古都と首都機能都市
古都と首都機能都市
帰路につく女性戦士
そこで、ふと思ったことは、その女性は、風俗系のコンパニオンとでもいうのだろうか、つまり性的な仕事に従事する女性であり、おそらく、近くにある何処かの客の家に泊まるか何かで、性的な仕事を行った後、帰路についたのではないかということだ。近辺は、元の地主などの古い旧家も少なくなく、また、比較的、高齢者が多い処だが、そのような処に、まだ若い性的コンパニオンを呼ぶような人間がいるとすれば、意外なことでもある。
私は、30歳頃、まだ東京の西新宿に住んでいた頃だが、スポーツ紙や娯楽誌の記者兼ライターという仕事を、私には珍しく数年ほどしたことがあった。その当時は、性的な風俗業界には仕事の関係から通暁していたが、その後は、そのような世界とは、ほぼ全く無縁になっていたので、その現状はどうなっているのか、よく知らない。
ただ、個人的には、性的な風俗業に従事する女性たち、例えば、ソープからデリヘル、さらにはAVに至るまで、そのような女性たちに対して、私は奇妙な親近感がある。20代半ばの頃、少林寺拳法2段の腕と、うまが合ったことで、美貌で知られたストリッパーの用心棒になったことがあり、また20代の最後の年に、その頃に別れた内妻と所用で会うため、彼女の郷里を訪れた時、地方の小都市の夜が早いことが分からず、夕食を食べそこねたことがあった。そのような時に、夜の街で娼婦から声をかけられたのだが、私は、性よりも食事であり、そのことを言うと、親切な娼婦は、彼女たち専用とでもいうような、夜遅くまでやっている食堂へ案内してくれた。店内では、何人かの娼婦が、夜の戦を終えた後の腹ごしらえでもしている様子だった。そこで、しばらく食事をしながら彼女たちと、とりとめもない世間話をした。その時、彼女たちに不思議な親近感を覚えたのだった。
それは、少し前まで、政治闘争に従事していた自分を戦士と自己規定していたことと、戦士と娼婦の、いわれるところの最古の職業的一対性の感覚に依るものだったかもしれない。娼婦の女性たちからすれば、脳天気な男と思うかもしれないが、ジョセフ・ド・メーストルが言うように戦争が聖なる行為だとすれば、性も文字通り同様で、それに従事する戦士と娼婦もまた同様だ。
話を戻せば、私が早朝に見かけた女性だが、彼女は、性の戦士としての任務を終え、作戦地域から撤収していったのだろう。
※写真は、単なるイメージ画像。
米国の原爆攻撃は犯罪なのか。
エルンスト・ユンガーの鋼鉄の体験と人口知能
事前告知したようにエルンスト・ユンガーについての拙論を読んだが、少し内容を変えた。最初は、2009年頃に書いたワイマール戦間期のユンガーのナショナリズムについての文章を読む予定にしていたが、その前にナショナリズムの前提となるユンガーについても取り上げた方がいいと考え、1977年、私が27歳の頃に『現代の眼』という雑誌に書いたユンガー論を読むことにした。これは、ユンガーの第一作である『鋼鉄の嵐の中で』等の、彼の初期の戦争作品を取り上げ、その内容や戦争体験の様相、そしてそれを表現するユンガーの言葉について考察した文章だ。しかも、戦後世代では、最初のユンガーについての批評性を持った(ということは教科書的ではない)文章だと思う。書いたのが、まだ1970年代の後半であり、市民社会の可視的な風景からは、1968年闘争期の痕跡は消えていたが、私の中では、自分の闘争体験についての思想的な問いや総括が残っていた。その前に「総破壊の使徒バクーニン」という約400枚ほどのバクーニン論を『情況』に連載して、私自身の1968年闘争期のバクーニン主義的なアナキズムの総括を行い、次いで1968年闘争期のゲバルト体験、つまり暴力体験だが、それを総括したいと思いエルンスト・ユンガーに取り組み始めたのだった。