和田誠さんの作品にはイラストレーションにしろ本の装丁にしろ音楽と隣り合わせのものが多い。耳を澄ますと、いや改めて耳を澄ますまでもなくその紙背から音楽が聞こえてくる。1977年5月12日号から手掛けてきた週刊文春の表紙の通しタイトルが、〝表紙はうたう〟なのが、もっとも端的にその事実を裏付けしてくれている。かならず描いた題材にふさわしい楽曲の題名が添えられているのだ。

 

 原則的には実在する画材優先で、札幌・二見公園の河童像なら美空ひばりの「河童ブギウギ」というふうに。楽をしようと(?)題名優先で雪村いづみの「ブルー・カナリー」を画いたときは、あとで青色のカナリアは存在しないことが判明し、ちょっと困ったと書き残している。

 

 和田さんの絵は日用品からハリウッド・スターまでなにを画いても洒脱そのものだった。しかし、お洒落過ぎない。線、色遣いに暖かみがあるからだ。彼の体温が反映していると見る。

 

私は単行本「Portrait in Jazz」及びその「2」のジャズメンの似顔絵が大好きだ(文章は村上春樹氏)。ルイ・アームストロングの大きな口と白い歯、トニー・ベネットのイタリア系らしい大きな鼻。

 

 1960年に手掛けた「ハイライト」のパッケージデザインについて池澤夏樹氏がこう書いていた(毎日新聞所載「時代が求めた粋な人」)。

 

 「高度経済成長の日本を表現したのは『ハイライト』の明るい青であり、斜体小文字ハイフンつなぎのあのフォントだった」

 

 才気の塊のような人だった。本業のかたわら映画、音楽について多くの文章を残している。映画監督作品は「麻雀放浪記」など計5本。作詞作曲、ショウの構成までこなした。なにをやっても飄々たる風情が作品から消えることはなかった。もう一度いう。彼の体温、すなわち人柄故である。

 

 個人的な回想をひとつ書く。劇団四季取締役として『クレイジー・フォー・ユー』日本版上演に関して交渉の任に当たっていたときのことだ。私はプロデューサーやガーシュウィン家遺族から、「アイラ・ガーシュウィンの言葉遊び、ニューアンスは日本語に移し替えられるのか?」という疑問を執拗に投げ掛けられた。万葉集以来の詩歌の伝統、大衆層への俳句の浸透などいささか見当違いかもしれない例証を挙げ、防戦にこれ努めたものだが、心中密かに期するところがあった。「ミュージカルを通して、アイラの作詞、ジョージの作曲が一体となったガーシュウィン兄弟の楽曲を紹介するには、和田誠の手を借りるしかない。彼が協力すれば絶対成功する」と。

 

 ガーシュウィン兄弟の曲だけではなくスタンダード・ナンバーについての知識、理解、訳詞などすべての能力において彼に優る人はいないと信じていたからだ。結果的に彼は21曲中12曲を訳してくれた。「But Not For Me」の♫恋は枯木/まるで瓦礫/ロシア悲劇/以上ね……のくだりなど、いちど耳にすれば生涯忘れられない名訳だ。

 

 夫人の平野レミさんの証言によると「うんうん唸りながら、でも楽しそうにやっていた」そうだ。

 

 和田さんにはひっそりと出版した句集が一冊ある。題名は真っ赤ならぬ「白い嘘」。罪のない嘘という意味の英語White lieにのっとったもので、写生句を集めた句集ではありませんよという内意も含んでいるらしい。

 

 肌寒やテリー美空の股火鉢

 

 しかし、この一句など場末のストリップ劇場の楽屋風景をほうふつとさせ余りある。

 

 和田さんは友人知人にこの句集を贈る際、一冊々々にもらう相手に因んだ句を添えるという七面倒臭いことをやってのけた。私に贈られた句集には

 

 名月のサス落ちて今、世は舞台

 

 とあった。

 

 サスは舞台照明器具サスペンション・ライトの現場用語、「世は舞台」はシェイクスピア『お気に召すまま』の有名な科白「この世は舞台、人は皆役者」に拠る。人工の月が消え、観客が舞台から現実に引き戻された瞬間を捉えた句か。虚構と実人生の間合いに思いを馳せた一句といえる。

 

  才智の人和田誠は優れた人生観照者でもあったのだ。2019年10月7日没、享年83。(劇団四季会報誌「ラ アルプ」12月号より転載)

 

絵も文章も才気あふれていたのに、才人ぶったところがまったくない人柄だった。    来年3月3日、お別れの会があります。