残念ながら受賞には至らなかったが、渡辺謙がイギリス最高の演劇賞オリヴィエ賞ミュージカル主演男優賞にノミネートされ、他の3人の候補者と競い合ったことは、特筆されてよい出来事である(4月7日発表)。対象となったのは、去年、約4ヶ月演じた『王様と私』のシャム王役であった。初めてのロンドンの舞台でいきなり主演男優賞候補とは並の俳優のできることではない。

 

   もともとブロードウェイ発のプロダクションなので、科白はすべて英語だし、不慣れな歌、ダンスにも挑戦した。何本かハリウッド映画の経験があるとはいえ、それと生の舞台出演とはわけが違う。稽古、本番を通じて日々血の滲むような努力があったはずだ。

 

  2015年のニューヨーク公演の際も全米一の演劇賞トニー賞のミュージカル主演男優賞にノミネートされた。このようにブロードウェイ、ウエストエンド両方で渡辺の演技が高く評価されたのは、東西文化の狭間で思い悩むシャム王の心情を見事に血肉化してみせたからだ。王の苦悩が集約されているナンバー「ア・パズルメント」はとりわけ圧巻だった。そして、家庭教師アンナとのデュエット曲「シャル・ウィ・ダンス」の、踊りを含めてなんと鮮やかだったこと!

 

  特に強調したいのは、渡辺の表現力がニューヨークよりロンドンのほうがより深みを増したことである。

 

  イギリスつながりの渡辺謙の話題をもうひとつ。日系英国人作家カズオ・イシグロ原作のテレビ・ドラマ「浮世の画家」(脚本藤本有紀)である。渡辺は主人公の画家小野益次を演じた(NHK8Kスペシャルドラマ、BS8K 3月24日、総合テレビ同30日)。

 

  天性の画家小野は若くして頭角を現わすが、太平洋戦争中、戦意高揚の作品を手掛けたため、戦後はそれを悔い隠遁生活を送っている。時代とともに揺れ動く主人公の内面は複雑極まる。すなわち渡辺がとり組んだこの役はとんでもない難役なのだ。一国を背負って立つ王の内面を表現することもたやすくないが、芸術家の内奥に迫ることはそれに劣らぬ難事だったろう。

 

  劇中、主人公が橋の上を行きつ戻りつしつつ、ふと涙する場面がある。なかにし礼がその個所をとり上げ、「このあたりの芝居が渡辺謙は実に上手(うま)い。その涙までがいい。(サンデー毎日4月14日号、連載エッセー「夢よりもなお狂おしく」)と褒めちぎっていた。同感である。

 

 できれば、この大作ドラマ、8Kで見たかった。渡辺謙の演技力なら最新の技術に負けるどころか、より輝いて見えたにちがいない。

 

   (オリジナル コンフィデンス  2019/4/22号 コラムBIRD’S EYEより転載)