帝劇『ミス・サイゴン』5〜6月公演も中止が決まりました。
素晴らしい舞台なので是非、再見したいと思っていたので、とても残念です。
以下の原稿は中止発表前に執筆、掲載されたものです。
事態が収束し、新たな公演日程が組まれることを願ってやみません。

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一枚の報道写真から生まれた『蝶々夫人』ベトナム戦争版

 

 ご存知、実物大のヘリコプターが登場することで知られるミュージカルである。

 

 世界初演は、1989年、ロンドンだから、ミュージカルの古典と呼ぶのはいくらなんでも気が早すぎるかもしれない。しかし、そう呼びたくなる風格がこの作品には備わっている。オペラ『蝶々夫人』を下敷にした骨太のドラマがそう思わせるのかもしれない。

 

 本作登場より以前の85年、イギリスの敏腕プロデューサー、キャメロン・マッキントッシュは、パリでそこそこ評判だった『レ・ミゼラブル』を世界的な超ヒット作に仕立て上げた。作詞のアラン・ブーブリル、作曲のクロード=ミッシェル・シェーンベルクも一躍有名になった。87年にはブロードウェイ、東京でも大ヒットする。いきおい世間の耳目はこのトリオによる次回作はなに?という一点に集中することになる。その期待に応えて颯爽と登場したのがこの『ミス・サイゴン』であった。

 

 今更書くのは気が引けるくらい有名な裏話だが、ブーブリル、シェーンベルクが『ミス・サイゴン』を発想したのは、ふたりが偶然目にしたサイゴン陥落時の報道写真からだった。そこにはせめてわが子だけでもと米兵に助けを求めるベトナムの若い母親の姿があったという。ちなみにサイゴンの陥落は1975年4月30日のことである。

 

 なぜブーブリル、シェーンベルクがベトナム戦争にまつわる写真に強く惹かれたのか。彼等がユダヤ系フランス人であることと無関係ではなかろう。ベトナムがかつてフランスの植民地であったこと、そこで悲惨な戦争が続いたことに格別心を痛めていたであろうことは想像に難くない。

 

エンジニアを持ち役とする市村正親の巧みな演技の切り替え

 

 驚くのはその一枚の写真から『蝶々夫人』ベトナム戦争版を作ろうと思った発想の飛躍である。かくして長崎の芸妓、蝶々さんはベトナムの娼婦キム、米海軍士官ピンカートンは米兵クリスに姿を変え物語の主軸を担うことになる。ただし、国境、人種を越えた熱愛、ヒロインの自己犠牲という主題は変わらない。

 

 『ミス・サイゴン』の特色のひとつは、米兵と女たちとのとり持ち役エンジニアという人物の存在がどーんと大きいことだ。『蝶々夫人』の女衒ゴローが下敷と思われるが、野心家でアメリカへの強いあこがれを抱いている。ロンドン初演では、『ハムレット』などシェイクスピア劇で知られるジョナサン・プライスが演じ大成功を収めた。

 

 同様、日本でも初演以来、市村正親が持ち役として絶妙な演技を見せてきた。ある場面はシーリアス、ある場面ではコミカル、その切り替えのなんと巧みなこと!

 

 全篇を通じ十重二十重に綾なすタペストリーのような音楽が壮麗のひとことに尽きる。キムとクリスの二重唱「サン・アンド・ムーン」、エンジニアのソロ「ジ・アメリカン・ドリーム」など聴き応えのある楽曲が次々と押し寄せてくる。『ミス・サイゴン』は、物語と音楽の一体性という点で『レ・ミゼラブル』と並んでポップ・オペラと呼ぶにふさわしいミュージカルだ。

 

 キャスティングはエンジニア、キムで4通り、クリスで3通り組まれている。スケジュール表とにらめっこして切符の購入を。

 

                 ({コモ・レ・バ?} Vol.43 Spring 2020より転載)

 

    軽妙さと存在感を兼ね備えた市村正親のエンジニアは絶品です