なぜユンガーなのかというと、私は1968年として語らられる1970年前後の闘争は、政治闘争というより、性格的には一種の軍事闘争としての戦争(内戦)と考えている。つまり、政治的交渉ではなく、武装した部隊による実力行動だからだ。ブントの「丸太抱えて防衛庁」闘争や東大安田攻防戦は分かりやすい事例だろう。ゲバルトとは暴力であり、暴力は行使する相手の言語を封殺するところがある。逆に、こちらが封殺される場合もある。そのような暴力の行使体験をした者が、言葉に依拠した思想をやることは出来るのか、そんな言葉は、暴力を隠蔽した欺瞞ではないのかというのが、私がユンガーをやり始めた頃の問題意識だった。ユンガーは文字通り20歳前後に第一次世界大戦の最前線で壮烈な戦闘体験を重ね死地を潜っている。戦争は、端的に敵を殺すことだが、殺すとは、相手から言葉を奪うことでもある。だから、そのようなユンガーが、言葉をどのように考え、どのように言葉を獲得し、如何なる表現をしたのかということに強い関心があったのだった。
だが、当時、ユンガーをやるには一つの困難があった。まず、今日と異なり、東大の独文の院生クラスでもユンガーを知らない者がザラであり(これは、日本の独文学界の本質的な問題として思想化出来る)、また翻訳がなかったことだ(最近は、少しずつ翻訳も増えているが、それでもユンガーの著作の、ごく一部にすぎない)。だからユンガーを読むためには、当たり前の話だがドイツ語が必要になる。私は、69年に京大の入試に落ちたままの高卒者であり、改めて一からドイツ語をやる必要があった。
今回は、「エルンスト・ユンガーの体験──鋼鉄の嵐とその言葉」の前半を読んだ。次回は後半を読み、次々回に、当初の目的だったユンガーのナショナリズムについての拙論を読み始めることにする。
今回は、来阪していた東京で美学校で講座を開いている美術家の中ザワ・ヒデキ氏と、11月に阿佐ヶ谷で「凸凹絵画─バルス」を開く予定の草刈ミカさんの参加があった。中ザワ氏とは、人口知能自身が行う美学と芸術について中ザワ氏たちが立ち上げた「人口知能美学芸術研究会」のことや人工知能について、やはり強い関心を持つ小灘君共々、反芸術から芸術の外部、私流にいえば、物理としての超芸術について、あれこれと話しをした。この人口知能の問題は、私の関心に引き寄せれば、ユンガーの『労働者』の理解について、面白いヒントを与えてくれたと思う。 研究会は、内容的には、思想から政治、文学、芸術まで多岐に及んでいるが、そのため、思想や政治だけでなく、音楽や美術、演劇、映像と芸術や表現関係も、遠路、東京からの参加者も含め、交流が多彩になっている。 いつもは、土曜日だから翌日が日曜ということで、交流会は、時には、早朝の6時頃まで続くことも少なくないが、今回は日曜で、翌日が月曜ということもあり、例外的に午前1時頃に解散した。
右翼と保守の違い
●去年、ここでも書いたが福岡の九州ファシスト我々団の本営に行った折、その交流会で、九州尊皇派として活動する藤村修君から、時局対策協議会(時対協)に関係する攘夷戦闘紙『皇道日報』に、私の言葉が引用されていると教えてもらった。『皇道日報』は、数年前、東京での右翼の内部検討会にオブザーバーとして参加を求められた時の会合で会った防共新聞社の福田邦宏氏が関係する媒体だが、時対協の若き理事の『Will』に対する行動を見る時、上記の新風京都の人士の言葉を思い出した。
