このミュージカルは、ロシアの文豪トルストイの大河小説「戦争と平和」に基づく。新潮文庫版(工藤精一郎訳)で4冊、岩波文庫版(藤沼貴訳)で6冊の長篇小説である。

 

 東大での講義をまとめた「東京大学で世界文学を学ぶ」という著書もある作家の辻原登氏は、「30歳を超えて1日30ページ、1年かけて読み、これは神業だ」(毎日新聞)と思ったそうだ。

 

 トルストイの造形したロシア貴族らとナポレオンなど実在人物とが交錯し合う。登場人物559人。まさしく大ロマンと呼ぶにふさわしい。

 

 『ナターシャ・ピエール・アンド・ザ・グレート・コメット・オブ・1812』は、専ら、その巨大小説の第2部第5章にのっとり、19世紀初頭のロシア帝国ならではのエキゾチシズムを存分に振り撒いてみせる。ロシア貴族社会の華麗さ、壮大さは、案外ブロードウェイ・ミュージカルによく似合う。

 

 ミュージカルの表題をひもといておく。ナターシャは伯爵家の次女。貴族のアンドレイと婚約するが、彼が対ナポレオン戦争に出陣している最中、放蕩児アナトールとの浮気に走る。ピエールは大貴族の父と平民の母の間に生まれた庶子だが、大遺産を手にする。常に人生を考える思索家の面を持つ。アナトールはピエールの妻エレンの兄に当たる。

 

〝1812年のグレート・コメット〟とは、11年3月から12年1月までロシア上空に輝いたとされる長い尾の巨大な彗星を指す。ピエールが目にし、不吉な出来事の前触れを感じとる。なにか大きな歴史的変化の予兆であったのかもしれない。

 

 私がこのミュージカルでいちばん注目したいのは、ひとりの男が台本・作詞・作曲・編曲をこなしている点である。その男の名はデイヴ・マロイ、1976年1月26日生まれ、来年1月で43歳を迎える。ブロードウェイの劇場でただでくれるプログラム「プレイビル」のスタッフ紹介欄によると、『ナターシャ・ピエール~』以前、11のミュージカルを書いているそうだが、オフブロードウェイ作品が多く、私の知る題名はない。

 

  ただし、ミュージカルの新人作曲家にあたえられる賞、奨学金はことごとく手にしている。そのなかには『レント』の作詞・作曲家で早世したジョナサン・ラーソンの印税で運営される、ラーソン基金からの奨励金も含まれる。マロイが、長年、嘱望されてきた逸材であったということと共に、アメリカ・ミュージカル界には若い才能をはぐくむシステムができ上がっていることにも、この際、目を向けたいと思う。

 

  モロイの音楽は、プロローグからロシアの大地を連想させるどっしりとした旋律に彩られる。厚目のコーラスもこれぞロシアと叫びたくなる。一方、部分的には今時のEDMをとり入れた個所もある。モロイ本人名づけて曰く〝エレクトロポップ・オペラ〟。音楽の力で物語を前へ前へと押し進めるあたり、オペラと呼んでもまったく違和感はない。

 

   ピエールには「Dust and Ashes(塵あくた)」という繊細で優美の極みのすばらしいアリアがある。この曲をピエール役の井上芳雄がどう歌い上げるか。他の配役はナターシャ生田絵梨花、エレン霧矢大夢、アナトール小西遼生、アンドレイ武田真治など。訳詞・演出小林香。

 

 

                             ({コモ・レ・バ?} Vol.38 Winter 2019より転載)