 研究会は、内容的には、思想から政治、文学、芸術まで多岐に及んでいるが、そのため、思想や政治だけでなく、音楽や美術、演劇、映像と芸術や表現関係も、遠路、東京からの参加者も含め、交流が多彩になっている。 いつもは、土曜日だから翌日が日曜ということで、交流会は、時には、早朝の6時頃まで続くことも少なくないが、今回は日曜で、翌日が月曜ということもあり、例外的に午前1時頃に解散した。