ミュージック・ペンクラブ・ジャパン(MPC,J)のウェブサイト「クロスレビュー」欄に『ウエスト・サイド物語』について書きました。1961年日本公開時の思い出、近く公開予定のスティーヴン・スピルバーグ監督のリメイク版、への期待などに触れています。


 なおMPC,Jは1966年設立、会員数約160名、会長石田一志氏。クラシック、ポピュラー、オーディオ各分野の評論家、ライター、編集者などペンで音楽に係るプロフェッショナルの集う組織です。私は創立時からのメンバーです。 

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 ブロードウェイ開幕が1957年、映画化が61年、映画の日本公開は61年 12月、クリスマス・シーズンだった。70ミリスクリーンの迫力もあって、「ウエスト・サイド物語」の人気は一挙に高まる。私の周辺でも寄ると触るとこの映画の話題で持ち切りだった。映画「ウエスト・サイド物語」はこの作品自体の凄さだけではなく、ミュージカルというジャンルの凄さにも世間の目を向けるふしさえあった。


 永六輔が「『ウェスト・サイド物語』に最敬礼」というすこぶる興味深い文章を残している。アーヴィン・シュルマン作、大久保康雄訳「ウェスト・サイド物語」(映画のノヴェライゼーション本、日本版62年刊)に解説文として収められている。まず映画公開以前からいかにこの作品の熱烈なファンだったか、次のように書く。

 

人さまざま。語り継がれる

60年前の衝撃

 

 「ミュージカルのLP(オリジナル・キャスト盤)を集め始め、そのLPを聞くだけで舞台を想像し、胸をはずませるようになってからでも、『ウェスト・サイド物語』のLPほど興奮を味わったものはない。


 LPを頼りに、取り寄せたプログラムや舞台写真を並べ、もしニューヨークでこの舞台を見たという人があると、その実際の様子を聞きにいった。


 中島弘子サン、井原高忠サン、中村八大サン……。


 ニューヨーク・フィルが来日した時は、作曲家のレナード・バーンスティンのサインが欲しくて追いかけまわした…」

 今と違いブロードウェイがいかに遠かったことか。ちなみに中島弘子は服飾デザイナー、NHKテレビの音楽番組「夢で逢いましょう」でホステス役を務め人気が出た。井原高忠は日本テレビ「光子の窓」などで知られる名プロデューサー、ディレクター、中村八大はジャズ・ピアニスト出身、いわずと知れた「上を向いて歩こう」の作曲家である。


 もともと「ウエスト・サイド物語」の魅力にとり憑かれていた永は映画をどう見たか。

 「ファースト・シーンは豪華な顔見せ興行とでもいいたいところ。そして実際の街、つまりアスファルトで踊っているとは感じさせない演出の心憎さ。ここにこの映画のすべてがある。


 アメリカの良いところ、悪いところをゴチャゴチャにして、それを現代の魅力、エネルギーにまで高めたスタッフの根性に最敬礼…」

 永のこのような文章は、映画を見て脳天をうち砕かれたかのように感じた日本の観客の気持をそのまま代弁しているものと思われる。


 あの頃、洋画の大作ロードショウは現在のような大規模展開はなかった。「ウエスト・サイド物語」は私や私の友人たちは皆、有楽町ピカデリーで見ている。都内の他の映画館でも上映されただろうか。


 ピカデリーでの「ウエスト・サイド物語」についてソプラノ歌手の島田祐子がとても興味深いエピソードを語ってくれている(私が全篇聞き役を務めた「劇団四季半世紀の軌跡/62人の証言」所収。2003年刊)。

 

 「私は一度、芸大受験に失敗してミュージカルに力をもらったんです。合格発表を見に行った帰り、家族ががっかりすると思うとまっすぐ家に戻れずに、銀座をブラブラしてたんですね。そうしたらちょうど、有楽町のピカデリー劇場で映画の『ウェスト・サイド物語』をやっていて、人垣をかき分けるようにして見るうち、バーンスタインの音楽に圧倒されてしまって、「やっぱり頑張ろう。これで諦めてなるものか」って(笑)。当時は浪人なんてほとんどいませんでしたけれど、『ウェスト・サイド物語』からもらったパワーで一年頑張って、次の年、芸大に受かったんです。


 一九七七年、四季が『ウェストサイド物語』を再演した時、「サムホエア」の場面の〝影ソロ〟を歌わせていただきましたが、これもまた、何かの縁のような気がしています。」

 この島田の体験は62年2月か3月のことと思われる。


 1961年に製作・公開された映画「ウエスト・サイド物語」は、ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンスのふたりが監督として名を連ねる。舞台版で原案・振付・演出と三部門にクレジットされ、自他ともにクリエイティヴ・チームの統轄者、統率者を任じてきたロビンスは、映画化に当たっていくらワイズが老練だからといっても、彼ひとりには任せ切れなかったのだろう。しかしロビンスは極度の予算超過のため中途でその任を解かれてしまう。


 ワイズは、都会の只中にキャストを解き放ち、思う存分踊らせた。4年後、「サウンド・オブ・ミュージック」を映画化したとき、こんどは出演者たちを大自然の中に誘い出し、圧倒的な画面作りに成功した。「ウエスト・サイド」「サウンド・オブ・ミュージック」ともにアカデミー賞作品賞、監督賞のダブル受賞に輝いている。

スピルバーグ演出×ジャスティン・ペック振付へ、
期待は高まる


 多くの皆さんがご存知のように、ことしの年末、スティーヴン・スピルバーグ監督の手になるリメイク版が公開される。撮影は、すでに昨年9月末、終わっているという。なぜ今、「ウエスト・サイド物語」なのか。スピルバーグはいつ頃からこの題材に関心を持っていたのか。スピルバーグという名前が巨大なだけに興味尽きない。一日も早く見てみたい。


 このリメイク版では振付にジャスティン・ペックが起用されている。ペックは  1987年生まれ32歳とまだ若いが、2014年以来、ニューヨーク・シティ・バレエ団のレジデント・コレオグラファーを務めるアメリカ・ダンス界期待の星である。ロビンス及びロビンス作品と縁の深いニューヨーク・シティ・バレエ育ちだけに、オリジナルの振付はじゅうぶん体得しているにちがいない。その上でどのような新感覚のダンス、アクションを見せてくれるのか、正直いって期待半分、不安半分というところだろうか。


 最近、59年前の映画「ウエスト・サイド物語」をブルーレイ・ディスクで見直してみた。もとのブロードウェイの舞台がいかに優れているかがひしひしと迫まってくる。とりわけ革新的なレナード・バーンスタインの音楽とそれに負けず劣らず先鋭的なジェローム・ロビンスの演出・振付が一体化していることがこの耳、この目でしっかり確認できた。


 もちろん、この映画は原作の舞台の凄さを伝えるだけにとどまるものではない。シネミュージカルとしても驚くほど卓越している。一例を挙げる。目前に決闘を控え、ジェッツ、シャークス、アニタ、トニー、マリアそれぞれが「トゥナイト」の曲と詞に自らの思いを託し絶唱する「五重唱」。この場面の歯切れのいいカット割り、それがもたらす躍動感には胸が震える。


 映画公開時、ダントツの人気を集めたのはベルナルド役のジョージ・チャキリスだったが、彫りの深い顔立ち、切れのいいダンス、全身に漲るセクシーさ、すべてが今もって微動だもしない。ワイシャツの紫色が目に染みる。チャキリスは永遠です。

 

    (MUSiC PENCLUB,JAPAN ウェブサイト2020年8月号より転載)

 

公開時の映画ポスター