●昨今、右翼と保守は、しばしば混同され、区別がつかなくなっているが、拙論「日本は天孫降臨以来の革命国家である」(拙著『思想としてのファシズム──「大東亜戦争」と1968』彩流社刊、所収)でも述べたように、右翼には保守とは異なる存在の意味があり、これを見失った右翼は、保守に呑み込まれ、体よく利用されるだけになるだろう。時対協の若い理事の行為は、保守とは異なる右翼の存在する意味を示したと思う。
●保守の人間が言った「廃太子」云々発言に関連していえば、私は、それとは逆に、現皇太子の次の天皇は、秋篠宮家の悠仁親王ではなく、現皇室典範を変更する必要があるかもしれないが、愛子内親王が、男系の女性として過去にもあった天皇になるべきだと思う。悠仁親王は、愛子内親王の後に天皇になるべきだろう。
右を見ても左を見ても真っ暗闇じゃござんせんか
資本の総動員としてのグローバリズム
●政治といえば、現実を維持したり改変することと解され、それに応じて政治勢力も一方の保守から他方の革新にまで到る。その政治の組織論は、保守、革新を問わず選挙だが、むろんそれだけが政治ではない。そのような政治をトータルに否定する政治があるからだ。だがそのような政治は思想に亡命している。
●安倍の背後勢力でもある日本会議と、反安倍を叫ぶSealdsは、一見、対極的なようだが、政治的には似た者同士ではないか。日本会議は、右翼の現存国家を否定する国家創造的な民族派を、Sealdsは、左翼の現存国家を否定する国家止揚的な革命派を、それぞれ敵視しているからだ。
●グローバリズムにおいては、国家は秩序の基礎とはならない。近代以前においては教会だったが、グローバリズムにおいては会社だろう。近代の左翼の革命論や右翼の民族論が、政治的現実としては困難になっているのは、近代的な国家や民族は事実上、終わりつつあるからだといえる。
●その意味では、社会科学の基盤となるのは、法学段階から政治学段階を経た後の経済学の段階も過ぎ、経営学になるだろう。
●要するに生き残りであり、サバイバルだが、パナマ文書の問題もそれに関連している。パナマ文書により、富裕層の資産隠しが問題になっているが、これもまたグローバリズムの問題と繋がる。その有限的な限界が具体化した地球においては、もう無限の生産は不可能なのだから、富裕層にしてみれば、零落しないためには手持ちを温存しなければならないということだろう。
●エルンスト・ユンガーがナショナリストからアナルクに転じたことを多くのユンガー研究は解明出来ていない。しかし、これは彼の『労働者』が軍秩序のグローバル性を把握 していたことを見れば分かる。ユンガーの労働者の世界は、近代の秩序や革命、民族を超えたものとなっている。資本主義はグローバリズムの段階において、ユンガーが言った「総動員」に、対極的に追いついたといえる。グローバリズムとは、資本主義の総動員であり、市民の会社員化だ。かつての兵士・労働者と市民の対立は、アナルクVS会社員となる。
(※以上は、Twitterからの適宜、転載。)
研究会の二次会は、早朝の6時半まで続いた
●研究会の後半で、私が執筆予定のワーグナー論の話をし、以前に、彼方から神の声が、使命の声が、蜂起の声が聞こえる音楽の例としてあげた『ローエングリン』前奏曲を流し、しばし皆で聴く。
●ベケットの一人演劇を行っている演劇俳優の菅原顕一氏の東京から研究会参加があり、1970年代から現在に到るアングラ演劇の移り行きを、寺山修司の天井桟敷や新宿の花園神社の赤テントの頃の唐十郎から芥正彦、大駱駝館等の懐かしい名前や、2月にその演劇トークに参加した土方巽に繋がる舞踏的演劇の解体社まで、あれこれと話す。
●日独伊三国同盟の思想の問題からヨアキム主義と「第三」の神話に触れ、カンディンスキーからシュタイナー、さらにナチスとオカルトに話が転じた時、半常連的参加者である映像と錬金術の研究者である松本夏樹氏が、いろいろと奥義的な話を展開。
