服部克久さんが亡くなった。長年、音楽界にあって作曲家、編曲家、指揮者の枠を超えたより大きな存在だった。80歳を過ぎても現役だったせいか、喪失感はひときわ大きい。謹んでお悔やみ申し上げる。享年83。

 

 克久さんの紡ぎ出す音楽はいつだってお洒落で垢抜けていた。親しみやすかったけれど、媚びたところはまったくなかった。その音楽的成果は見事、アルバム「音楽畑」シリーズに結晶している。

 

 東京音楽祭、日本レコード大賞などで同席する機会も多かった。大御所扱いされるのを嫌い、いつも飄々(ひょうひょう)としていた。持って生まれた性格か、育ちのよさか。

 

 その昔、父上服部良一氏といっしょにインタビューしたことがある。古いスクラップ帳からその記事を抜き出し、追悼も兼ね再録する。56年も昔の記事で、週刊朝日1964年(昭和39年)6月19日号に寄稿したものである。インタビューの場所は有楽町の旧朝日新聞ビル内のレストラン、アラスカだったと記憶する。克久さん27歳、良一先生56歳であった。合掌。

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サービス精神旺盛な作曲家

三回目の〝親子コンサート〟を開催する

服部良一・克久

 

 「こんどの演奏会の楽譜を徹夜で書きあげてきた。けさ、気がついたら、もう十時だったよ」と父親の良一氏。「ぼくもテレビの仕事で朝の五時」と息子の克久君。おたがいに仕事に追われっ放しというこの作曲家親子は、顔をあわせたとたん、こんな会話からスタートした。

 

 ところで、服部親子が「マスコミにあてがわれた仕事ばかりしていたのではダメになる」「年に一度くらい、自分のやりたいことをやろう」と話合い、ニュー・ポップスという演奏会を始めたのは三年前のこと。六月十八日、サンケイホールで開かれるコンサートで三回目になる。

 

 こんどの呼びものは、良一氏が日本フィルハーモニー交響楽団、東京混声合唱団を縦横に駆使して、ドボルジャック作曲「新世界交響曲」を指揮すること。バンジョーのソロをとり入れたり、ファンタジー風の新編曲を試みるそうだ。

 

 克久君のほうは、書きおろしのムード音楽「日本の四季」。「日本人の好きそうなムード・ミュージックのスタイルを、四つならべます」と克久君がいうのを聞いて、良一氏は「坊やもパパに似てサービス精神旺盛だね」と笑う。この親子の間には、はた目にもそれとわかる暖かい気持の交流があってこちらも、つい微笑を浮べたくなる。

 

 服部良一氏が、大阪でブラスバンドに入ったのは、大正十二年九月。まだラジオがなかった時代である。作曲家として一本立ちしたのは、日本コロムビアに入社した昭和十年から。「別れのブルース」「雨のブルース」「蘇州夜曲」「東京ブギ」「青い山脈」と戦前戦後を通じて良一氏のヒット曲は、数え切れないほどたくさんある。

 

 パリ・コンセルバトワールに学んだ克久君は、感覚的にやや高尚なきらいがないでもない。

 

 「パパの曲集を見ていると、やはり勉強になる。こんな年代に、こんな曲を作ったのか、とおどろいたりしてね」

 

 いっぽう良一氏のほうも「坊やに刺激を受けて、大いに若返らなくては……」となかなかのハッスルぶり。親子とも銀座ファンで、偶然、バーで顔をあわせ、やあ、やあ、と言いあうことも、しばしばらしい。良一氏が五十六歳。克久君が二十七歳。 (安倍 寧)

 

※週刊朝日1964年(昭和39年)6月19日号所載。

 

 今読むと克久さんに対する君付けが気になります。筆者がいかにもエラそうにしているみたいで訂正したいところです。しかし当時は、親愛の情を込めての呼称というニュアンスも多分にあったと思われます。誤解を招かぬよう一言申し添えます。

 

服部良一氏、克久氏のツーショットはかなり珍しいのでは!
今から56年前の服部親子です。