●Toraryの責任者の小灘君は、ドイツ・ロックに詳しい研究会参加者の宮川君と共に、私が「ファシスト唯美派」と勝手に銘打ったノイズ表現の活動を企画しているようだ。ちなみに宮川君は、やはりドイツ・ロックに詳しい九州我々団の東野君とは盟友であり、活動の広がりも期待される。
●何を馬鹿なという人もいるかもしれないが、二次会で、極左あるいは左翼の革命派(社民や構改系左翼や文化左翼ではない)が甦生するには天皇を肯定するしかなく、また極右あるいは右翼の維新革命派(体制派や保守右翼ではない)が甦生するには現天皇ではなく神武天皇の大御心に依拠するしかないという話が出た。
●政治では、個人的にはあまり興味はないが、安倍政権の性格や安倍晋三という人物の政治的背景を、母方の祖父の岸信介を含めた戦後日本の保守の分析から、あれこれと話す。つまり、安倍政権の奇妙な「左翼性」の実態は何であり、何に由来するのかということについて。また小沢一郎の黒幕的術策には長けているのにひきかえ、意外なほどの政治力の無さについて雑談。
●今回、予定していたユンガー論の講読は次回に回し、さらに今後の予定としとしては、私が1969年のアナキスト革命連合(ARF)等での活動体験を踏まえ、70年反安保闘争の後、1971年に21歳の時に書き、『情況』の1972年2月号に発表した「無政府主義革命の黙示録」(『歴史からの黙示』所収)を読み、1970年前後の時代の空気の充満した左翼革命派の理論表現の内容を取り上げ、さらに日本書紀や北畠親房『神皇正統記』等の講読を考えている。
今月の定例の研究会の告知
●今月の定例研究会は、4月16日(土)、PМ6:00~9:00。以降は随時解散まで思想や芸術、政治等について自由に談義する二次会。今回は、拙稿
「革命は電撃的に到来する」を読み、取り上げている戦間期のユンガーについて解説する。場所は、いつものように難波・千日前の味園ビル2FのTorary
Nand。自由参加で、費用は無料だが、ワンドリンク制。
●戦間期のユンガーとは『鋼鉄の嵐の中で』から『労働者』までのユンガーであり、その時期のユンガーの戦争論、革命論、ナショナリズム論、総動員論などの構造的な全体像の端緒でも展開出来ればと思う。
●「革命は電撃的に到来する」は、その生涯の約半分にあたる36年半を断続的に牢獄で過ごし、牢獄の革命家といわれ、武装蜂起のカリスマ的革命家でもあり、ベンヤミンによればニーチェ的な永劫回帰の思想の持ち主だったったブランキの言葉。
●Torary
Nandは、関西のマリネッティ主義的未来派の芸術集団並びに民族の意志同盟関西支部のスペースであり、月一回の定期研究会の他にも、様々な表現の画廊的
スペースにも転じ、普段は、正体不明の店(?)として、毎週、木・金・土とPM7:00頃よりオープンしており、興味の在る方は是非立ち寄られたい。
●極左も極右も、ファシストからアナキスト、ボルシェヴィキ、国体論者、唯美主義者までが集う定例研究会の二次会は自由な歓談をしており、他ではなかなか
接することの出来ない思想の内容や、また一般にはなかなか分からない左翼や極左、右翼や極右の現実や思想、また個々的な評価等について、興味のある方は知
ることが出来るだろう。
●むろん自由な二次会なので、思想関連の話ばかりではなく、また若い者の参加も少なくないため、禁煙や借金解消、恋愛その他から、思想書の読み方、語学の
学び方に到るまで、その時の雰囲気でいろんな話が登場したりもする。何か悩み事でもある人は、立ちどころに悩みも解消する可能性もあることを(効果ではな
く、個別的な体験の感想として)付言しておきたい。